プロローグ「螺旋の誓い」
ゼウスが実権を握る街──ムレイア。
世界の心臓は、ここにある。
鉄骨と排水管が頭上を走り、湿った空気が肺にまとわりつく。
濡れた地面は鈍く光り、ネオンの灯りが歪んだ影を路地に落とす。
どこからともなく水滴が落ち、夜の暗がりに小さな音が溶けていく。
路地の奥でかすかに靴音が鳴り、生温い空気が肌に貼りついた。
ここは下層街。空は見えず、頭上には空をふさぐ巨大な天井が広がる。
その天井の上に、もうひとつの街──上層街。
乾いた風が音もなく通り抜ける。まっすぐな道と、同じ高さの建物が並ぶ。
窓の列は均一に揃い、街灯は一定の間隔で規則正しく光る。
整いすぎた街並み。息を潜めるような静けさが漂っていた。
誰も言葉を発せず、足音だけが街を満たす。
すれ違う人々は、黙って前を向いて歩き続ける。
その流れの中で、ひとりの男がふと、空を見上げた。
風が止まった、そんな気がした。
視線の先に、黒い塔がそびえる。
外壁は黒と銀に光り、雲を突き破るようにまっすぐ伸びている。
塔の中腹には厚い雲の層がかかり、その上は光に包まれて見えない。
夜になると、青白い光が塔の外壁を縫うように走る。
その光は雲を照らし、空全体を支配するかのようだった。
その塔は、この世界の心臓だった。音もなく、確かに、世界を縛り付けている。
雲の向こう、誰も踏み込めない領域がある。
雲の上に突き出た区画、塔の65階、研究室。
無機質な白い壁と金属床に囲まれていた。
空調の風が細く流れ、音もなく冷気が肌を撫でる。
天井の無機質な照明が床をまっすぐ照らし、影を許さない。
レインは培養槽の前に立ち、透明なパネルを指先で滑らせた。
青白い液体がかすかに揺れ、頬に冷たい光が差す。
その横顔には、迷いが一片もない。
「認証──完了」
ゲートが開き、低く重い音が空気を震わせた。
黒い外套をまとったアザゼルが、ゆっくりと中に入る。
無表情な仮面の奥から冷たい視線が走り、肩まで伸びた黒髪が揺れた。
左腕のない影が床に伸び、冷たい空調音だけが空間を満たした。
「この匂い、忘れたくても忘れられないな」
わずかな沈黙。
レインは冷たい瞳で彼を見た。
その奥に、一瞬だけ優しさが滲む。
「当然よ。ここは“選ばれた者”の場所だから」
アザゼルが一歩踏み出す。
センサーが足元で淡く光り、白い空間に黒い影がくっきりと落ちた。
「始めるのか」
「ええ」
スクリーンに二つのDNAが映し出される。
アザゼルとレイン。
ふたつの螺旋が静かに絡み合い、形を成していく。
「あの日捨てた血が、こんな形で使われるとはな」
アザゼルが小さく息を吐く。
その声には怒りも誇りもなく、ただ冷たい重さだけが滲んでいた。
レインは一瞬、彼を見上げて微笑む。
「瞳に星を宿らせるには、その血が必要なの。神に抗う光を、生まれさせるために」
レインは黙ったまま、端末の操作を続けた。
青白い光が一定のリズムで点滅する。
──ナユタ。
やがて、この世界を揺るがす存在となる小さな命だった。
本日18時に一章公開予定!!




