白い部屋
人は夢から覚めた後、一体何を思うのだろうか。
懐かしさなのか、虚しさなのか、もちろん忘失する者もいるだろう。
私が目覚めたのはなにもないただの無機質な白い部屋だった。
夢か現実かの区別もつかないとてもリアルな空間だ。そこで私が見たものは5つの扉だった。
何もない空間にただ扉だけが並んでいる。ご丁寧に扉には数字で1、2、3、4、5と示されているようだ。私はそれを焦ることもなく無表情で眺めていた。
これは夢だ。そうに違いない。そう思っている自分がいる。だからこそ正気でいられるのかもしれない。
いや、どうだろうか。
何かの本で読んだことがある。人は白い空間では長いこと正気を保っていられないと。
けれど私はたとえ夢でなくても、この白い空間で正気を保っていられる自信がある。何故そんなことを思ったのか自分でも分からないが。けれど私は必ず正気を保っていられる。
何もない閉鎖された空間。あるのは5つの扉だけ。軽く嘲笑を浮かべた私は、ゆっくりと立ち上がり、一つ目の扉へと手を伸ばした。
一つ目の扉に手を掛けようとしたその瞬間、背後から何者かに声をかけられた。
「お嬢さん、その扉をまだ開いてはいけないよ」
振り向くとカラフルな帽子に漆黒のスーツを身にまとった男が立っていた。
漆黒のスーツにカラフルな帽子。よく見ると帽子には所々に花が飾られているではないか。どこかで見たことのある花。しかしどこで見たのかを何故だか私は思い出せない。
正直、第一印象としてはふざけた男だとしか思えなかった。よくもまぁ、恥ずかしげもなくあの様な帽子を被れるものだと。
嘲笑を浮かべ、私は目の前の彼に言った。
「ねぇ、これは夢よね?だとしたら私の頭はどうかしてるのかしら?あなたみたいなおかしな人が夢とはいえ登場するだなんて、正直壁に頭を打ち付けたい気分だわ。」
男は私の発した言葉など気にも留めていない様子で答えた。
「君が夢だと思うなら夢かもしれない。しかし夢でないと思うのなら、そうだなぁ、夢じゃない。」
意味が分からない。けれどもここで混乱したとしても全くの無駄だ。焦ったり癇癪を起こすのは労力の無駄でしかないし、私はどちらかと言えばそういう類の人間でもない。どこであっても至って冷静だ。
「そう。どちらにしても、この空間も貴方もまともじゃないってことは分かったわ。ねぇ、ここはどこなの?どうして私はこんなところにいるの?」
先程から自分のなかで気になることが一つ。自分の名前以外頭の中の記憶全てが曖昧でうまく思い出せない。家族がいる。友達もいる。けれど顔も名前も思い出せない。
私の不穏な様子に気がついたのか、スーツの男は先程とは打って変わった優しい声色で私の問いに答えた。
「大丈夫だよ、お嬢さん。この場所は決して君にとって怖いところではない。むしろ君を幸せへと導いてくれる場所だ。そしてもう気付いているかもしれないが、僭越ながら君の記憶を少しだけいじらせてもらったよ。」
私の記憶をいじる?どうしてそんなことをする必要があるのだろうか。ただ単純に疑問ばかりが浮かんだ。
私がこの白い部屋に導かれた意味は?この5つの扉は一体何?私の記憶は元に戻るの?先程とは変わって私の心に焦燥が入り混じる。
「聞きたいことがたくさんあるのだけど、取り敢えずこれだけは先に聞かせてくれないかしら。私はここから、この部屋から出られるのよね?」
私の問いに男はなにか考えることがあったのか、少し間を置いた後に答えた。
「もちろんだよ。君はこの部屋から必ず出られる。でもね、そのためには君に数字に沿って扉を1つずつ開いてもらう必要がある。そして、最後の5つ目を開いた時、君は記憶の全てを思い出すよ。」
でも先程彼は扉をまだ開いてはいけないと言っていた。どういうことなのだろう。
「そう、記憶も戻るのね。分かったわ。でも貴方はまだ開いてはいけないと言っていたわ。それはどういうこと?」
男は今度は間を置かずに答えた。先程と変わらない優しい声色で。しかしその様子はどこか切なげで儚い。何故、どうしてそんな顔をするのだろうか。
