EP18
《10時53分》
地下の線路は静寂に包まれ、響くのはただ私達の足音だけだった。私は草山夫妻と共に、暗闇の中を慎重に進んでいく。
懐中電灯の光が枕木の上を淡く撫でるたび、埃が宙を舞った。
「樹太朗は……少し変わった子でしてね」
夫が、歩きながら静かに口を開いた。
「人と話すのが苦手で、いつもゲームばかり。それでも勉強はしっかりやってね……」
隣で妻が苦笑する。
「普通の子は、ほら、ゲームに熱中すると勉強を疎かにしがちでしょう?あの子はそういうところで、ちゃんと結果を出すのよ」
その語り口には、我が子への確かな愛情が滲んでいた。
私は静かに頷き、口元を緩めた。楽しそうに話す二人の様子に、心がじんわりと温まるのを感じた。
「……必ず、見つけましょうね」
私の声に、妻は潤んだ瞳で頷いた。
「ええ……きっと、待っているはずです」
その**「待っている」**という言葉に、私の胸は痛んだ。アイリスも、最後の瞬間まで待っていたのだ。迎えに来るはずの母を信じて……。
ああ、駄目だ。どうしてもあの子のことを考えてしまう。
私は唇を強く噛みしめた。
どれほどの時間、線路を歩いただろうか。
何分、何十分。
長く湿った暗闇をようやく抜けると、遠くの先に淡い光が見えた。
三人は顔を見合わせ、わずかに笑みを交わしてから階段を上る。息を吸い込むたびに、空気の質が変わっていくのを感じた。
私が最初にホームドアを乗り越え、腕に力を込めてホームへと上がった。次に母親を、そして最後に父親を引っ張り上げる。
「ありがとう、七尾さん」
「いえ。では……急ぎましょう」
妻は少し汚れてしまった服を払い、辺りをきょろきょろと見渡す。当然ながら、そこに息子の姿はなかった。
夫が、何かを聞きつけたように耳を澄ませる。
「どうしましたか?」
「な、何か東口側で、音が聞こえませんか?」
私はすぐに尋ね返した。その言葉を信じ、私も妻も耳を澄ませる。確かに、微かに人の声が遠くから聞こえてくる……。
「行ってみますか」
二人の顔を見合い、力強く目が合ったのを確認すると、私は先頭を歩き、東口側の階段を登った。私たちはゆっくりと、音を立てないよう自然と歩を進めた。
廊下を通り、改札機が見えると――外の明かりが見えた。
その改札機越しに映ったのは、かつての街の残骸だった。折れた電柱、割れたアスファルト、そして――無数の銃が、地面を覆い尽くしている。
風が吹くたび、金属が触れ合い、乾いた音を立てる。
「……ひどい……わ……」
草山の妻が呟く。私はその声に返すこともできず、ただ前を見据え、改札機を通り過ぎた。
一歩を踏み出すと、息を止めた。
東口出入り口から少し離れた広場で、人影が見えた。
四人の男が対峙している。
その中央に立つのは、七三分けの男。乱れた髪に乱れたスーツ。手には銃を持っているが、その手はしっかりと固定されていた。
彼の前には三人。
一人は足を引き摺っていて、その右肩を支えているのは、警察官だろうか、制服を着た男。彼の手に銃は見えたが、垂れ下げられていた。
そして、もう一方の肩を支えているのは、白髪の混じった男……いや、よく見ると、見たことのある姿だった。あの人は安東さんではないか?
