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その一撃が男たちと俺との9対1の幕開けだった。
結構な威力が出たと思ったし実際男もかなりのダメージをくらっているようだったが、さすが小山とはいえ大将を張っているだけあって激痛に耐えながら相手を睨み返すほどの器があるようだ。
鼻にたまった血の塊を地面に吹き捨てて男は再び拳を握りこんだ。
その動作は素早く反応するのに少し困った。インパクトの瞬間を隠すために男は拳を背の後ろ深くまで引き込み力をため込んで、一気に放つ。
強力な溜めのおかげで威力こそ出ていたものの隠したがっていた攻撃の出る瞬間は体全体のうねりを見れば簡単に憶測がつけられた。
くる。そう思ったとき実際にその攻撃が放たれたのだ。
くる瞬間さえ予測できれば直線的なパンチはもろい、ただまっすぐこちらに延ばされる右腕の軌跡を妨害することは難しくはないのだ。
必要なのは猛スピードで飛んでくる肌色の凶器におびえない度胸と少しのタイミング感覚だけである。
右腕を脱力させ肘のあたりを回転軸としてその回転運動を飛んでくる腕の軌跡に重ねる。
そうすれば魚の追い込み漁のように俺の右手に相手のストレートが吸い込まれるのだ。後は腕を回し切ってかかった獲物を引き上げるだけ。
「!」
掴んだ右腕を力任せに引っ張って相手の喉に膝をいれる。もちろん本気ではない、死なない程度だが手心を加えている。
白目を向いて口の端に泡を浮かべる男を引っ張り上げて掴んでいた腕を離す。そうするとブレーキ役を失ったそいつの体はしばらく与えられたベクトルに引っ張られて上昇軌道を描いた。
エネルギーを使い果たした相手の体が瞬間、宙に静止するタイミングを掴んで空いた右手で思い切り腹に張りを入れる。
「かはっ」
なされるがままに男の体は後ろに飛び上がって奥のごみ箱に背中から突っ込んでいった。
今度こそKOの感覚があったがその確認をしている暇はない、彼の取り巻きたちが俺のすぐそばまで来ている。
横眼でなんとなくの動きを捉えつつもその把握を完全なものとするために一歩後ろに飛び下がった。地面に手を付き角度を整え8人の男たちと正面から睨みあう。
「てめぇやりやがったな」
あとでこの戦いを振り返ってみると。
目の前に立つ男たちの顔に先程まで浮かべていた弱者をいたぶるときの侮りの視線や汚い微笑などなく。
ただひたすらな視線で自分たちのリーダーをたやすく沈めてしまった目の前の男に対する恐怖への溜飲を下げるためにその実態を理解しようとしている気がした。
要するに俺の雰囲気にのまれてしまっているのだと思ったのだ。
その体は硬直しこの狭い路地で人数差を生かすために俺を包囲しようとする人間はいないと。
ただ俺のことをまっすぐ凝視して一瞬のスキも見せまいと体制を固め自らの領域の内に引きこもりおびえていると。
とても攻撃側のするようなことではない、この状況で硬直してしまった時点で彼らの勝利への道筋が大きく損なわれてしまうことに誰一人気づけていないのだと。
(まあ勝ったか)
だから俺はそう思ったのだ。目の前の男たちには俺に立ち向かうだけの力も度胸もないのだと、そう高をくくった。
見誤ったのだ。勝負の流れというものを。
その原因がなんなのかは簡単に予想がついた。女への未練を断ち切れずに勝負で後れを取るなんて戦士の風上にもおけない
この時の俺は戦いの中に身を置きながらその心は戦士になりきれていなかったのだ。
戦闘姿勢を解いて無防備に立ち上がりそのままゆっくりと立ちはだかる男たちの方へ歩いていく。
そして威圧された彼らが開けた道を通ってこの勝負に決着がつく。
はずなどないのに。
俺のイメージはほとほと現実と乖離し相手への最低限の警戒心を欠いているものだった。
第一やつらは俺が親玉をボコボコにしているのを見ながらも躊躇などせず突っ込んできたのだ。だから俺もそれをかわすために一度後ろに下がった。
この簡単な行動の順序さえ俺は適当に流していた。
彼らのその姿勢をその目で見て肌で感じたのならば彼らが俺と睨み合って動かないのは何らかの攻撃の溜めであると考えられるはずであるのだ。
だが俺はそんな考えなど脳のはじっこでも思っていなかった。
それは俺の目が目の前の戦闘ではなく彼女の姿を見、その心が戦闘の空気など感じる余裕もないほどに彼女の存在に固執したせいで起きたのだ。
俺は愚かにもスキだらけの自らの体を晒してしまった。
路地裏から抜け出すために男たちの間を通って行こうと歩いた。
男たちが俺へ道を空けるのが当たり前だというように、だがすぐに具体的には相手の一歩前まで歩を進めたときにそれが勘違いであること気づく。