「その扉の向こうは君の思い出に繋がってる。君が心から大切だったと想う思い出にね。けれど、僕なしで君はその扉を開いてはいけないんだ。何故かって君が時間に、思い出に迷ってしまうから。僕は君を最後まで見届ける案内人だ。」
思い出?私の頭の中で大切だと信じてやまなかったであろう何人かの残像が、現れては消え、消えては何度も現れた。しかし、それはもやがかかったかのようにとても曖昧で、何も見えない。私が心から大切だと想うものたち。それは誰だった?家族がいて、友達がいて、恋人は…いたのだろうか?思い出せない。嫌だ、そんな思いで私の心が締め付けられる。思い出したい。私が大切だと想う思い出を、人間たちを。無理に思い出そうとしてめまいを起こす。激しい耳鳴りがキーンと私の脳味噌をかき乱した。それはまるで高い音波を直接鼓膜に流し込まれたかの様に。
倒れそうになる私を男は必死の勢いで支え、私に言った。
「無理に思い出してはいけないよ、お嬢さん。大丈夫、何も心配することはない。この扉の向こうは幸せに満ちている。1つ、またひとつ開くたびに君は記憶を取り戻す。5つ目の扉まで、そうだ、最後まで僕が共にいようではありませんか。」
まだ意識がぼうっとする。男から漂うこの甘い香りは頭に被っている帽子から漂ってくるのだろうか。器用に差し込まれた花々。いや違う、差し込まれていると思った花々はよく見ると長い長いつるで一本いっぽん器用に巻かれているではないか。そして、何処かで嗅いだことのある鼻腔を擽るこの甘い香り。けれどどこで嗅いだのかを私はまだ思い出せないでいる。もどかしくて、けれどこの香りを嗅いでいると何故だかとても切ない気分になった。
「ねぇ、教えて。あなたは一体誰なの?」
まともではないと思っていた彼に心を開き始めている自分がいた。
彼はまた少し間を溜めてから、優しげな微笑みを浮かべ私の問いに答えた。
「僕は貴方だけの、いや、ただのしがない案内人に過ぎません。けれどどうか名前だけでもいい。僕のことを思い出してください。」
帽子に飾られた色とりどりの花、目の前に立つとてもまともであるとは思えない男性。彼は私に名前だけでもいいから思い出してくださいと言った。思い出して欲しいならまだ分かる。「欲しい」と言う言葉、それならただの願望にしか過ぎなかったのかもしれない。けれど彼は「思い出してください」と私に懇願したのだ。
「名前だけでも?そう、貴方は私の思い出の中にいるのね?」
無表情と嘘くさい微笑みのイメージしか無かった彼から始めて困惑の色が見えた。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。今この空間で君の記憶を握っているのは僕だ。君のことはなんでも知っているよ。君の記憶は今全て僕の中にあるからね。でもね、その扉の先、君が心から大切だと思っているものは僕にも分からない。」
私の記憶を全て熟知している?いやいや、やめて欲しい。自分にどんな過去があったのか知らないが、正直恥ずかしくて穴があったら速攻で入りたい気分。羞恥心でどうにかなりそうだ。
「記憶が戻るのは嬉しいけど、あなたが握っているっていうのも嫌な話ね。なんだか不公平だわ。私がここに導かれた意味だけでも教えてくれていいんじゃないかしら?どうして私なのよ。帰る場所なんて分からないけど、もう嫌。早く帰りたい。」
男は先ほどまでの微笑みを消し、真面目な顔で私がここに導かれたことをさも当たり前のような顔で答えた。
「君を導いたのは僕じゃないし他の誰でもない。君が自ら望んでここまで来たんじゃないか。はは、と言っても君にはまだ分からないだろうね。君は自分の意思でこの部屋に来たんだよ。導かれたのは僕の方だ。僕を連れて君はここまで来た。選んだのは君だ。僕は嫌でも君を最後まで見届ける義務があるのさ。全くもって嫌な話さ、はは、本当にね。」
よく分からない男だ。笑ったり、かといったら急に無表情になったり。感情を隠すのがうまい。でも今私に向けられているその表情は紛れもなく哀れみだ。