私は夫妻を庇いながら、静かに身を低くした。
「だ、大丈夫なのかしら……」
「ま、まず、状況を見ましょう。危なそうでしたら、すぐに引き返しましょう!」
風の音が遠ざかり、代わりに彼らの声だけが耳に届く。
七三分けの男がゆっくりと口を開いた。その声は冷たく、どこか狂気の光を帯びていた。
「君たちは今更**『新常識』**では生き残れないんだ。だから――大人しく死んでくれないか」
言葉は、まるで呪文のように滑り出た。私の背筋に冷たいものが走る。
足を痛めた男性が怒鳴った。ここからは後ろ姿しか見えず、表情は窺えない。ただ、彼らが明確な対立関係にあることは察することができた。
「うるせぇよ!人を躊躇いなく撃つ奴が、常識を語るな!」
警察官の男もすぐに続いた。
「ああ、本当にそうだ……お前は人を殺した。然るべき罰を受けるべきだ」
その声には、職務の意地と人としての怒りがはっきりと伝わってきた。
七三分けの男はわずかに口角を歪める。
「罰?それは旧世界の話だよ。この世界では、力を持つ者が常識なのだよ」
静寂が落ちた。風が吹き抜け、金属の音がかすかに鳴る。この緊迫した状況が、空気をも歪ませてしまいそうだ。
足を引き摺る男が、支えられながらも再び声を張り上げた。
「俺たちはな!ただ生き延びてぇだけなんだよ!あんたみたいな狂った理屈の為に生きてんじゃねぇ……考え改めろ、下衆が!!」
七三分けの男は、その言葉に過剰に反応し、目を細めた。
「はて、狂っているのはどっちだ?空から銃が降ってきて、それでも『正義』だの『秩序』だの言ってるお前らの方が、ワタクシには――歪んだ狂気に満ちている理屈だと思うね」
警察官の男が一歩を踏み出し、銃を構え始めた。
「正義を手放した瞬間に、人は終わるんだよ!お前の理屈はただの破壊に満ちた支配だ!」
彼らの声が交錯する。しかし七三分けの男には、もはや届いていないようだった。
その時、安東だと思っていた男性が、肩越しに後ろを見た。すると彼の表情が一瞬で変わる。
「っ、下がれ!動くなよ!」
やはり安東さんであった。まずは無事でよかったと思う反面、このような修羅場に立ち入っていることに、遅れてその重大性に気づいた。
安東さんの声を聞き入れ、私は草山夫妻を依然として庇う形で待機する。
安東の目には焦りが浮かんでいた。冷静で頼もしい、あの人でもひどく動揺しているように思えた。
そりゃそうだ。不用意に動けば、引き金が引かれかねない。
彼らの話から、銃を「撃った」などと聞こえるので、確実に銃弾は装填されており、どちらかが必ずと言っていいほど犠牲になってしまうだろう。
「おい……誰だ!!」
素早く視線を向けた七三分けの男。それはまるで獲物を見つけた肉食動物のように、鋭く私たちを捉えた。
その瞬間、完璧に彼の口元の笑みが消える。
「……動くな……まだ敵がいたとはね」
声は低く、掠れている。次の瞬間、鋭く叫んだ。
「誰だと言っているんだ!!答えろ!!」
銃口が私たちに向く。私の背に縋りつく二人の感触を知る……。
何も動けず、喋れない私たちを見て、安東さんが咄嗟に声を張ってくれた。
「おい、やめろ!ただの避難者だ!」
「黙れ!」
男の声が割れ、目が血走る。
「『ただの避難者』?そんな言葉に何の意味がある?この世界じゃ、見つかった方が負けなんだよ!力のない者は……淘汰されるべきだ!!」
風が止まったように感じられた。私は唇を噛み、息を潜める。動けば、すべてが終わる……。
そうでなくとも、この状況ではとても動くことができなかった。恐怖で逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
警察官の方がわずかに姿勢を変え、銃を構え直した。安東さんは怪我をしている人を支えながら、私に視線だけで合図を送る。
「冷静に、平静を」と言わんばかりに。
緊張が極限まで高まり、空気が張り裂けそうになる。この光景を見つめながら、胸の中で言葉にならない祈りを繰り返していた。
――誰もこれ以上、傷付いては駄目だ。
遠くの銃口に灰色の光がわずかに揺れていた。風が戻り、遠くで鉄のきしむ音が響く。その一瞬の静寂が、まるで世界が呼吸を止めたかのように重くのしかかっていた。