俯いていた俺は目の前に立つ相手の足がいっこうに道を開けないことに困惑して、その結果自分より一回り程大きい彼らの表情を伺うために静かに顔を上げた。その時だった。
頬に鋭い痛みが走ったのは。
拳が俺の顔面を深くえぐり込んだ。しばらくの間、断続的に続く頬の痛みと飛ばされたときに強く打った頭の痛みが俺に勘違いを気づかせた。
この拳は普通の人間の威力じゃない、明らかにその範疇を飛び越した、魔力による力の補強が行われているものだ。
つまり彼らは身体強化を行ったのだ、あの数秒間の停止は俺への恐れのためなどではなく身体強化を発動するための溜めでしかなかったのだ。
気付かなかった、予想すらできなかった、俺は怠慢していたのだ。
つい頭の中で後悔の言葉を浮かべてしまう。
これもミスだ。
自分の次の行動のために思考を行うべきだった。
そこからは完全に相手のペースだ。殴られ、蹴られ、気のすむまで痛めつけられた。途中から気絶していた黒髪も混ざりそいつにも何発かやられた。
何度かゲロも吐いたし、それに血が混ざることもあった。鼻血が収まることはなく、頭を何度もレンガに打ち付けられ意識が歪んだ、顔は腫れに腫れて、瞼の体積が増えたせいで視界は万全ではなくなった。
そこまでボロボロになってやっと彼らはどこかへ去っていった。
「おええええ」
地面に突っ伏しているとその内ポタポタと雨粒が落ちてきた。
それはすぐにザァーザァーとなって大雨が降りだした。この地域ではこのぐらいの夕立は珍しいことではない。ただ今日は空いっぱいを覆う雲と合わさったせいか夕立はなんだか陰鬱だった。
このままでは風を引いてしまうと痛みに悶える頭の奥でそんな言葉が不意によぎった。宿に帰って着物を変えて冷えた体を温めなければいけない。
ぐちゃぐちゃな頭の中でもそんな思考だけははっきりと紡ぐことができた。
まともに力の入らない足に順番に力を込め膝をつき肘で支えた。前のめりに突っ伏した上半身を起こして中途半端な正座をする。見上げた空は曇天だった。
少しボーッしたがすぐに取り直して、右足を立て体を持ち上げる。ふらつく足が倒れないように壁に手を付き平衡感覚を調整しながら路地裏の出口へと進んで行った。
強く打ち付ける雨が来ている服を重くしたせいか足取りがやけに遅かった。ほんの少しの距離を進めためのエネルギーがいつもより重たい気がした。
一歩、一歩とゆっくり少しずつ夕立が跳ねる大路のレンガの上を歩いていく。
道は先程とは打って変わってすかすかで傘をさしていく人もいるがほとんどの通行人は脇の建物に出されたゴム製の軒にもぐって雨のやむのを待っていた。
そんな中で道の中央を体をひきずりながら歩くボロボロの男はたいそうめだっただろう。俺自身にそんなことを気にするような神経はなかったが、道を進む俺の姿はたくさんの人目を引いていた。
そのなかにどうやら彼女がいたらしい。
「ポート」
背中越しに名前を呼ばれて首を少し後ろに傾けるとそこには彼女の姿があった。赤い髪と瞳に桜色の唇。整った顔立ち。そこには俺の元恋人の姿があったのだ。
「リーシャ」
「どうしたの、その傷」
「別になんでもない」
「なんでもなくないでしょ、目腫れてるし、、、口も切れてる」
「これくらい、平気だ」
「全然平気そうに見えないよ」
ダメだ。これ以上は俺が自分のことを嫌いになる。完全に吹っ切ろうとしていたのに、もう過去のことだと忘れようと必死に感情をちぎろうとしたのに、リーシャの目線に声音に心が戸惑う。
俺の心がリーシャを頼ろうとしている。
ダメだ。もう割り切ろうって決めたじゃないか。
「とにかく大丈夫だから・・・じゃあな」
「まって、近くに知り合いのお医者さんがいるからその人に診てもらって」
「お前には関係ないだろ!俺のこと捨てて出ってたくせにいまさら、なんだ」
「!」
「もう俺とお前は他人なんだ無関係の人間なんだ!だから俺のことを心配するな!俺の行動に干渉するな!」
自分の心を振り切るために自然と言葉が荒くなった。
リーシャから目をそらして吐き捨てるように言葉を発した。それからリーシャの顔を見るのが怖くなってそのままそこを立ち去ろうとした。
脚と共に動こそうとした腕にひと肌の温かさを感じる。掴まれたのだ誰がやったのかは考える必要もない。
俺は最大限の気力を振り絞って腕に触れるリーシャの手を振りほどこうとした。いくらかの暴言を頭に思い浮かべながらそれを発する覚悟も決めた。
そして彼女との関係を完全に断ち切るために振り向いた。瞬間だった。
視界が赤く染まった。瞼にできたこぶの隙間から見える世界が真っ赤になった。ジワーと頭の中に熱気が広がる。視界が回転し俺は意識を失った。