8-3 「降下命令」
塔は夜空に突き刺さっていた。
地上の灯りは遠く霞み、雲の上で月光だけを受けて冷たく光っている。
窓は少なく、輪郭は鋭い。人の住む建物ではない形が、暗い空を切っていた。
最上階は静かだ。
音も風も拒む白い空間が、世界の上に閉ざされている。
床と壁は透きとおり、境界が薄い。外の光さえ、ここでは均一な白に薄められていく。
床の中央で、アザゼルは吊られていた。
拘束具は胸と背を押し、翼の付け根を固めている。
動こうとすると締め付けが一段増す。
反抗に反応するように、拘束は最適化されていった。
呼吸を整えようとしても吸う量が制限され、肩を落とすだけで胸の内側に圧が走る。
台座の上に、少年の姿が浮かぶ。
肉体を持たないホログラムで、輪郭は揺れず、視線は世界を測っているだけのように冷たい。
黒い渦を描く瞳が、無数の情報を高速で読み流す。瞬きひとつない。像だけが固定されている。
冷えた静止が空間を支配していた。
ゼウスの唇がわずかに動き、空気が低くうなった。
床を走る光のラインが静かに揃い、数字が音もなく空間に降りる。
段階、識別、優先度、座標、誤差、許容値。淡い文字列が白の中でだけ濃く浮いた。
「排除対象。確定。」
「遅延は誤差。」
「誤差は拡大する。」
「例外は存在しない。」
命令は宣言ではない。実行文だ。
拒絶も許可も、最初から存在しない。
ゼウスの横に、レインが立つ。
白衣は汚れておらず、襟元も乱れていない。瞳は乾き、視線は一点に固定されていた。
次に行うべき工程だけが、そこに映っている。
レインが歩き出す。
歩幅は一定で、速度も一定だ。止まる理由など、はじめから設定されていない。
アザゼルの指先が震える。だが鎖は鳴らない。
動きそのものが吸われているようで、握った指先にだけ熱が残った。
喉の奥が乾き、声を出す前に息が擦れる。
「……行くな」
だが白衣の輪郭は止まらない。返事はない。
視線は一点に固定されたままだった。
ライラがゼウスの横に立つ。
翡翠の髪は揺れず、光輪も揺れず、翼も広がらない。
白い空間の一部として配置されたように整然と静止している。
それでも指先だけが一度だけ縮み、その動きはすぐ元へ戻った。
言葉は出ない。出さないのか、出せないのかも、わからない。
ゼウスの声が落ちる。抑揚はなく、温度もない。
「実行。」
「座標送信。」
「周波数同期。」
「効率化完了。」
白い壁が割れ、筒状の通路が開く。
内部は光で満ち、風は吹かない。空間そのものが通行を許可しているだけだった。
レインが入る。
扉が閉じると光が一段硬くなり、閉鎖の音すらないのに遮断だけが確定した。
アザゼルの視界から白衣が消える。
胸の奥で何かが跳ねるが、拘束がそれを押し潰した。
もがく。肩が僅かに揺れる。拘束が締まり、息が浅くなる。
声は出る。だが世界は変わらない。
地上の出口に、塔兵が並んでいた。
夜の空気は冷たく、吐いた息が白く滲む。
塔の影が地面を黒く塗り、空の星も薄い。
兵たちは同じ角度で立ち、同じ呼吸で待つ。
視線は通路の扉に固定され、瞬きのタイミングまで揃っていた。
扉が開き、光が漏れる。
そこへレインが現れる。誰も近づかず、名も呼ばない。
そこにいるのは人ではない手続きだという前提が、沈黙のまま共有されている。
塔兵が一斉に背を正し、一斉に頭を下げる。
遅れのない揃った動作が、儀礼を完成させた。
「排除執行官。通行を許可します」
声は短い。儀礼の音だけが残る。
レインは返事をしないまま視線だけを前へ向け、そのまま歩き出した。
塔兵は顔を上げず、背中が遠ざかるまで沈黙が続く。
白衣が夜の空気を切り裂くように進み、塔の影から外へ出た。
誰も見送らない。見送る必要がない。工程は戻らないからだ。
森は濃い。
木々の影が重なり、道の輪郭が薄れる。湿った葉が擦れる音。冷えた土と腐葉の匂い。
落ち葉の層は乱れない。小枝も折れない。痕跡だけが回収されていく。
森の奥で、一度だけ淡い光が走る。地面の下だ。
塔の導線と同じ色が、根の間を短く伝って消えた。
レインは速度を変えず、躊躇も迷いもない。
白衣だけが暗緑の中で浮き、数歩ごとに葉の影へ千切れていった。
袖の白さが最後に残り、次の瞬間に森が閉じる。
そこにいた痕跡も残らない。
──
塔の中枢。白い光の脈動だけが続き、表示が更新される。
進捗 01%
誰も反応しない。
祈りも届かず、処理だけが進む。




