小説も漫画も読まない人が小説家を夢見るのは、烏滸がましいことなのか。
小説家になりたい。小説家になるにはどうしたら良いですか。
そう口にしながら、本人は小説どころか、漫画すら読んだことがないという。
いやいや……読んだこともない物を書く者に、そもそもどうして「なりたい」などと思ったのか、聞いてみたくもなるのだが、しかしこういう事例は珍しくもないのだろう。
それは今の時代もそうだし、おそらく過去も未来も変わらない。
思うに……
小説を読んだことがない。とはいいつつも、なんだかんだ全くの一文たりとも読んだことがない人は、この日本にはいないのだと思う。
なんだかんだ学校教育では読書感想文を書かされたりするし、そうでなくとも国語の教科書には小説の断片がいくつも載っている。そしてその作家の話をするときに、たいていの場合は「すごい人」として紹介される。
だから、そういったものを無意識に目にしているうちに、同じようなものを作りたいと思うようになるのは自然なことだし、あるいは「教科書に載るぐらいすごいことをしたい」という名誉欲が沸いたとしても、おかしな話ではない。
そしてかような人達は、小説をどの程度読んだかという問いには「読んでいない」と答えるだろう。
それを文字通りに解釈すると困惑するが、実体は前述の通りだ。
さて……
それはそれとして、では小説家になろうというものが、人並み以下の読書量というのはいかがなものかということになる。
たいていの場合、小説家になりたいと作家に相談した場合、その答えは「まずは読め」となることがある。しかしはたして本当にそれは、そうなのだろうか。
まず前提として、小説を読んだからと言って、必ずしも小説家になれるわけではない。
もしその前提が間違っているのだとしたら、世の中すべての読者は小説家になっていることになる。
本屋を訪れた客のすべてが実は何らかの小説家であるなどとう妄想は、それこそフィクションのワンシーンならばあり得るかもしれないが、あまり現実的ではない。
実際問題、小説家になろうの全ユーザー数のうち、小説投稿を行っているのは1割にも満たないだろう。
そもそもの話として、仮に小説家になれるだけの文章スキルが身についていたのだとしても、本人に「小説家になりたい」という気持ちがなければ、その人が小説家になることはない。
また、では小説家になるためには読書量が必要なのかと聞かれると、それも確実にそうと言い切れるものではない。
そもそも……鶏と卵の話になるのだが、小説家と読書家のどちらが先に産まれたのかと考えたら、当たり前なのだが小説家が先に決まっている。
小説なんてものが生まれる前の時代に、誰かが小説を生み出した。小説がない時代に読書家が生まれるというのは論理が破綻している。ということは、少し考えれば分かることだ。
ではなぜ多くの小説家は「小説家になりたければ小説を読め」などと言い出すのか。
思うにそれは、そもそも「自作品を読む可能性のない人にアドバイスをする気にはなれない」という作家の傲慢もあるのだと思う。
なにせ「小説は読まない」というのはそのまま「あなたの作品は読まない」と言い換えることも出来るのだから。「あなたには興味がないけれど、アドバイスは欲しい」などと言われて親切に出来るわけがない。
だから「まずは小説を読め」と言う。小説を読むようになって、俺様の作品の良さが分かるようになったなら、改めてアドバイスをしてやるぞ。と、そういうことなのだ。悲しいことに、小説家も承認欲求のある……どころか小説家とは、人並み以上に承認欲求の強い人種なので。
さてでは……
じゃあ小説家になるにはどうしたら良いのだろうか。という話に戻る。
もちろん、小説を読むという方法が、間違っているというわけではない。ちなみに「小説家になる」という目的で小説を読むのなら、一般販売されたようなちゃんとした小説よりも、素人が書いた小説もどきを読むというのも一つの方法だ。
素人が書いた小説というのはいかにも未完成で不完全で、素人でも分かるレベルの粗が多い。そしてそれでもなお、面白い小説というものはいくらでも存在する。
もしもそういう不完全な作品から違和感を汲み取ることが出来たなら、それは小説を書くスキルの向上にも繋がることだろう。
そして、これは私のなんとなくの感覚なのだが……不完全で読みにくい、だけど最高に面白い作品に出会ったときに、私は無性に小説というのを書いてみたくなる。
本屋で売られるような、あるいは何らかを受賞するような作品は、作品としてのレベルは当然、高い。
おそらく小説家にとって、手本となるような部分も多くあるのは間違いないだろう。
