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短編集

棒振り小六~明治剣客異聞~

作者: あわき尊継

 夕闇に佇む着物の男が二人、刀を構えて対峙している。

 こめかみの横へ太刀を大きく掲げ持つ男の表情は険しい。

 対し、ゆらりと立つ相手の脇差は正眼に構えられており、大振りな上段からの攻撃を不用意に放てば、突きによって容易く喉を貫くだろう。

 故に太刀の男はしっかりと顎を引き、相手を捉えているが、陽の光がどうにも邪魔だった。

 それは互いに同じなのだろう。

 山道に差し込む西日は強く、相手の一切を見逃すまいとしながらも視界がぼやける。

 険しい顔の男も、余裕そうに見せている着流しの男も、決して相手を見誤ってはいない。

 僅かな隙も見せてはいけない。

 僅かな隙も見逃してはいけない。

 ならば、視界を掠める陽の光が邪魔だ。

 だからそう。

 決着は日没の後にやってくる。

 そうなると頑として立つ太刀の男の消耗が大きい。

 呼吸を乱し、筋肉が緩む瞬間を悟られてしまえば、紙一重を裂かれて死亡するだろう。

 一方で着流しの男も油断は出来ない。

 左右に不規則に揺れていることで立ち続ける負担は減るが、規則性を見られたくないと重心を出遅れる場所へ移してしまえば、日没など待たず頭をかち割れてしまう。

 放たれる気迫の強さからも、巌の如く揺るがぬ立ち姿からも、そこに立つ男が尋常ならざる者であると分かるから。

 風に桜の花びらが散っていた。

 何処かで狼が鳴いて、夕焼け空がほどけていく。

 翳っていく景色の中、強い光を受けていた眼球は即座に闇を見通せない。

 けれど、示し合わせるでもなく来ると思った。

 し合いで万全さなど求めるべくもない。

 期が訪れたのであれば、どれほど不合理であろうと始まってしまう。

 相手の全てを見通す為に日没を待ったというのに。

 それでも膨れ上がる己の気力が、研ぎ澄まされた感性が、陽が落ちたその瞬間の、明確な切り替わりを得て動き出すと感じていた。

 遠く茶屋の娘が最後の客を追い出して、旗と暖簾を仕舞い込む。

 客は反対側へ向かったようだ。

 何故か話し込む声が風に流れてきて、遠くここへ至るまでの景色を思い浮か


――――陽が落ちた。


 一日の終わり、その最後の輝きを吸って、刃が奔る。






   ― 棒振り小六~明治剣客異聞~ ―







1853(嘉永6) ペリー来航

1866(慶応2) 薩長同盟

1867(慶応3) 大政奉還

       王政復古の大号令

1868(慶応4) 戊辰戦争

1869(明治元年)

1871(明治4) 廃藩置県

1873(明治6) 徴兵令及び仇討禁止令

1876(明治9) 廃刀令


 散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。

 時は明治、徳川の世が終わり、廃刀令によって侍の時代は終わりを迎えていた。幕末にあった恐ろしき夜は鳴りを潜め、ようやく戻った平和の中で、町民らは笑顔を取り戻しつつある。

 時代は変わったのだ。

 道行けば陽気そうな商人が客を捕まえて長広舌を振るう。

 店先に植えられた大きな桜も、明治政府が侍の時代から変わったと、それを象徴するべく広めている所なのだとか。

 確かに春先に咲いた薄桃色の美しい花弁は、妙に心へ馴染む。

 それまでは森や山に時折生えているのを見かける程度で、街中にこうも堂々と立ち並んでいるのは珍しかった。一つ二つならば風情を感じるだけだが、景色全てを埋め尽くす程ともなれば手を打って見事と叫びたくもなる。

 自然、人は集まり酒を飲み、歌に手拍子と陽気な時間が訪れた。


 そんな春の景色を行く中で、一人険しい表情の大男が歩いて行く。

 腰には太刀、脇差と懐刀まで。

 旦那、戦帰りですかい、などと揶揄したくなるような有様だが、未だ結わえられたままの髷まであっては口を噤む。


 廃刀令が布告されてからも、刀を捨てずに各所で問題を起こす侍は絶えなかった。

 ようやく平和が訪れたと、陽気に笑っていたい町民らからすれば良い迷惑である。

 仮に、今の世は次なる時代をと死に物狂いで戦った者達によって築かれているのだとしても、混迷も騒乱も、そもそも侍達が勝手にやって、勝手に町民らから奪ってきたというのもまた事実。

