EP15
《9時3分》
地上からの猛攻が収まった頃。
地下鉄内に留まった人々は、不平不満を漏らし、絶望、諦観、そして悲観の念に満ちた視線が、嫌でも私の目に飛び込んでくる。
私は負傷者の手当てに専念しているが、私を含め、状況を正確に把握できている者は少ないだろう。
「先生、ありがとうございます……」
一人の女性の怪我の手当てを終えた。彼女は一時的な安堵の表情を浮かべるものの、その唇は小刻みに震えていた。
「いえ、これが私の仕事ですので」
少しでも希望になれるように、寄り添えるように。私は彼女に微笑みかけ、立ち上がった。それと同時に、私を呼ぶ声が聞こえる。
「七尾先生、布を持ってきました!」
「うん、ありがとう……」
一人の若い女性、看護師さんが、大量の紙袋を抱えている。彼女や他の数人の知識と経験を持った人間が、率先してこの事態を察し、行動を起こしたため、何とか場にいる人間の大きな混乱は免れたものの――。
――まだ、事態の究明はできていない。
唯一分かっているのは、「空から銃が降ってきた」という事実、そしてそれによる落下物で地上にいた人々が負傷し、最悪の場合、意識や生命を失ったということだ。
「東口方面にも、まだ被害者がいますので、対応お願いします……!」
女性は紙袋を持ちながら、深刻そうに告げる。
「分かりました。西口側は概ね対応を終えましたので、すぐに向かいます」
辺りを見渡せば、人々が混乱と絶望に耽る姿と、駅員や警備員が対応に追われているのが見える。そして、壁や床に力なく倒れ込む負傷者たち……。
西口側も東口側も、人々が混沌として集結しており、収拾がつかない状態だ。そして、地上へ向かおうとする者は一人としていない。
私が東口側へと足を運ぶと、女性も同じペースで歩き出す。
「あの…………すみません、む、娘を……ご存知ありませんか?」
その時、壁際に、今にも号泣してしまいそうな声で私たちに話しかける中年女性がいた。彼女は赤いランドセルを手に抱えている。
「っ、迷子……ですか?」
私はすぐに答えた。こんな前代未聞の事態だからこそ、私は人の役に立ちたい。
「……はい……さっきまでここにいたんです。ずっと私の横に付いていたんですけど、少し目を……逸らしたら――」
「わ、分かりました。では、一緒に娘さんを探し出しましょうか……」
「ほ……本当ですか……」
あまりにも動揺する彼女に同情せずにはいられず、他の対応を顧みずに、即座に了承してしまった……。
「で、でも七尾先生っ!他に待ってる人が……」
若い看護師が、不満を漏らした。
「それでも……放っておけないじゃないですか」
確かに、負傷者が先なのかもしれない。ここは他の誰かに任せるのが一番良いとも思う。
ただ、無責任だと思われても、私は娘に誇れる私でありたい。それは、医師として、そして一人の人間としての、私自身の誇りだ。
「では、私が怪我人の対応をしましょうか――」
若い医療従事者の女性と私の間に、一人の男性が割って入ってきた。
身なりは整っていて、50代ぐらいだろうか。皺の入った目尻と白髪が特徴的だ。
「あ、あなたは?」
若い女性が時間をかけて彼に問いかける。すると男性は羽織っていたジャケットを静かに脱ぎ、ワイシャツ姿になり、腕を捲って言った。
「私は安東……現役の外科医だ」
女性は大いに喜んだ。手に持った紙袋が揺れ、カサカサと音を立てる。
「本当ですか、助かります!」
「君は、そちらの女性を手伝いなさい……後は私に任せてくれ」
彼は私の肩に、年季の入った手を優しく添えた。
「た、助かります……ありがとうございます」
私は微笑み、深く頭を下げて敬意を示した。ここでの彼の声掛けは、まさに救世主のようだ……。
彼に倣うわけではないが、改めて、こういう時こそ周囲をよく見て人を助けたい、と強く思った。
「礼には及ばないさ……この場でいち早く動いた君の姿に感銘したんだよ。誇りなさい、自分自身をね」
安東さんは、そう言ってほうれい線を深く見せ、ニヤリと笑って女性と共に去って行った。
「ありがと……ございます」
誰にも聞こえない音量で呟いた。すぐに我に返り、中年女性を見遣る。女性はランドセルを大事そうに抱えて見ていた。
「あ、娘さんの名前を聞いても良いですか?」
俯きがちだった彼女は、静かに私の顔を見上げた。
「……娘はユリカって言うの……小学四年生で、年は10歳……」
中年女性の長い茶色の髪が揺れる。瞼が痙攣しており、相当な疲労が溜まっているのが見て取れた。
「ユリカちゃん、ですね」
「そうよ……頭にピンク色の大きなリボンを付けているから目立つはずなのに……」
私は辺りを見渡す。ただ、10歳ぐらいの少女は見当たらない。
東口から西口までのホームは、意外にも距離がある。加えて、避難してきた人々で溢れ返っているので、探し当てるのは大変そうだ……。