「私が自ら望んでここに来たですって?はっ、冗談」
目眩がやっと落ち着いた。私は男を突き飛ばし、鼻で笑い、私は男へとそう言い放つと思い切り突き飛ばした。しかし、こちらがどんなに煽り立てても、馬鹿にしようとも、男はきっと何も感じない。
ただ、その目はなんだ。先程から消えない、私への、哀れむようなその視線は。
「残念だけど冗談じゃない。君はまだ思い出せていないだけだ。ここにいる意味を。そして何故ここに来てしまったのか。大丈夫、すぐに思い出すさ。僕が導いてあげよう。君の想い出へと。」
おいで、と言わんばかりに男はそっと私の前へ手を差し伸べてきた。私は何故か警戒する様子もなく男の手をなんの戸惑いもなく取ってしまった。
この人は誰だ。警戒しなければいけない、そう分かってはいても、本能が邪魔をする。
彼はきっと悪い人ではないのだと。
「さぁ、一つ目の扉を開けよう。僕の名前はいずれ思い出すとして。ではまず、そうだな、確認として、手始めに君の、自分の名前を言ってごらん。」
男は私の手をゆっくり引くとそのままふ一つ目の扉へと、私を導く。
私は彼に導かれるまま扉へと歩み出し、一つ目の扉をあ真っ直ぐに見つめながら、自分の名前を口にした。
「私の名前は、由紀よ。苗字は菊地。そう、菊地由紀だわ。」
そして、私は一つ目の扉を開いた。
扉を開けた瞬間飛び込んできたのは、眩いほどの真っ白とした光だった。私はあまりの眩しさに思わず目を固く瞑った。
そんな私を見て、派手な帽子を身に纏った男が言った。
「さぁ、もう平気だよ。ゆっくりと目を開けてごらん。ここは君の大切な想い出だよ。そして君の声は誰にも届かない。僕らは君の想い出をただ見てるだけの傍観者だ。」
ざわめく人混みの中、そこには私の家族と思われる人たちと、幼い頃の私が和気あいあいと話していた。
どうやらここはトレジャーランドかどこかのようだった。
幼い私と姉妹、母親が更衣室と書かれた場所に入っていく姿が見える。
父親は男性用の別室へと入って行ったようだ。
「思い出したわ。ここは家族で始めて旅行に来た場所よ。名前は忘れてしまったけど、とても大きなプールだったことを覚えているわ。」
段々と記憶が蘇る。
そしてまた眩いほどの真っ白とした光が私を包み込んだ。どうやら場面が変わったようだ。
「さぁ、もう少し近づいてみよう。何を話しているのか聞きたいだろう?」
男はそう言って私の手を取った。そしてそのまま手を引くと幼い私の元へと誘導していく。
そこには父親と私がいた。お土産コーナーだろうか。幼い私は「これが欲しいの。買って買って」とごねているようだ。
幼い私が指をさしているのは、少し大きめのうさぎの人形だった。
「ダメだよ、由紀。人形はもう部屋にたくさん置いてあるだろう。」
そう言って父親と思われる男が、幼い私の頭を撫でながら優しく宥めていた。
「もうこれで最後にするからお願い、お父さん」
幼い私は可愛らしく上目遣いをして父親におねだりをする。そうだ、こうすれば父親は必ずしょうがないと言ってお人形を買ってくれる。自分が可愛いことをわかった上でやっていたんだ。
「…全く。由紀は可愛いくてとっても憎らしい子だ。これで最後だぞ?お人形さんが増え続けてしまうと、古いお人形は由紀に相手にされなくて寂しがるだろう?由紀にはひとつひとつのものを大切に出来る子に育って欲しいんだ」
そう言って父親はうさぎのお人形を手に取ると、幼い私の前に膝をつく形でしゃがみ、「パパのお願い聞けるかな?」と言って私に人形を差し出した。
幼い私は「出来るよ。由紀、ちゃんとみんなを大切にする」と言って父親から差し出された人形を受け取った。
とても強い風がブワッと駆け抜け、再び眩しい光が私を包み込んだ。
頭の中に幼い頃から次の扉までの数年間分の記憶が一気に流れ込んできた。
幸せだった幼い頃の記憶と共に、嫌な記憶も流れ込んで来たけれど、不思議とこの部屋では嫌な気持ちにならなかった。
そんなこと、絶対にあるわけないのに。
私はその場に立ちすくんだまま案内人を横目で見ると「一体私に何をしたの?」と問いかけた。