 これまでは封じられてきた不満も、明治政府が発した散髪脱刀令を始めとした政策が明らかに侍を排するものであった為、自然と不満の噴出口を作っていた。

 酔った一人が勢いのまま暴言を吐こうとしたが、周囲の者が慌てて止めた。


「止めとけ……ありゃ棒振り小六だ」

「あんた知らないのかい? ここいらじゃ有名な悪ダレの一人だよ」

「なんでも家に鬼を飼ってるって話だ。毎朝毎夜、恐ろしい奇声が聞こえて来るんだとかっ」

「嫌だねぇ、まだ侍の時代だとでも思ってるんじゃないかい」

「にしても小六たァちいせえ名前だな。まあ、消えていくだけの連中にはお似合いだがな」


 揶揄の言葉は小六の耳には届かず、彼は息を切らせて歩いて行く。

 草履が小石を噛んで滑る。

 裾は乱れ、袴が砂で汚れていた。

 普段であれば在り得ぬザマだ。

 けれど今、小六の心は千々に乱れ、決意を圧する程の悔恨が胸を圧し潰していた。


    ※   ※   ※


 運ばれてくる夕餉を止めて、下座の母が着物の裾を正す。

 いつだって刃の様に研ぎ澄まされた彼女が敢えてそうして見せたことで、小六は顔を俯かせた。

 彼が居るのは上座。

 本来そこへ座る筈の父は幕末の京にて死んだ。

 主を守り死んだのだから、誉れある最期であったと言えるだろう。

 それについて、当時の幼かった小六は幾度も母から聞かされ、己もまた父のように勇敢な侍であろうと修練を続けてきたのだ。


 そんな小六も、母の睨みを受ければ縮こまる。

 頭一つ分以上も大きな身体をして、尚も小さく、背を丸めた。


「こちらを見なさい」

「……はい、母上」


 どうにか顔を持ち上げれば、内心を射貫くような瞳が目の前に来る。

 版籍奉還から廃藩置県。かつて侍の家というだけで得られていた禄は今やない。父が死に、働き手の居ない小六の家は見る間に痩せ細った。

 それでも今日まで小六が髷を結っていられたのは、母がどうにか家を維持してきてくれたからだ。


「話しなさい」


 揺れる小六の瞳に何を見たのか、凛と言い放つ母に彼は座したまま下手へ回った。

 到底上座から語れることではなかったから。


「……実は太助が今夜、仇討ちをすると」


 僅かに母の眉が寄せられた。

 それだけで小六の内心は震え上がる。

 世話になってきたというだけではない、純粋に母が恐ろしいのだ。

 父亡き後、母は小六を立派な侍にしようとそれはもう厳しく躾け、泣かされたことなど両手の数では到底足りない。そうして泣けば、母は道場へ小六を連れていき、食事も与えず打ち込みをさせる。下手な振りなど見せれば強烈に打ち据えられる為、怯えながらも必死に竹刀を振り、いつしか泣くのを忘れるのだ。


