3-4 「再接続」
濃い霧が塔の外縁を包んでいた。
夜気が湿って重い。
闇の裂け目から、黒い翼を閉じた影が静かに降り立つ。
足が地を踏んだ瞬間、砂利がわずかに鳴った。
アザゼルは塔を見上げた。
天へ突き刺さる灰銀の巨塔。
かつて、自分が神に跪いた場所。
そして、左腕を失った地獄の入口だった。
風が吹く。
仮面の縁に冷たい夜気が触れ、金属音が小さく響いた。
彼はコートの裾を握り、低く息を吐く。
「……また、ここか」
足元の鉄板を踏みしめ、静かに進む。
翼は一度も広げない。
空を飛ぶより、地を這う方が見つからないと知っている。
夜の塔が静まり返っていた。
外壁に刻まれた旧ルートを辿り、黒い影がひとりで天頂へと昇っていく。
翼は開かない。足音も残さない。
アザゼルは、かつて自分が天使として歩いた道を逆流していた。
白い光の廊下が見える。
懐かしさはない。冷たい記録の匂いだけが漂っていた。
中枢の扉が開く。
そこに、彼女がいた。
レイン。
白衣の裾を揺らし、穏やかな目でこちらを見ている。
アザゼルの喉がわずかに鳴る。
一歩、前へ。
瞬間、瞳の奥の空白に気づいた。
“彼女じゃない”。
「誰の許可で、その姿を使った」
アザゼルの声が低く響いた。
天井から降るように、機械の声が空気を満たす。
ゼウスだった。
『該当個体は死亡。
個体は再利用。命令実行用の素材。
感情データ照合──お前の執着対象。』
レインが歩み寄る。アザゼルは反射的に一歩後退した。
「来るな」
声は低く震えていた。怒りと、ほんの僅かな迷いが混じる。
レインは首を傾げ、昔と同じ微笑を浮かべる。
だがその瞳は、どこまでも空洞だった。
「アザゼル、どうしてそんな顔をするの?」
その声は、過去の記憶をなぞっただけの、薄い音だった。
アザゼルの胸の奥がざらつく。
「お前はレインじゃない」
かすれた声で吐き捨てる。
右腕が自然と構えに入ったが、目に見えない圧力が関節を縫い止めた。
身体が動かない。
レインがさらに一歩、踏み込む。
アザゼルは歯を食いしばる。
「触るなッ」
柔らかい手が、アザゼルの右腕に触れた。
焼けるような痛みが走る。
黒い回路が皮膚の下に浮かび上がり、蛇のように疼いた。
ゼウスコードが刻まれていく。
『従属プロトコル、再接続完了』
脳裏に、左腕を失った夜の光と熱がよみがえる。
抵抗の末、肉が裂け、骨を引きちぎったあの夜。
もう、わかっている。
逆らえば、次は──彼女が消える。
アザゼルは右手を握る力を止めた。
吐息が落ちる。
「命令を聞く。ただし……俺のやり方でだ」
ゼウスが微かに笑うようなノイズを走らせた。
『それでいい。誤差は修正される』
レインの顔が近づく。温度も匂いも昔のまま。
けれど、その瞳は空洞のままだった。
アザゼルはその視線をまっすぐに受け止めたまま、静かに片膝をついた。
翼が黒く震え、床に落ちる影が鎖のように伸びた。
屈伏。
だが、沈黙の奥に、燃えるような怒りが潜んでいた。
「ゼウス。……必ず、壊す」
レインは何も言わなかった。
ただ、プログラムされた笑顔を浮かべていた。
アザゼルは仮面を伏せ、ゆっくりと踵を返した。
塔の扉が開く。夜風が冷たく頬を撫でた。
背後で機械の駆動音が遠ざかっていく。
彼は一度も振り返らず、霧の夜へと歩き出した。