案内人は「ここでは負の感情などに一切囚われることはありません。安心してください」と優しく微笑んだ。
「どういうこと?ちゃんと答えて」と私は先ほどよりも強い口調で問いかけた。
「君と僕は今記憶を共有している状態です。君の嫌な気持ちは全て僕と君とで半分こしているということになります。まぁ、後でバレることなので言いますが、負の感情請け負う割合、僕の方を少し多めにはしています」
男はそう言うと少し気まずそうに私から目を逸らした。
私は何も言わずに彼をじっと見つめる。彼はまたこちらをチラッと見るも、直ぐにパッと目を逸らした。
私は何故だか申し訳なさそうな案内人を見て軽く嘆息すると「怒ってないわよ。ありがとう、助かるわ」とお礼を述べた。
彼は顔を上げて私を見ると「あなたに笑ってもらうことが僕の役目で、存在理由ですから」と嬉しそうに笑った。
彼が見せた少年の様な優しい笑顔に何故だか胸が痛くなった。
あなたは誰?私のなんだったの?
早く、一秒でも早く思い出したいと胸がザワめいた。彼から漂う甘い香りが一々ひくひくと鼻腔を刺激してくるのもソワソワしてしまう。
私はそっと目を閉じて、彼から漂うこの花の香りを思い出そうとした。
刹那、頭の中に眩しい閃光と映像がブワッと流れ込んできた。
花畑。
麦わら帽子。
差し出された右手。
顔の見えない男の人。
キンとした高い耳鳴りに驚いて、私は思わず目を開いた。冷や汗がツゥと頬をつたうのを感じた。
彼の方を振り向くとすぐに右手を差し出された。
「さぁ、お嬢さん。次の扉を開きましょう。僕があなたを迷わせません」
彼の顔と差し出された手をしばらく交互に見た後、私は静かに微笑えんで彼の手を取った。
その後もふたつ、みっつ、よっつと扉を開いた。
ふたつ目の扉は高校生の時の記憶だった。
親友の美咲と乗っていたバスの中でパニックを起こし、私が「ごめんね」と告げると逃げるようにバスを降りてしまうというなんとも胸の痛いシーンだった。
バスを降りた私は、人の居ない公園まで必死の形相で駆け抜けたあとベンチに座りこんで涙を流していた。
走り去る私を追いかけてバスを降りたと思われる友達が「由紀!」とベンチまで駆け寄るとそのまま力一杯私を抱きしめた。
「なんで来たの?」と私は抱きしめられたまま静かに美咲へと問いかけていた。
「放っておけないから」と美咲は答えた。
「やめて。惨めになるの。もう、誰にも迷惑かけたくない。もういいから。私なんかのために何もしてくれなくていいから」
そう言って私は美咲を引き剥がそうとした。
すると美咲が先程よりも強い力で私を再び抱きしめた。
「何もしてくれなくていいとかなんだよ。迷惑かけたくないってなんだよ。友達だろ。頼れよ。助けてって言えよ。私だって由紀にたくさん助けてもらってるよ。元気貰ってるよ。迷惑なんて思わないから何も考えずに私だけは頼れよ」
私の目からまた涙がこぼれた。
優しい光が包み込んで、ふたつめの記憶が閉じた。
私の一生の友達、美咲。彼女にたくさん救われた。彼女さえいれば何もいらないと思っていた。
案内人は「素敵なお友達ですね」と呟いたまま、涙を流す私を笑顔で見守り続けた。
みっつ目の扉は20歳の頃の記憶だった。
ひとりの男性とアバターコミュニティサービスを通じて知り合った時の記憶。
室内を荒らしていた私に「どうしてそんなことしてるの?」と優しく声をかけてくれたのがアルファという19歳の男性だった。
私は彼に自分の病気のことを話し、私の話を聞いたそんな彼は「俺が治してあげたい」と言ってくれた。私は顔も知らない、本名だって知らない彼にたったの数分で恋をしてしまった。
辛い時や、悲しい時は彼にメッセージを送り、彼と話していると魔法に掛けられたように笑顔になれた。
私がどれだけ会いたいと願っても、ネットで知り合った人と現実で会うことは出来ないと予め彼に言われていたので、半ば諦めてはいた。
ある日友人の美咲ととあるカフェでお茶をしていると、彼からメッセージが届いた。