 その母が、明らかな怒りを見せている。

 小六は平伏した。


「政府より仇討ちは禁止されております。けれど止めることが出来ず、先ほど私は友を見送ってしまった。事が広まれば太助の家は取り潰しとなるでしょう……ですが」

「それだけですか」


 鋭い一言に冷や汗が出る。

 地に伏し、尚も謙らんと額を擦り付け、小六は腹に抱えてきたものを明かす。


「私は、太助と共に、行くべきだったのではないでしょうか……ですが、そう言おうとした時、母上の顔を思い出しました」


 明治政府の行動は徹底していた。

 廃刀令は数の多さにやや遅れがちだが、仇討ちや斬り捨て御免など、侍が徳川の時代に持っていた特権を無理矢理行使すれば間違いなく家は取り潰される。

 仇討ちに加担などすれば小六は獄へ繋がれるか、切腹を命じられるか。

 残った母とてどうなるか。


「顔をあげなさい」


 言われ、改めて母を見た小六は驚愕した。

 いつの間にか母の膝の前には、抜身の小刀が置かれていたからだ。


「これはお前の父が京へ発つ際、私へ預けていったものです。自分に何かあった時は、お前が小六を守るんだと。小六」

「はい」

「私はお前を侍として育てました。時代が変わり、世が侍を廃そうとしているのは私も理解しています。ですが、お前は仇討ちを誓う友を見逃し、見送ったのですね」

「はい」

「ならばお前は、その心は、あの人と同じ侍のものでありましょう。故にこそ問わねばなりません。小六――――何故、友の仇討ちを見送ったのですか」


 何故。

 それは、母の顔が浮かんだから。

 自分だけならば良い。けれど、ここまで育ててくれた母を巻き込み、不幸にする訳にはいかない。

 だからと言葉にしようとし、あまりの情けなさに身が震えた。


 しかし、その程度の悔恨では足りぬと、母は真実を突き付ける。


「太助がお前に仇討ちの事を打ち明けたのは、お前に助力を願いたかったからではありませんか?」


 今度こそ、今度こそ小六は耐え切れず、呻きを漏らした。

 我が事ばかり。この時代に侍として生きている友への嫉妬すら感じながら、終ぞ彼の心を推し量れなかった自分に震えるほどの恥を感じた。


「しかし」


 と。


「しかしではありません!! 小六ッ、お前は友に命を預けるべき相手として望まれながら、我が身可愛さで身を引いたッッ、恥を知りなさい!!」

「しかし母上を巻き込む訳には参りません!!」


 ダン、と畳を打ち付ける足音が響いた。

 立ち上がった母が手にしているのは先ほどの小刀だ。


「私は侍の妻! 我が子が仇を討ち取ったなら、それで世間が私達に死ねと言うのであれば、仇討ちの成就をあっぱれと叫びっ、喜んで腹を裂きましょう! いつまで畳に座しているつもりですか! すぐにでも友を追い掛け助太刀するのです!! それを成すまで我が家の敷居は跨がせません!!」


