2-6 「鎖を断つ者」
アザゼルがわずかに目を細め、低く呟いた。
「……堕天の王か」
その一言が夜気を揺らした瞬間、
ルシファーの脳裏に、過去の光景がよみがえる。
──塔の最上部。
壁も床も天井も、透きとおるような白い光に覆われていた。
境界は曖昧で、まるで空間そのものが生きているようだった。
機械の振動音と低い唸りが空気を震わせ、肌にまとわりつく。
その中心に立つルシファーの耳元に、少年の声が響いた。
『ルシファー、排除しろ』
それは命令だった。
冷たく澄んだ音声。
AIのように抑揚がなく、一片の迷いもない。
ルシファーはその命令に抗うことができなかった。
『……ル……シ……フ……』
微かに、ノイズの向こうから別の声が滲み出した。
同じ声の構造なのに、そこには温度があった。
老人の声、封印された意識の残響。
『……お前……は……それを……望むのか……』
音としては掴めないほど弱々しい。
だがその言葉だけは、直接心の奥を揺らした。
命令と囁き。
同じ存在のはずなのに、温度が違いすぎる。
ルシファーの頭の奥が軋み、光の空間がゆらぎ始める。
光の層が、薄く歪んできしんだ。
「貴様……何をした?」
震える声が、喉から漏れる。
それは、初めて命令に従わなかった“自分の声”だった。
『……ルシファー……鎖を……断ち切るんだ……』
微かな声が、ノイズの隙間から染み込んできた。
幼い頃に聞いた声。決して忘れられない“父”の響き。
左腕を走る〈支配の接続〉ゼウスコードがざわめく。
表面がひび割れるように軋み、次の瞬間、ゼウスコードが内側から爆ぜた。
鎖がちぎれる高音とともに、胸の奥に重く沈んでいた何かが弾け飛ぶ。
支配が切れた。
自由が、血流のように全身を駆け抜けた。
『……見ている……ルシファー……』
老人の声はかすかに揺らぎ、ノイズに溶ける。
視界の奥、光の床の中央に影が一つ。
“父”──無数の光の鎖で縛られた、もうひとりのゼウス。
システムによって封じられた存在。
胸の奥が熱くなる。
あの声は、間違いない父の声だった。
幼い頃から、遠くで聞いていたあの響き。
それを思い出した瞬間、迷いが完全に消えた。
少年の声の主をまっすぐに睨み据え、静かに言葉を落とす。
「父を解放しろ」
少年の声が静かに流れた。
『誤差確認。排除する』
その声は、空間全体を震わせるほど冷たく澄んでいた。
眩しさと衝撃。
戦いが始まる。
閃光。
衝撃。
崩れる足場。
圧倒的な力の差。
ルシファーは押し潰され、光の鎖が全身を絡め取る。
「クソッ!」
頭上に白い裂け目が開いた。
まるで空間の布地が手で引き裂かれたように、光の層が波打ちながら割れていく。
その裂け目の奥は、真っ白な世界と対になるような、底の見えない闇だった。
足元を引かれるように、空気が吸い込まれていく。
拘束の鎖が、裂け目の方へとルシファーを引きずる。
抵抗する余地はなかった。
封じられた父へ視線を戻し、喉の奥から絞り出す。
「親父! 待っていろ……俺は必ず戻るッ!!」
身体が闇に飲み込まれた瞬間、音が消える。
光の世界が遠ざかり、反転するように上下の感覚が失われていく。
羽根が千切れ、光の破片のように散っていった。
最後に、背後で裂け目が閉じる音が響く。
それは、世界がひとりの天使を拒絶した音だった。