そのメッセージで偶然同じ駅の同じショッピングモール内にいることを知った私は「今、私も友達とそこにいる」と返信をした。
神様が私にご褒美をくれたのかもしれないと、そう思った。
彼に会えるのなら明日から死ぬ気で頑張ります、なんでもしますと頭の中で切実に神様に訴え続けた。
「由紀ちゃんの友達が一緒なら会いたいかも」とすぐにアルファから返信が届いたことで、私はかつてないほどの喜びを無我夢中で美咲へと表した。書店の前で待ち合わせることが決まり、私は隠しきれない喜びを抱いたまま美咲とカフェを後にすると、下の階にある書店へと向かいアルファを待った。
ゆっくりとこちらへと歩いて来る男性に目を奪われた。
目が離せない。スローモションだった。
目の前に現れた男性は身長180センチの韓流アイドルのような男性だった。
そして彼は優しい笑顔を向け私を真っ直ぐ見つめると美しいか声色で言った。
「はじめまして。アルファこと奎介です。よろしく、由紀ちゃん」
優しい光が私を包み込んだ。
「けいちゃん」
私の頬をポロポロと涙がつたった。
会いたい、会いたい。会いたい。
私は泣きじゃくりながら「早くここから出たい。けいちゃんに会いたい」と案内人に強く訴えかけた。
案内人は私の切実の訴えに何も答えてはくれなかった。
私は若干気づきはじめていた。この空間が一体何なのか。
何のためにここにいて、どこに向かっているのかを。
私は涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げ、案内人へと振り返った。
何故、可哀想な人を見るような目で私を見るのだろうか。
何故、あなたがそんなにも辛そうな顔をするのか。
どうしてどうしてどうしてと疑問ばかりが頭を支配すると同時に、冷静にならなくてはと自分の気持ちを必死に抑え込んだ。
これだけは覚えている。辛くても悲しくても、笑っていれば大抵のことは楽しいと脳が錯覚させてくれるのだと。
私は声を出して笑ってみた。大きな声で子供みたいにお腹を抱えてケラケラと笑った。
「ふふ、ごめんなさい。どうしてあなたが黙るのよ。お願いだからそんな辛そうな顔で私を見ないで?」
突然な私の大きな笑い声に案内人はびっくりした様子を浮かべていたが「違うんです。ごめんなさい」と謝ると、再び私から顔を背けた。
あぁ、まだ辛そうだ。私といると何故だか彼はすごく辛そうなのだ。
それは私の負の感情とやらを多めに背負っているからなのか、純粋に私という存在に何か心痛めるものがあるのか。
数秒、私たちの間に沈黙が流れた。遂に我慢ならなくなった私は、彼の側へ数歩近づくとそのまま手を伸ばし彼の帽子にそっと触れた。
「この香り知っているわ。とても懐かしい香り…ごめんなさい。必ず思い出すからもう少しだけ待っていてね」
私の言葉にじわじわ涙を浮かべたと思ったら、彼はそのまま自分の目元まで被っていた帽子を下げた。
数秒間、静かな部屋に彼の嗚咽が響いた。案内人は大きく深呼吸を吐くと、優しい顔を浮かべ、右手で私の頬へと触れた。
彼の右手はとても暖かかった。幼い頃触れた父の温かさを思い出す。
私は触れられた頬に自身の左手を重ねると「泣いたりするなんてらしくないわね」と言った。
案内人は「泣いてないですよ」と言った後「僕はあなたの笑った顔が好きです」と何故だか嬉しそうに歯に噛んだ。
現実かどうかも定かでないこの不思議な空間で、私の「案内人」と名乗るおかしな男と笑い合っている。帰りたいと思う反面、頭のどこか片隅で、このまま時間が止まってしまえばいいのにと願っている自分がいた。そう思うたびに頭の中で「由紀」「由紀ちゃん」と私を呼び戻そうとする大切な人たちの声が聞こえた。
私は「案内人、次の扉に連れて行って」と彼の手を握る。
本当は進みたくなんてないし、扉なんて開きたくなかった。
でもここに来ることを選んだのは、望んだのは私自身だ。いつまでも思い出なんかに囚われてはいけない。
それでも、このまま思い出さずにいられたら私は幸せなのかなとも考えてしまう自分がいた。彼らがいるから私は迷ってしまう。決断できずに、明日もここに踏みとどまってしまう。