「~~~~~~~っ、っっっ御免!!」


 傍らに置いてあった太刀を、脇差を掴み取り、小六は駆けた。

 門を飛び出し、街道を駆け、友と別れた橋の上へ達し、向かったであろう廃寺へ全力で走る。

 木の根に浸食された階段を駆け上がり、そうして。


 そうして小六は、血溜まりに伏した太助を見付けたのだった。


    ※   ※   ※


 廃寺で倒れていたのは三人

 一つは太助で、残る二つは中年の男。

 男らは既に事切れていた。

 けれど、小六が助け起こした時、太助はまだ意識があった。


「太助っ、太助ぇっ!! すまん! 俺は、お前と共に……!」


 震えた声を荒げる小六に対し、辛そうに息をした太助は静かに応じた。


「おう……来てくれたのか、小六。はは、不甲斐ない……一人、やり損なってしまった」

「三対一で二人も仕留めたのだ、何を恥じることがある! お前は立派だ! なのに俺と来たら勝負の場にも間に合わず……っ、お前の友失格だ!」

「言うてくれるな、友よ」


 着物を掴む太助の腕を見て、改めて小六は息を呑む。


「なんと惨い……」


 太助の腕は、ずたずたに引き裂かれていた。

 し合いだけでこうはならない。

 相手は、太助を行動不能へ陥れた後で、彼の右腕を刻んだのだ。入念に、何度も何度も刃を入れて、刀を握る為の腕を、使い物にならなくした。


 なにがそうまでさせたのか。

 侍への恨みか。

 だが、彼が受けているのは明らかに刀傷だ。

 廃刀令の世で敢えて刀を佩いている者など、侍以外には居ない。


「誰がやった」


 問いかけに太助は首を振る。

 元より、この仇討ちは奉行所に勤めている彼の父が、侍への便宜を図った為に政府から切腹させられたことへの侮辱に端を発しているという。

 相手が何者であるのか、小六は知らない。

 禍根を残さぬよう、敢えて教えずに別れたのだ。

 けれど今なら。

 そう訴えようとした小六に、太助は笑う。


「妹を、頼む」


 切り刻まれた腕でどうにか拳を作り、胸を叩く。

 ほんの僅か、風がそよぐほどの感触を残して、太助は瞼を閉じて、息を抜いた。


 吸うことは、二度としなかった。


    ※   ※   ※


 葬式に集まる者は少なかった。

 太助の父が政府から切腹を命じられたことで、目を付けられるのを避けたがっているのだろう。

 幼くして母が死んでいる為、喪主は残された妹が務めた。若く、傷付いたろう娘に任せてはおけないと、実務の殆どは小六の母が行い、式場も自家を提供している。


 太助とその妹は、街外れの貧相な長屋に住んでいた。

 父親が死んで、財産や家を取り上げられたとは聞いていたが、頑として太助は明かそうとせず、我が家に来いという誘いにも首を振ってきた。

 同じ立場であれば小六も同じような意地を張っただろう。

 故に今日まで詮索はしなかったが、事を知らせる為に探し回った先であのボロ屋を見た時は流石に言葉を失った。


「小六さん」

「……おみつか」


 念仏は続いているが、焼香も概ね終わり、今は昼休みといった様子。

 喪服に身を包んだ太助の妹、おみつは、屋敷の影を被るようにして俯いている。


「ありがとうございました、いろいろと、お世話になってばかりで」

「言うな。せめてもの償いだ」


 経緯の一通りを小六は話した。

 一度は背を向けてしまったこと、間に合わなかったこと。


 表向きこの一件は物取りの仕業ということで収まっている。

 奉行所には二人に同情的な者も多く、既に家も財産も、家族すら失ったおみつへこれ以上の事はと仇討ちの件は秘匿された。

 侍として生きて、果てた、太助を穢す様な言い分に納得はしていない。

 けれど訴えかける小六を奉行所は相手にしなかった。


「落ち着くまで、いつまでも居てくれて構わない。母上も納得している。我が家と思って、どうかゆっくりと身体と心を休めてくれ」

「本当に、どうお礼を申し上げれば良いか」


 いい、そう言った小六は、軒先から数歩を踏み出して山の裾野を見据えた。

 家の庭からも見えるあの辺りに、太助が仇討ちを行った廃寺がある。


「どうして……皆、侍になんて拘るんでしょうか」


 背後から漏れ出した言葉に小六は唸る。

 察するに余りある想いは、きっと幼い頃から見知った彼の前だからこそ漏れた言葉だ。

 己の意思に反しようとも、か細く紡がれる想いを足蹴には出来ず、ただ黙り込む。


「刀を見ると、もう、怖くて。今日、少しだけ御使いで商店へ向かいました。廃刀令があるのに、未だに刀を差している人が居て、皆、怖くて息を詰めるんです。どうして。もう、戦わなくても良い筈なのに、どうして」