だけど読後感がスッキリしすぎているせいで、それで満足してしまう。これは私だけなのかもしれませんが……私は市販の小説を読んで「私も書きたい」と思ったことはありません。私がなろうに小説を投稿しようと思ったきっかけは、当時ランキングに乗っていたとある作品を読んだのがきっかけでした。
当時からラノベを中心に読みまくっていた私は、なろう作品を読んで初めて「自分でも書きたい」と思うようになりました。もちろんそれは、文章ルールも分かっていないようないかにもな小説でしたが。
もしも私の駄作でも、次の作家を産み出す踏み台になっていたなら、まあ、少しは救われた気持ちになるかも知れませんね。
だから私が「小説家になりたい」という相談を受けたなら、私は「とりあえず、気になったタイトルのweb作品を読んでみて」とアドバイスするのかもしれません。そもそもそんな相談を受けるほどの人望がないので無駄な妄想ですが。
そもそもの話、世の中には「小説を読まないけど小説家」と似たようなことは、普通にあり得ます。
たとえば「ゲームはしないゲームプログラマ」とか「システムは使わないシステムエンジニア」とか。そういえば鳥山明先生は「漫画を読まない漫画家」だったような……
私は「小説を読む楽しさ」と「小説を書く楽しさ」は、全く別の感覚だと思う。
小説を書くというのは、もちろん文章ルールに従ってキーボードをタイピングするという作業でもあるのだけれど、それ以上に、私の考えた世界を開拓するような楽しさがある。
書き始める前は、何も確定していない。
それを、少しずつ文字という媒体に起こしていくことで、世界が広がっていく。
一つの作品を書き上げたとき、おそらく作者はどの読者よりも深く楽しんでいる。もちろん作品を公開して多くの人に読んでもらってある程度の評価を得たいという欲望がないとは言わないけれど、だけどきっとそれは本質じゃない。
そういう意味で……
最近は「AIに小説を書かせて何が楽しいのか」みたいな話題もありますね。
あるいは「小説は書くことが楽しいのに、それをAIにやらせてどうする」みたいな意見。
だけどそんなことを言い出す人は、何が楽しいのかが分かってないのでは?と、逆に感じてしまう。
べつに、執筆スキルを駆使することに快感を覚えているわけではないでしょう?
執筆活動が楽しいと言う人は、きっと執筆によって妄想を形にすることが楽しいはず。
最近のAIを使ったことがある人なら知っていると思うけど、AIは「作品を書いて」とお願いしたらそれだけで作ってくれるほどに便利なものではない。
というか、そんなお手軽小説作成機だとしたら、そもそも使う意味が無い。青空文庫という本を無料で読めるサイトがあるので、そっちで読めば良いという話になる。
実際には「こうこう、こういう設定で小説を書いて」と詳しく書くと、それっぽい小説を書いてくれる。
だけどほとんどの場合、それは思い通りには行かないので、さらに詳しく「こういう展開にして」とか「こういう設定を追加して」とか、そうやって何度も軌道修正する必要がある。
それは、文章を考えるという工程こそAIに任せてはいるものの、そこには確実に従来の執筆に似た「世界を作り上げていく」という楽しさがあります。
なので、まあ……AI活用の是非については大きな声で言わないようにしていますが……「AIに書かせて何が楽しいの」という問いには「楽しいと思うよ」と答えることにしようと思います。
まあ、今のところのAIは私が思ったものを書いてくれるほど優秀じゃないというか、それはそれで苦労があるので今のところAIに書かせようとは思いませんが。
……脱線しましたね。
本題に戻すと「小説も漫画も読まない人が小説家を夢見るのは、烏滸がましいことなのか」ということですが、そんなことは一切ないと思います。
小説を読まない小説家志望を馬鹿にする声は、単なる「私の小説を読んでほしい」という小説家の嘆きです。気にしなくて良いと思います。
もちろん、小説や漫画の中に、自作に活かせるヒントというのはいくらでもありますので、読んじゃダメということではないです。でもそれは小説や漫画でなくても、たとえば日常生活のふとしたことでも構わないはずで、むしろ小説から遠いところから持ってきたアイデアの方が、新鮮味がある可能性もあります。
詰まるところ小説を読まない人が小説家になりたいと言い出すことは、別に悪いことでも何でもないし、小説家になりたいからと言ってじゃあ読書をしなくてはいけないかというと、そんなこともありません。
ということで、なんとなく小説家になりたいと思っている君へ。
まずはなろう作品をいくつか読んで、書きたいなと思ったら書きましょう。