私は彼の手を握る力を強めると「最後までそばにいてね」と呟いた。
「あなたが望むのならどこまでも」と案内人は優しく微笑むと、そのまま私の左手を自分の口元まで運びキスをした。
よっつ、いつつと扉を開き終え、沢山の星々が私と案内人を包み込んだ。
「綺麗…」
きらきらと部屋一面に煌めく星々を見渡して、私は思わずそう呟いた。
頭の中でピシピシと音が聞こえた。
するとパリンとガラスの割れる大きな音が頭の中で響き、小さな記憶のかけらたちが、大切な人が、かけがえのない思い出がきらきらと音を立てて夜空を模倣した空間に散らばった。
お父さん、お母さん、お姉ちゃん、妹、それから美咲にけいちゃん。私が心から大切だと思える人、愛してやまない人たちの言葉が耳いっぱいに響き渡った。
「ずっと友達だから安心しろ。由紀の幸せを誰よりも願ってるのは私だから」
夜空の下に、美咲の言葉が響いた。
「俺が治してあげたい」「由紀ちゃんを傷つけるものは俺がぶっとばす」「誰が由紀ちゃんを守らなくても、俺だけはずっと君を守るから」
続いて、夜空の下にけいちゃんの言葉が響き渡った。
「由紀、あなたはお母さんの宝なの!勝手に死ぬなんて絶対に許さないから!」
お母さんの言葉が、キラキラと夜空を駆け抜けた。
「もういいわ、案内人。あなたが請け負った負の感情も全て私に返してもらえるかしら」
私は隣で静かに佇む案内人へと言った。
案内人は少し戸惑った様子を浮かべると「でも…これは…」と息を飲み込んだ。
「私は大丈夫。だってあなたが慰めてくれるんでしょう」
私は彼の帽子にそっと触れると、そのままゆっくり彼の額まで手を移動させた。
「返してもらうわね。あなたには何もないまっさらな状態で私と向き合ってほしいの」
私は目を瞑り、彼の頭の中の情報を全て自分の頭の中に戻すイメージを浮かべた。
すると彼の額あたりからポウと優しい光が出てきた。
あまりにも優しい光で、これが負の感情だなんて到底思えなかった。
光はゆっくり私の頭の中へ入りこむと同時に、膨大な記憶と情報の数々が一気に私の脳へと流れ込んだ。
優しかったお父さんが変わってしまった幼少期。
叩かれた記憶。殴られた記憶。心身共に痛かった記憶。
お皿を割ってしまったり、箸を落としただけで殴られるという間違った認識がずっと離れなかった。
父親の前ではないにも関わらずものを落とすたび頭を抱えて「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」と無我夢中で謝り続けた。
それが学校の同級生だとしても、教師だとしても、美咲だとしても、けいちゃんだったとしても。
高校生に上がった姉は、家を出るように寮での生活を選んだ。
私は残された妹と母を守り続けた。代わりに自分が殴られようと、家族を守り続けた。
そのうち解離性健忘という障害が頻繁に起こるようになって、私は居るはずもない人やものと話すようになった。
母親に無理やり連れて行かれた病院で医師に心因的な問題によって引き起こされる突発的な「健忘」だと言われ、そして「統合失調症」であると診断された。
もう恋なんて一生出来ない、人並みの幸せは味わえないと思っていた時に、けいちゃんと付き合えてとても嬉しかったし幸せだった。
運命的であると同時に、一生分の恋をした。5年間、映画の主人公のようなロマンスを味合わせてくれた。
私の妄想や健忘が酷くなり「由紀ちゃんといると可哀想で辛い」「どんどん笑顔が消えていく由紀ちゃんを俺は後どれくらい見続ければいい?」と心身共に疲弊させた。
私の存在はけいちゃんにとって障害であると同時に邪魔でしかなかった。
だから、離れなきゃいけなかった。離れてあげなきゃ彼を幸せにしてあげられないと思った。
美咲に「今の付き合ってる人と結婚して、彼の働く富山に着いていこうと思う」とある日突然宣告された。
あなたまでいなくなってしまうの?けいちゃんも居なくなってあなたまで私の前から消えてしまうの?