 母ならば叱咤しただろうか、あるいは慰めただろうか。


 どちらにせよ、父を失い、今また兄まで失ったおみつには、それを言うだけの権利があるだろう。二人が共に侍であることを捨てていたなら、まだ、一家は笑っていられた筈だ。


 喪服故に今は刀を佩いていないが、小六は左腰の帯を掴み、強く握り込む。


 一度は飛び出しておいて、果たせず、戻ってきてしまった。

 あの時は確かに母と共に自刃するのも悪くないと思えたのに、こうしておみつの訴えを聞いていると、どうしても迷いが生じてしまう。


 厳しい母だった。

 鬼嫁と揶揄する者が居るのも知っている。

 けれど、紛れも無く愛してくれていた。

 罰と言って飯を抜いた時には、自身も頑として口にはしなかった。

 明治の世にあって小六が侍を自認していられるのも、母の指導あってこそだ。


「侍として生きて、死んで……父と兄は、幸せだったのでしょうか」


 分からない。

 だからこそ小六は口を紡ぎ、廃寺を睨み付けた。


 そうして母に呼ばれたおみつが葬儀場へ戻っていった後、妙にふらついた足取りの男が門を潜って来た。

 入口で身元の確認は行っている筈だが、見た覚えはない。

 どうにも酒に酔っているように見えた為、流石に入れる訳にはいかないだろうと歩み寄っていった小六に、その男は飛び付く様に倒れてきた。


「棒振り小六だな」


 腹に短刀を突き付けられている。


「なるほどなあ。良い身体つきをしている。だがなんだよその面ァ……折角の好敵手かと思ってたのによ、萎えちまうじゃねえか」


「何者だ」


「廃寺の置き土産は見たか? お前さ、遅れてやってきたらしいじゃないか。もっと早く来てくれれば、あの男だってあんな痛い想いをしなくて済んだのにな」


 伸びた小六の腕に男は身を引いて両腕を広げた。

 手にしていた筈の短刀はいずこかへと消えている。


「は! 少しはマシになったな。けどまだ足りない」

「お前の目的はなんだ」

「目的?」

「残された二人の死体、それが仇討ちの相手であったと分かっている。だがお前は、お前のような奴があいつの側に居たとは思わない。その目は、血に飢えた獣の目だ」

「っははは!!」


 男は痛快そうに笑う。

 なのに目の奥はどうしようもなく淀んでいた。


「獣、かぁ。侍になりたくてさ、ずっと腕を磨いてきたんだ。だけど世間じゃ侍の時代はもう終わったとか、刀より銃の方が強いじゃないとかさ、好き勝手言われてるよなあ」


 旧幕府軍が、近代化改修された新政府軍に惨敗したというのは有名な話だ。

 騎馬武者など最早戦場では大きな的にしかならない。


「けど気付いたのさ。誰が認めるかじゃない。俺自身が、俺を侍だと認めることが大切なんだって。これでも京都じゃ頑張ったんだよ。沢山殺した。藩のお偉方にも気に入られて、侍にして貰えるかもって思ったんだけどさ……俺がやってたのは汚い暗殺だからって、最後には切り捨てられたっけな」


 聞くに憐れな話はあったが、それで逃げ延び人を殺して回っているのであれば、許容など出来る筈もない。

 だが男も気にはしていないのだろう。

 自分が納得すればそれでいい。

 いつか、どこかで誰かに認められようと足掻いた果てに裏切られた。

 今となってはそれだけの話だ。


「三日後……そうだなぁ、廃寺は人がうろついてるし、山道で待ち合わせるのはどうかな?」


「何の話だ」


「何って、仇討ちだよ。侍なら、友の仇を討たなくちゃ」


 頭の片隅で、おみつの嘆きが響いていた。

 けれど、一度は通った道だ。

 小六は覚悟を決めて、目の前の男を討つと決めた。


「いいだろう。廃寺前を通る道をまっすぐ行けば、夜になれば全く人の通らない道がある。その手前にある茶屋でお前を待っていてやる」 


 男は薄く笑い、新たに門を潜って来た者へ軽く声を掛けて出ていった。


    ※   ※   ※


 棒振り小六は朝晩の素振りを欠かさない。

 目覚めて井戸の水を浴びたなら、それが変わるまで木刀を振り続ける。

 飯を食って、陽が登って来た後で、父の残した合戦用の武者鎧を着こんで真剣を振るう。

 真夏ともなれば気が遠くなるような熱さだ。

 だが熱いから兜を脱ぎました、で相手が狙わずにいてくれる筈もない。

 近代兵器は元より、鉄砲足軽とて武者の頭を撃ち抜いてくる。故に夏も冬も、常に鎧を着ての稽古は欠かせなかった。


 打ち込みの際、小六は奇声を発する。


 常軌を逸しているとさえ言われる大声だ。


 精神が肉体に与える影響は大きい。戦術や戦略の失敗を精神に求めるのは愚の骨頂だが、肉体というのは人が思っている以上に力を隠し持っている。

 故に叫び、今がその時ぞと身体を慣らし、いつでも隠された部分を使いこなせるようにならなければいけない。


 ここしばらく、葬式があって稽古そのものを控えていたから、今朝からのそれは一際激しい。


 己が納得できるまで延々と繰り返し、疲れ果てた身体で尚も奮い立つ。

 狂人とまで言われる小六の修練は、太助でさえも諸手を挙げて逃げ出すほどだ。


 父の様に。

 そして今は、太助の様に。


 侍でありたい。


 どうしようもなく、それは小六にとっての望みだった。

 飯を食うなと、箸を取り上げられた所で納得できるだろうか。

 腹はどうしようもなく空いてくる。

 小六にとって侍とはそういうものだった。


「おつかれさまです」


 兜を脱いで縁側へ歩いて行くと、おみつが出てきて盆を置いた。

 湯気の立った茶と、握り飯、そして沢庵だ。

 早くに病で母を亡くした太助の家では、おみつが家を回していたという。試行錯誤の末に辿り着いた、母の作っていた沢庵。塩気の聞いた握り飯と食べれば、それはもう堪らない味わいだ。