突如として、地上の静寂が崩れた。
「イエスマン!イエスマン!」
その奇妙な声がいくつも重なり、瓦礫の街に反響する。その場にいた一同は例外なく、遠くから聞こえるその声の方を見つめていた。
何かに取り憑かれたように声を出しては、地面を漁り、何かを探し回っているように思えた。彼らは全員、白装束で、何かの宗教団体かと心の中で疑問が湧いた。
安東さんを含め、全員が動けなかった。
「イエスマン!イエスマン!」
群れはまるで生き物のように蠢きながら、辺りの銃器を避け、地面を掘っていく。
私は草山夫妻を庇いながら、ただその光景を見つめていた。誰も、何が起きているのか理解できないようだった。
七三分けの男が動揺したように目を走らせ、叫んだ。
「おい……冗談はよしてくれよ……このカルト集団共が!!」
しかしその声すら、熱狂にかき消される。「イエスマン」たちは返事もせず、ただ叫び続けた。
そのとき――彼らの後方から、さらに大きな声が飛んできた。
「隕石を見つけろ!どこかに絶対隠れてる!隕石を探し当てろぉ!!」
私は反射的に夫婦の方を振り向き、また少年を見た。
瓦礫を飛び越えて、一人の少年が走ってくる。声は若く、しかし切迫していた。
「……あの子……」
奥さんが呟いた。私は再び少年を見る。少年の顔は汚れていた。近くには少年と同じくらいの年齢の、制服姿の女の子も見受けられた。
遠くからでも、はっきりと見える。その瞳だけは光輝き、はっきりと「生きていた」。
迷いも怯えもなく、ただ何かを信じて走っている。
少年は白装束たちの後を追うように近づき、息を荒げながら、もう一度叫んだ。
「隕石を見つけるんだ!この世界の希望になる石が必ずどこかにあるから!」
その声が響くたび、群衆が反応する。まるでその言葉が「合図」であるかのように、白装束たちの叫びが一層大きくなった。
七三分けの男が振り向き、少年を見つけると、大声を出した。
「……あの……子供は!!おい、止まれ、撃つぞ!!」
そして男は彼らに向かって銃を突きつける。だが、誰一人として銃に怯えなかった。そして近づく少年の方へ歩き出して行く。
私と夫妻は、その危険な男を追うように動き出した。
「早く、行きますよ!」
「樹……太朗……」
奥さんが呟き、夫は静かに涙を流して歩いて行く。
「君、良かった……どうしてここに?」
安東さんたちが、私の元へやって来た。額に汗をびっしり流す安東さん。そして、安東さんと共に足を引き摺りながらやって来た男。
「ただ……あの方々の息子さんを探し当てるために……良かったです、安東先生」
「おいおい、良いのか、金澤と対面するぞ!先に行って樹太朗を守ってこいよ」
足を引き摺る男が強い口調で言い放つ。
「ええ、そうですね……」
私は両親の後を辿っていく。今にも七三分けの男が少年を撃とうと銃を構えながら、不恰好にも銃だらけの道を走りかけて行く。
少年――樹太朗は、恐れを無視するようにどんどん前へ出た。瓦礫と銃器を踏みしめ、銃を構える男の前を横切るように進む。その瞳はどこか遠くを見ていた。
「おい!!この手に持つ物が見えないか!!」
遅れて、少年の後をついて歩いていた制服姿の女の子が、少年に夢中になっている男に、持っていた銃器で殴りかかった。
すると男は倒れ込む。
「っ!!な、なんだ……古都さんじゃあないか!どうした、この手に持つ物がっ――」
女子高生は、脅しにひるむことなく、すぐに持っていた銃を奪ってどこか遠くに放り投げた。
「アタシ、もう……負けないから、アンタに」
そう言い終えて、彼女はまた少年の後を追っていった。
その手前に駆けつけていくのは、草山夫妻。少年は二人に気付いたのか、徐々にスピードを上げていき、三人はとうとう巡り合った。
三人は互いを包み込むようにハグをして、すすり泣いていた。その姿を密かに見た私の心も、なぜか温かくなっていった。
空いた穴を埋めるように……だが、埋め尽くされないように。
白装束たちの叫びと、七三分けの男の苦し紛れの怒鳴り声、そして三人の嗚咽が辺りに響いていく。
この銃器で埋め尽くされ、崩壊の限りを尽くした街の中心で、誰よりも、何よりも……。
《11時18分》




