EP:ヴォルコヴァ・七尾・ナターシャ
《8月1日 8時32分頃 兼充駅 地下》
――その3分後、空から銃が降ってくる。
先月、娘が事故で亡くなった。わずか3年の人生だった。
あの子は、楽しい時間を過ごせていただろうか……。
ふっくらと膨らませた頬を緩ませ、可愛らしい声で笑っていた姿が、今も鮮明に頭をよぎる。
娘の名前は……
「アイリス――」
――ガタン、ガタン、キィーン。
遠くから線路を引き摺る甲高い音が聞こえる。私は目の前のホームドアを、無心で見つめていた。
記憶の中で何度も娘の名前を呼ぶうち、誰に呟くでもなく、口が勝手に開く。
目尻から頬、首筋へと静かに流れる涙は、地下鉄のホームに漂う憂鬱な空気にさえ、かき消されてしまうかのようだ。
「……何処へ、行こうかしら」
娘を事故で失った無力感に苛まれる。
あの日、アイリスを幼稚園に預けなければ……。あの日、仮病で仕事を休み、一緒にいてやれれば……。
**あの日、あの日、あの日……。**そういった自責の念や後悔が私を睨みつけ、首をきつく絞め上げる。
――ピーンポーン
「まもなく1番線に新宿行きが参ります。電車は10両編成でございます。黄色い線の内側でお待ちください。駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」
……何処へ、行こう。いっそのこと、もう全部、終わりにしてもいいだろうか?
アイリスだって、待っているはず。
ほら、ここを飛び越えれば、今なら楽に…………。
電車のライトが眩しく、辺りを照らす。その速度は徐々に落ちていく。
ホームドアを掴んだこの手は、どこか震えていた。
「アイ……リス……」
身を乗り出した、その瞬間。
「ちょアンタ! 危ないぞ!」
「え、あ……」
ホームドアからはみ出た身体を、誰かに強引に引っ張られた。
引っ張ったのは会社員だろうか。白いワイシャツに、茶色のバッグと黒い上着を抱えた男性が、迷惑そうな顔で立っていた。
「身投げされたら、ここにいる全員に迷惑がかかるんだよ……大人ならそれくらい分かるだろ……」
まるで頬を平手打ちされたかのように、冷徹な叱責を浴びせられた。
男性が言うように辺りを見渡すと、目元を暗くした人々が佇んでいる。
「……悪いが、アンタの事情は知らんし興味もない。だからこそ、ここで馬鹿な真似はするな」
そう言って目線を上げ、男性は電車に乗った。たちまち電車は動き出す。
電車が横を過ぎ去る音に紛れて、私は深呼吸をした。
なんて……腐っても私は医者だ。自ら生命を放り投げるなど、許されない存在。それに、アイリスだって望まないだろう。
そんなことは分かっていても、苦しさが変わるわけではないけれど……。
あの人のおかげで、狭まっていた視野が、一瞬、広くなった気がした。
自殺は人に迷惑をかける。そんなことは、私も知っていた。病死も事故死も衰弱死も、「死」の後には必ず残された人々が損をする。冷たく聞こえるかもしれないが、私は何度も経験してきたのだ……。
今回も……そう。
「死」が必ずしも回避しなければならないことではないとしても、「死」があるからこそ、命は巡るし…………。
込み上げる苦しく辛い感情が、また涙と鼻水として外に放出されてしまった。
アイリス……。私に似た、ゴールドの髪。目元は夫に似た、綺麗な茶色の瞳。
もう一度、会いたい。
無邪気に眩しい笑顔を振り撒いてほしい。雷のように理不尽に泣いても構わない。
今は、あなたの世話を焼きたい気分。あれやこれやと、欲しい物ねだりをしてもいいよ……。
また私は啜り泣きそうになった。呼吸が短く途切れ、苦しくなっていく。
これ以上はダメだ……もう、現実を見ないとね。
一旦ここで、気持ちに区切りをつけよう。
そうして私は深く、アイリスとの思い出を吐き出し……そして、また吸い上げた。
あの子に貰った、たくさんの暖かい愛と誇りに満ちた希望を。今度は私が医者として力を変え、人々の命を守っていこう。
守れなかった後悔や、全てを……人の為にやっていくね。
「アイリス……」
――ゴゴゴ! ゴゴゴォォォォ!!
ホームに突然、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が鳴り響き、人々は声を上げた。
な、何事?