「ありがとう」


 鎧を外そうとすれば、草履を履いて近寄ってくる。

 慣れた手つきで留め具を外してくれ、一つ一つを丁寧に縁側へ並べていった。


「助かる」

「いえ」


 それから鎧の手入れをしようとするおみつを留め、縁側で並んで青空を眺めた。

 腹が減っていた為、ついつい荒っぽく握り飯を食べると、おみつは目尻を下げて笑い、茶のおかわりを淹れてくれた。

 小気味良い音を立てて沢庵を齧り、握り飯を食い、茶を啜って。


 熱く、吐息が漏れた。


 あぁ、と。

 けれど口にはしなかった。


「少しは落ち着いたか」

「はい……小六さんには、とんでもないことを言ってしまったと」

「良い。葬式の最中だったのだ。残された家族は思う存分に泣き、嘆く資格がある」

「それでもお侍様にあんな、つもりでは無かったのですが」

「良い」


 すっかり小さくなってしまったおみつの頭に手をやった。

 少々、はしたない行いだ。

 もう嫁に行ってもおかしくない年頃の娘へ、気安く触れるべきではない。

 失敗したなと目を逸らし、息をついた。


 春先の空気はまだ少し寒く、山の向こうからは雲が尾を引いて伸びている。

 陽は傾いてきているが、日没には遠い。

 静かな風を頬に感じながら茶を啜った。


 穏やかだ。

 故に思う。


 この時間に、本来は太助も居た筈なのだ。


 間に合わなかったが故に。

 あるいは、彼を仇討ちへ駆り立てるものが無かったなら。

 栓無い事よと割り切ることは、どうしても出来ない。


 隣でおみつも同じことを考えていたのか、彼女の口から漏れた押し殺した様なため息に背を押されて、小六は立ち上がった。

 縁側に置いてあった太刀を掴む。


「何処かに?」

「あぁ」


 刃を下に、腰に挿して、鞘紐を結わえ付ける。

 太刀は脇差よりも長く、重みがある。脇差ならば上向きに刃を置く所だが、そも合戦向けの古刀に抜き放つ動作の優劣など関係が無い。

 騎馬の上より振るい、分厚い芯と大きな反りで切り裂くのみ。


 脇差に視線をやったが、置いていくことにした。


「少しな、腹ごなしに散歩をしてくる」

「でしたら、私も」

「すまん」


 下手な言い訳はしなかった。

 いつもの調子で言ったのだが、なにか思う所でもあったのか、門前までおみつはついてきた。


 言いたいことはあった筈だ。

 刀が怖いと言っていた。

 ようやく平和になると喜んだ矢先に父と兄を失って、侍という生き方を疑問視するのは分かる。

 小六もこの三日間、じっくりと考え続けてきた。


「行ってくる」

「はい。行ってらっしゃいませ」


 考え、故にこそまずは、行こうと思ったのだ。


    ※   ※   ※


 侍の世は終わるべきだろうか。

 刀は、もうこの国の何処にも必要とされていないのだろうか。


 父のようにと夢を見た。

 けれど、同じように侍を目指した男は凶刃を振り撒き、一人の娘から兄を奪った。


 明治政府が何を見て、何を考えているのか小六には分からない。

 侍から刀を取り上げたのは、本当に世を平和にする為なのだろうか。ならばなぜ、徴兵令など発したのだろうか。戦いは侍の務めだ。それを奪っておきながら、なぜ戦う理由もない民に強要しようというのだろう。

