7-2 「名を呼ぶ声」
天使と悪魔が向かい合っていた。翼と翼がぶつかり合う寸前で、空気だけが張りつめている。
誰も動かない。
ただ、武器の刃と羽根だけが、光を返していた。
中央に、ルシファーとアザゼルが立っていた。互いの軍の一歩前。
一歩間違えば、どちらかが戦端になる位置だった。
ルシファーが肩をすくめる。
「……どうするよ、アザゼル。
互角のまま睨み合い続けるか?」
笑っているのに、その声だけは冷たかった。
アザゼルは答えない。残った右の拳を、ぎゅっと握り直す。
骨ばった指先が、白くなる。
沈黙が、戦場全体をさらに重くした。
ルシファーが溜め息をひとつ吐いた。
「ここまでやって、振り出しだぜ。ゼウスは上で高みの見物。……つまんねぇ構図だな」
アザゼルの仮面が、かすかにルシファーの方を向く。
銀の面の亀裂の奥で、何かが揺れた気がした。
ルシファーは目だけで周囲を見回す。
天使の列、悪魔の列、そのさらに後ろ。
ナユタたちは、ルシファーの数歩後ろに並んでいた。
星を散らした瞳が、じっとアザゼルを追っている。
「なぁ、アザゼル」
ルシファーの声色が変わった。口元から、笑みがすっと消える。
「お前、いつナユタを迎えに来るつもりだよ?」
天使たちがざわついた。悪魔たちも、目線だけをわずかに動かす。
アザゼルだけが動かない。
沈黙。
アザゼルの拳が、ぎゅっと握り込まれた。
指の関節が、ごきりと鳴る。
ルシファーは続ける。
「もう十年だぜ。そろそろ来てもいいんじゃねーの?」
割れた仮面の奥の瞳が、かすかに揺らいだ。
それだけで、ルシファーには十分だった。
「逃げてんじゃねぇよ」
ルシファーの笑みが消えたまま、声だけが低くなる。
戦場の真ん中で、ただの一人の男の声になった。
「お前のその片方しかねー腕で、抱きしめてやれよ──」
一拍置いて、ルシファーは吐き捨てるように叫んだ。
「テメーの息子だろうが!」
空気が弾けた。
羽音も、鎧の擦れる音も、一瞬で遠のいた。
ナユタの肩がびくりと跳ねる。
耳鳴りの向こうで、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いた。
「……いま、なんて……?」
ナユタの唇が震えた。
視線は、ただアザゼルの仮面だけを捉えている。
割れた銀の面と、黒いコートの胸元。
まだ見慣れていないその輪郭が、さっきまでとは違うものに見えた。
アザゼルは動かない。視線をこちらへ向けようともしない。
静寂だけが、彼の周囲にまとわりついていた。
ルシファーが舌打ちした。
「……チッ。口が滑った」
それでも視線は逸らさない。
アザゼルの仮面を真正面から射抜いたままだ。
ナユタの喉が、かすかに鳴る。
声にならない声を、やっと押し出した。
「……と、お……さん……?」
その一言に、戦場の時間がきしむように止まった。
天使たちの翼が、わずかに揺れる。
悪魔たちの息が、ひとつひとつ浮き上がる。
誰も動けない。
アザゼルの右の拳が、さらに強く握り込まれた。
肩口の影が、わずかに震える。
仮面の奥の瞳だけが、誰にも見えない場所で揺れていた。
握りしめた右の拳が、ほんのわずかにほどけかけた。