「強くなれ」
美咲に言われたその一言が酷く投げやりなものに聞こえたと同時に、見捨てられた気がした。裏切られた気持ちになった。
涙がポタポタと頬を伝う。
私は顔を両手で覆うと、そのままゆっくりと床に崩れ落ちた。
最後にけいちゃんと見たのは見事なまでの花畑だった。
「とても綺麗だったの。涙が出るくらい。ありがとう。ようやく全て思い出したわ。」
そうだ。全て思い出した。自らを案内人と称する男の正体も、自分がこの白い部屋に迷い込んだ意味も。
私は色とりどりに飾られた男の帽子へゆっくりと手を伸ばした。
そしてそのきれいで眩いばかりの花にそっと触れる。
「私の一番好きな花よ。貴方は、人じゃなかったのね。貴方の正体は私の大好きなスイートピー。誰もいなくなってしまってから貴方だけをずっと愛でていた。私の生き甲斐だったの。ありがとう…ずっと一緒にいてくれてありがとう。」
一つ、また一つと言葉を紡ぐたびに涙が頬をつたう。男は優しい声色で私を慰め、その綺麗な手で私の涙を拭う。
「泣かないで、お嬢さん。誰が否定しようと僕だけは貴方の味方です。だからどうか、苦しまないで。貴方はとても純粋だ。毎日僕のような花に語りかけてくれた。精一杯の愛をくれた。最後まで僕は貴方のそばに居ます。だから安心して…」
男は優しく微笑む。しかし、その表情はどこまでも切ない。彼が人であったのなら、私は少しでも救われていたのだろうか。そんなことを、ふと思う。しかし、それは叶わない願いだ。私が心から得たいと望んだものたちは、手のひらですくった水のごとく、指の隙間からポタポタとこぼれ落ちていった。
安心して…そう言った彼の言葉の続きを私はもう理解している。
『どうか眠って下さい』
意識がどんどん遠のいていく。この白い部屋からようやく出られるようだ。しかしそれは私の終わりを意味する。そうか、これは私の走馬灯だったのか。
美しい思い出を胸に、私は現実へと落ちていく。
目が覚めたのは一面雪景色のベンチの上だった。散らばった大量の薬物の残骸と膝の上に乗った一輪のスイートピー。
強風の中、私の膝の上から決して落ちることのない、案内人。
「最後まで居てくれてありがとう。美しい思い出を胸に私は眠るわ。貴方のおかげで寂しくなかった。もう、寒さも感じないの。」
散らばる薬の残骸を見て、私はゆっくりと目を閉じた。
「起こしてくれてありがとう。貴方に会えて良かった。お礼を言えて、良かった。」
どうか、姉も妹も、恋人だった人も友達も、私という存在を忘れないで。
もう体温は感じない。しかし、そっと触れたスイートピーが何故だか暖かく感じた。朦朧とする意識の中、男の声が聞こえる。
「次に歩む貴方の来世が、どうか幸せでありますように。」
ふふ、と笑みが溢れる。そして私の意識は完全に闇の中へと消えていく。一輪のスイートピーを大事に握りしめながら。
「おやすみなさい。」
そう言ってプツリと私の意識は途絶えた。
暗闇の中で最後に「由紀」と私を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「早く目を覚まして、由紀ちゃん」