第3話 手のひらが、あたたかかった日
あの日は、朝から風がよく吹いていた。
季節の変わり目。太陽が高くなるにつれて、草原の匂いと土の香りが混ざってくる。
今日は“園舎”の子どもたちで、森の外れにある小さな丘まで遠足に出かける日だった。
フォートも、両親に持たされた小さなお弁当包みを背負って、はりきっていた。
「走っちゃダメだよ〜!」
先生が声をかけるけれど、子どもたちはもう止まらない。
フォートも、その中に混じって、草を踏みしめる音に耳を澄ませながら、先頭を目指して駆けた。
丘のふもとに着いたころには、みんな汗だくだった。
持参のベンティロ(風のミューセル)が、うちわ代わりに涼風を吹かせてくれる。
「すごーい!フォートのベンティロ、風つよいね!」
「父が調整してくれたんだ」
フォートは少し照れながら答える。
フォートの近くに、もうひとりの少年がいた。
年上に見えるその子は、シュンといった。
「なあ、さっきの、風の音。なんか変じゃなかった?」
「風?」
フォートが首をかしげると、ふいに胸の奥に、なにかが触れるような感覚があった。
——ちがう。これは、風じゃない。
……揺れてる。どこかで、何かが。
「……っ!」
フォートは視線を上げた。丘の向こう、木立の間に、何か光るものが見えた気がした。
「先生!誰かいないか見てきます!」
「えっ、フォート!? 危ないから——」
言い終える前に、フォートは走り出していた。
木の影に、それはいた。
ピンクのリボンが泥に汚れて、片方だけ靴が脱げていた。
女の子。年は、フォートと同じか少し小さいくらい。
小川の淵で、何かに足を取られたのか、座り込んで動けなくなっている。
「大丈夫? 怪我は——」
近づこうとしたその時だった。
「ギャッ」
草むらの陰から、唸るような声がした。
それは、小柄な影だった。
緑色の肌に、膨らんだ目。小さな牙を見せて、威嚇してくる。
「ゴブリン……」
こんなところに現れるなんて。
小さいとはいえ、人間の子どもからすれば、それは十分すぎる脅威だった。
女の子が、恐怖に目を見開く。
フォートの足がすくむ。
(ぼくに、何ができる?)
何もない。武器もない。ミューセルもない。
でも——
「っ、やめろぉぉぉ!」
振り上げた手のひらが、空を切る。
その瞬間、光った。
手のひらから、柔らかな、けれど確かな熱が走った。
「ギャアア!」
ゴブリンは悲鳴を上げて、フォートの手を見て逃げ出していった。
その後、先生たちが駆けつけてきて、女の子は助け出された。
その夜、父と母はほっとしたように彼を抱きしめた。
先生たちから聞いた話では、彼の「機転」で女の子は助かったと。
「あなた、かっこよかったね!」
母がそう言って微笑む。
けれど、フォートの心には、まだ手のひらの熱が残っていた。
それは、炎ではない、けれど確かに何かが「灯った」ような感覚だった。
あの子の名前は、リリー・ライザス。
後日、彼女の正体が領主の娘であることを知るのは、もう少し後のことだった。
フォート・セリアード、5歳。
この日、彼の中に眠っていた古の「魔法」が、目を覚ましたのだった。