上から猛烈に重い物が当たるような音。まるで飛行機が頭上を通り過ぎていったかのような。
「な、なんだ地震か?」
「地震? でも、長くないか? 音も揺れもヤバいぞ!」
ホーム内がザワザワと混乱に包まれる。それと同時に、わずかな揺れを感じた。地震だと推測するが、どうも様子が違う。
「に、逃げろぉ!!」「当たったら即死だ!」
「早く、奥に行け!! 押し潰されるぞぉ!」
地上へと続く階段で、叫び声と怒号が飛び交っている。その場にいた人たち、私も含めて混乱状態だ。
そんな状況を把握できない中で、一人、背中を曲げて肩を押さえている男性を発見した。
「あ、あの人……」
手で覆っている箇所は血に滲み、抑えきれなくなった血液が静かに滴り落ちる。
まずい、あの出血量……今すぐに処置しないと。
上で一体、何があったのだろう。ただ、そんなことを考える間もなく――
「だ、大丈夫ですよ! 私は医者です。今すぐに手当てします!」
――咄嗟に私の身体は動いた。その行動が職業病のようなものなのかは分からないが、とにかく、できることをしたかった。
私は脊髄で理解した。これは、ただ事ではない。
「逃げろ、早く、早く早く!」
「ギャァァ!!」「た、助けてくれぇ!!」
ホームの奥へと逃げ叫ぶ者たち。地上に近づくにつれて、断末魔と助けを乞う悲鳴が増える。次々と階段を降りてくる人々は軒並み、至る所に打撃痕や血を流し、傷口を露わにしている。
「助けて……くれ……」
早く、この人を助けないと……。でも、辺りを見る限り、応急処置を施さなければ手遅れになりそうな人々が大勢いる。
胸が張り裂けそうだ……。こんなことが、あっていいものか。
――ゴゴゴ! ゴゴゴォォォォ!
まだ、あの轟音は上から鳴り響いている。間違いなく、怪我人たちと因果関係があるのだろう……。
バッグからハンカチを取り出し、傷口を塞ぐ。
「いてぇ! いててて!!」
この感じ、腕は折れている……。何かで固定しないと。
「ホームの奥に早く移動しろぉ!」
「避難者が押し寄せてくるぞ!!」
地上から避難してきた人々は口々に「押し潰される」などと叫ぶ。
「あ、アンタ……お、俺はもういい……」
「な、何を言うんですか! 大丈夫です、助かりますから……!」
そりゃ不安にもなる。突然、意味不明なことが起こっているのだから。一体、地上に何が起こったというのだろう……。
私だって、逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。ただ、逃げ出さないのは、娘のためでもある! もちろん、目の前にいる負傷者に寄り添いたいし、助けたい。
原動力はいくつもあるけれど、私が娘に誇れる人間であることを守りたい……それが一つの大きな原動力として大きい。
「あぁ………………もう、終わりだ。世界の終わりだ!!」
男の人が、まさに絶望するように激しく嘆いた。
「大丈夫です……い、一体何があったんですか」
落ち着かせると同時に、何が起きたか知りたい気持ちが強く、思わず聞いてしまった。
「もういい……医者さん、俺はいい……」
男性はひどく怯えた顔と、全てを諦めた顔を向けた。そして、私に生きろと言わんばかりに、肩を抑えていた手をホームの奥へと差した。
「早く……行け……」
「いいえ、そんなことはしませんよ……私は決して諦めません……ですから、安心してください」
勇気づけようとする私の必死の声を、相手は聞き入れた。
「……銃だ……」
思わず声を漏らした「銃」。それは、日本にあるはずがない物。私たちが実際に目にすることは滅多にない物だ。
「え、銃……銃? 撃たれたんですか……な、何があったんですか!」
ただ、目にした瞬間に認識できる。それは「畏怖」すべき物だと。
漆黒で細長いフォルム。携帯するのにちょうど良く、人の命を簡単に「奪う」、人類が生んだ最悪の兵器。
――ガラ! ガラララッ! ガラッッ!
後に続くように、雪崩のように頭上から音が聞こえる……。
そして、肩に重傷を負った男性は、血眼で決死の表情で、こう叫んだ――
「空から銃が! 降ってきたんだよ!!」
耳を疑った。そんなことが起きるはずがないと決めつけていたから。
ヴォルコヴァ・七尾・ナターシャは事象発生20分後、東京駅へと向かうため、地下線路を渡る