 刀が不要になったのは、強い銃が生まれたからか。

 戦場に武者が必要無くなり、より簡単に人を殺せる銃があるから、侍は消えていくのだろうか。消えた先で、おみつのような者まで銃を抱え、戦わなければならない時が来るのだろうか。


 けれど、今日まで刀を振るってきた侍も、理不尽な暴力で命を奪ったことがないとは言えない。

 誰しもが幼い頃に憧れた己のままではいられず、どこかでこの、獣じみた目をした男のようになるのかも知れない。


 茶屋で待ち合わせた男と丘向こうへと歩を進め、平地へ差し掛かった所で太刀を抜いた。鞘は邪魔だ。脇差を置いてきたのも、一対一の状況で少しでも動きの邪魔をするものを廃したかったから。

 ならば鎧兜は。

 持ち運びの邪魔だったのもある。

 だが、男の身のこなし、太助を相手に無傷で生き残っているという事実から、下手に視野を狭めるのは危険と判断した。

 これは尋常なる勝負ではない。

 民を怯えさせ、また誰かを不幸にする、仇討ちなのだから。


 そうしてし合いは始まった。

 何の意味があるのかも分からない。

 望まれてもいない仇討ちに、侍を目指した二人の男が挑む。

 いずれ、時代に呑み込まれるのだとしても。


 ―――陽が落ちて、最初の一刀が撃ち込まれた時、小六は半歩を引いて突き出された切っ先を打ち落とした。そのまま柄尻側の手を内へ寄せ、相手の首へ刃を向ける。切り上げる軌道の先で男は身を逸らし、脚を大きく開きながらも下方から刀を跳ね上げてきた。しかし届かない。脇差と太刀では長さが違う。体格でも勝る小六の切っ先は、男よりも遥かに広い間合いで圧倒出来る。が、彼もまた幕末の京を生き抜いてきた者。振りの途中で片手を離し、肩を突き出す様にしてやれば、間合いは小六以上に伸びてくる。


 大きく後退し、姿勢を正して見据えた先で、男がゆらりと身を起こすのを見た。

 あれだけ大きく脚を開いたのだ、回避の後の一刀で仕留められると踏んだが、意気込みを見事に潰されてしまった。


 そっと息を抜く。


 間は出来たが、最初の膠着のようにはならないと本能で悟っていた。

 既に陽は落ちた。

 最後の銀光は共に空振り、闇に目が慣れるまでは相手の像を捉えることが出来なくなる。

 ならば、暗殺を得手としてきた男が臆するはずもない。


 固く響いた金属音が後ろへ吹き抜けていく。

 散った火花が目を焼いた。

 足音が後ろから来る。

 振り返らずに前へと駆けた。

 構えていた刀を下段へ振りつつ身を回し、攻撃を払う動きを交えつつ正眼へ。追っては来なかった。


 男は着流しを風に揺らしながら、暗闇の中でゆったりと歩を進めてくる。

 対し小六は正眼のまま待ちを選ぶが、足取りに不確かな所があれば即座に切り込むと、己の意識を追い立てる。


 朝からの修練で身体には心地良い疲労感がある。

 解放された肉体が純然と働き、応じてくれている。

 道中、寄り道に加えて廃寺を見舞ってきたのもあって、腹にあった握り飯と沢庵はすっかり身体へ馴染んでいる。


 意気軒昂、ならば、相手に合わせる剣など振るうべきではない。


 寄声を発し、小六は男へ斬りかかる。

 もし遠巻きに声を聞いたなら、鬼でも出たと卒倒するほどのものだ。

 男は呆気に取られ、けれど素早く飛び退いて受けるのを避けた。


 追う。


 無理な足捌きはしない。

 姿勢を維持し、相手を正面に捉えながら腰を押してやる。

 草履越しに足裏で地面の起伏を感じ取り、草で盛り上がった場所は撫でる様にして跨いだ。

 捉えた。


 またも奇声を発して斬りかかる小六に、男は再び獣の様に後退する。


「…………北辰一刀流か」


 不意に落ちた言葉へ身体の緊張を解かないまま応じる。


「二の太刀要らずと言われるものだな。だが違う。世間で言われているほど、あれは力任せな剣ではないぞ」

「ほう」

「北辰一刀流の基本は突きと小手、つまりは立ち合いの中で自然と生まれる相手の隙を狙うものだ。幻惑し、隙を誘い、意表を突いて、兎角卑怯で小馬鹿にした剣と嫌う者も居る。歌舞伎などでは派手さをウリにして大上段からの打ち込みを北辰一刀流だと触れ回っているそうだが」


