3-3 「別れの灯」
ルシファーとアザゼルの視線が、ほんのわずかにナユタからそれた。
地下の空気が緩み、群れの中に沈んでいたざわめきが再び動き出す。
闇の奥から、ざらついた音がした。
「……グシ」
壁の隙間から角のある影が顔を出す。
それを皮切りに、細い通路から、床下の穴から、小さな悪魔たちが一斉に姿を現した。
床の上で、ナユタは静かに横たわっている。
両手をもぞもぞと動かし、闇のざわめきに反応していた。
「チイサ……」「アタタカ……」
悪魔たちは輪を描くように近づき、低い声で囁く。
さっき“食おうとした”衝動は、すでにどこにもない。
群れ全体が、さっきの一撃で学習していた。
一匹の悪魔が、尻尾の先でナユタの頬をそっとつつく。
別の悪魔が、指先でナユタの足をくすぐる。
さらに一匹が毛布を引っ張り、残りの数匹が髪をくるくるといじり始めた。
ナユタはびくりと体を震わせ、小さく指を握る。
「……フフ」
かすかな声が漏れたように聞こえ、群れがいっせいに身を乗り出す。
「モッカイ……」「ウゴイタ……」
地下の空気が笑いとざわめきで膨らんでいく。
ルシファーが眉をひそめ、ため息を吐いた。
「お前ら、世話係にでもなる気か?」
その一言に悪魔たちはピタリと動きを止め、目を見合わせて肩をすくめる。
その横で、アザゼルは仮面越しに黙って群れを見下ろしていた。
目の奥は読めない。
ただ、左腕の包帯がきしむようにわずかに動いた。
沈黙は、叱責よりもずっと重く、群れは自然と距離を取った。
「赤ん坊がここに転がってるなんて、前代未聞だな」
ルシファーが口の端をわずかに上げた。
群れのざわめきが一気に弾け、濁った笑いが地下にこだました。
笑いが徐々にしぼみ、再び地下に静けさが戻る。
ルシファーはアザゼルの横顔をちらっと見やると、声を落とした。
「……で、これからどうするつもりだ?」
軽口ではない。いつもの冗談めかした響きが、ほんのわずかに消えていた。
視線の先には、毛布にくるまれたナユタ。
地下に満ちる空気が、いたずらの熱から現実の重みに切り替わっていく。
沈黙が落ちたまま、二人はしばらく動かなかった。
湿った壁を伝う水滴の音だけが響いていた。
ルシファーが片眉をわずかに上げ、隣に立つアザゼルの横顔を盗み見る。
仮面の下にある表情は読めない。
だがその視線が、ナユタから離れようとしないことだけは、はっきりと分かった。
「ゼウスの科学者が、気になるのか」
ルシファーが低く、からかうような声を落とす。
その言葉は軽い。だが地下に響いた声は妙に鋭く、空気の底に沈んだ。
アザゼルは何も答えなかった。
ただ、毛布の中で眠るナユタの胸の上下を見つめ続ける。
かすかな寝息が静寂に溶け、そこにある命の温度だけが、この空間を確かなものにしていた。
「行くのか?」
ルシファーの声が少しだけ真面目な色を帯びる。
アザゼルは短く、だが迷いのない動きで頷いた。
彼はナユタの傍に膝をつき、右手で毛布を軽く押さえた。
ナユタは眠ったまま、わずかに眉を寄せる。
小さな手が母の温もりを求めるように震えた。
その仕草を見て、アザゼルの視線がほんの少しだけルシファーに向けられた。
「……俺に託すってわけか」
ルシファーは肩をすくめ、冗談めかして言う。
声は軽い。だが、その目は笑っていなかった。
「一緒に行こうか? 戦友だろ?」
ルシファーの声が空気を震わせた。
軽い調子の裏に、微かな揺らぎが混じっていた。
アザゼルは何も言わなかった。
ただ一歩、後ろへ下がる。
その動作だけで十分だった。答えを言葉にする必要はなかった。
ルシファーの表情から笑みが消える。
「ったく、頑固なやつだ」
吐き出した声には、怒りでも皮肉でもない、重く沈んだ色が滲んでいた。
アザゼルは背を向け、足音を立てずに歩き出した。
灯りの少ない地下の通路が彼を飲み込んでいく。
外から差し込む光はない。
ただ遠くの水音だけが、彼の背中を押していた。
ルシファーはその背中をしばらく見送った。
アザゼルは振り返らない。言葉も残さない。
その沈黙が、言葉よりもずっと強い決意を語っていた。
静まり返った空間に、ナユタの小さな寝息だけが響く。
薄暗い灯りが毛布の端を揺らし、悪魔たちの影が天井に映っていた。
先ほどまでのざわめきは消え、地下はただ、夜のように静かだった。