「なるほど、分かりました……では、お母さんはここで待っていて下さい。私が娘さんを探し出しますので」
ユリカさんの母親は、私の手を取って、何度も何度も唱えるように感謝を伝えた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……ありがとうございます」
「大丈夫ですよ……お互い様ですから。必ず娘さんを見つけますから。」
私は優しく声を掛けて、駆け足で辺りを探し回る。
「ユリカちゃん!ユリカちゃん!」
私は子供の名前を呼んで探す。あの母親の疲労状態を見るに、これ以上歩き回らせるのは危険だと判断したのだ。
――それに、私なら分かる。娘が目の前からいなくなった時の心の状態が。頭が真っ白になって、何を優先するべきか、自分の心の状態を落ち着かせることさえ、ままならなくなる。
「ユリカちゃん!」
何度も彼女の名前を呼ぶ。東口の階段や人混みを練り歩いていくが、親と一緒に縮こまる子供はたくさんいるものの、一人でいる子供はいなかった。
皆、怯えていて、不安そうだ。先行きが見えず、未知で……。
「ユリカちゃん!!」
子供はこんな時、どこへ行く?何に気を取られる?何のために一人で?連れ去られたわけではあるまい……。
推理しろ……でも、歩みを止めるな。
きっとユリカちゃんは、訳があって母親と逸れたんだ。一人で、何も言わずに。母親の疲労感を察してか、理由は分からないけれど。
「っ……」
――もしかして。
私は東口側の階段を登り、廊下に出た。そして、近くの化粧室へ駆けていく。
きっと子供は、母親とずっとあそこで待機していた……。轟音が鳴り止むまでの約30分間。
事態の急激さと緊迫……そして、緊張感からの解放で、トイレに行きたくなるのも理解できる。
「ユリカちゃん!」
私は女子トイレの扉を開け、大きく声を上げた。目の前には、少女が手洗い場で嗚咽を漏らしていた。
「あ、ユリカちゃんだよね……」
少女の頭には桃色の可愛らしいリボン。そして落ち着いた清楚なワンピースを着ている。
「う、うん……お姉さんは誰?」
濡れた頬を静かに拭って、しっかり受け答えする。
「私は七尾って言うの……ユリカちゃんのお母さんから、ユリカちゃんを探してほしいってお願いされたんだ」
順を追って、丁寧に彼女に教える。
「そうなんだ……お母さん……」
しょんぼりとして、私の元へ近寄る。
「迷惑かけちゃったのかな……ユリカのせいで、もっと疲れちゃったら……ユリカ、悪いことしちゃった?」
「ううん、悪いことじゃないよ……ただ一言、お母さんに言ってみたら良かったかもしれないけどね」
彼女の目線に合わせるために腰を落とし、穏やかに言葉を伝えた。ユリカちゃんはしっかりと私の目を見て、言葉を受け取っていた。
「さっ、お母さんの所に戻ろうね」
ニッコリと笑顔を見せて、彼女の手を取ろうとした。
「あ、えとね……水出なくて手洗えなかった……」
少し慌てたように手を後ろに回し、手洗い場に顔を向けた。
「水が出なくなっているのね」
私は手洗いへと移動して蛇口を捻ってみたが、結果はユリカちゃんの言う通りだった。
「なるほどね……じゃあ、ウェットティッシュを私持ってるから、これ使ってね」
私はポケットからウェットティッシュを取り出して、彼女に手渡した。
「ありがとうございます、七尾お姉さん……」
ウェットティッシュで手をしっかりと拭き取ると、彼女は鼻をすすった。
「ねえ、どうして水出なくなっちゃったのかな」
「え、あ〜どうして……か」
私は顎に手を添えて思考を巡らせた。何と言うべきか。
「銃が空から降って来た」なんて事実を率直に話すのは、彼女の心を傷つけるだろうし、私自身、その事実を未だ信じられていないから、なおさら口を開くことはできなかった。
水が止まっているのも、考えてみれば「銃が降って来た」なんてことが起きたら説明が付くのは確か……。
しかし、そんなことが起こる状況とは、一体どんな災いなのだろうか?
考えれば考えるほどに、私の頭を悩ませる……。
「お母さんも、みんなも……駅のホームでずっと座ってたりするけど、それもどうしてかな、七尾お姉さん……」
「うーん、私も分からないんだ」
「……さっきのうるさい音も?」
「うん……ごめんねユリカちゃん。分からなくて」
子供に伝えて良いことと悪いことの境界線はどこだろうか。アイリスが、この場にいたとしたら……私はどんな風に話していただろう。
「ううん、ユリカも何も分からないから同じだよ……」
ユリカちゃんとアイリスを、少し重ねて見てしまう。
親子や、お年寄りは何としても守り抜き、どうにか安全な所へ向かわせることはできないものだろうか。
「うん、じゃあ行こっか……お母さんの所に」
そうして私たちは化粧室を後にした。ユリカちゃんが困らないように、優しく手を繋いで彼女の母親の元へと歩いていく。
《9時13分》