 小六の剣は我流な部分が多い。

 幾度か近所の道場へも通ったが、母の元で苛烈に過ぎる修練を積んでいた小六に敵う同年代の者は居なかった。大人まで滅多打ちにしたという風聞が広がってからは、道場側から拒否される始末で、仕方なく書物を漁り、母を相手に打ち込みを続けた。

 成長し、体格に差が生じてからは殆ど一人の修練が主だ。

 太助などは例外的で、それでも打ち合えば小六が圧勝してきた。


「お前は侍を目指す前に、いずこかの道場へ通って剣を学ぶべきだったのやもしれんな」

「っは! 道場剣術など!」

「そうか」


 出過ぎた事を言ったと小六は柄を握り込む。

 考えはそれぞれ。

 認められるかどうかは別として。

 己自身の価値観に準じて今も刀を握っているのは同じだ。

 太助のあの、無残な右腕を見て共感など出来る筈もないが。


 こめかみの横に刀を構え、闇に慣れてきた目で相手を見据える。

 さて、ここで打ち込んでも逃げられるのが関の山。

 どうにもこの相手は脚が早い。

 槍でもあれば無茶な動きの後を狙えるのだろうが、長いといえど太刀では無理が出るだろう。

 男にとっても逃げるだけでは決着がつかず、無為に時間を浪費するだけ。

 そんなし合いの為に誘い入れたのではない筈だ。


 ならば誘うか。


 即断し、小六は目を瞑った。

 はっきりと男が驚愕したのが分かった。

 言うまでも無く、立ち合いの最中で目を瞑るなど愚の骨頂だからだ。


 けれど漂い始めた夜風に交じって、確かに男の身じろぎする音が聞こえる。

 風は山間を吹き抜け、東から西へ。

 ちょうど風上に立っているのが男というのもあって、音は思う以上に運ばれてくる。


 小六は構えを解いていない。

 故に一度は激昂し掛けた男も表情を引き締めて隙を伺う。


 言ってしまえば、隙しか無い状態だ。

 けれど朝から晩まで、肉体の限界以上に己を追い込み続けた小六の構えは揺るがない。無駄な力を廃し、呼吸を浅く、耳をすませて相手を待つ。


 つまりこの構図、男が如何にして気配を殺して斬りかかるかという一点に勝負が絞られたのだ。


 暗殺を行っていた者へ、さあやってみせろと言ったに等しい。

 だが、だからこそ男は小六の胆力にしばし動けなかった。

 二度の打ち込みを見たから分かる。

 アレを正面から受けてはいけない。

 刀など容易くへし折られ、そのまま頭蓋を割られることだろう。

 故に回避し、動きの乱れを誘い、引き込んだ上で仕留めるつもりだったが、小六は踏み込むのを止めてしまった。


 そうして小六は待つ。

 砂地の道を音も立てずに歩くなど不可能だ。

 なら仕込み武器か。

 それも無い。

 何故ならここまでの立ち合いで、隠し持てそうな場所に独特の硬さや重みが無いかをしっかり確認していた。

 故に誘い、頑として待つ。


 けれどその時間が途方も無く続けば不安も湧き上がってくるもの。

 男は常に揺れ続けることで気配を曖昧にし、身体への負担を軽減してきた。ならばこの無音は、暗殺の奥義とも言える歩法によるものか。

 小六は素直に目を開けた。

 今まさに背後へ回り、斬りかかろうとしているのかと思われた着流しの男は、目を瞑った時と全く同じ場所で佇んでいた。


「浅知恵だったか」

「いや、これでも結構骨が折れた」


 個人稽古の多かった小六は当然、実戦経験で劣る。

 やれる自信があったからこその誘いではあったが、貫き通せなかった時点で先の一合は負けだろう。


 ようやく、といった様子で男は身を揺らし、構える小六の左側へと回り込み始めた。

 緩やかな歩みだが、草履が砂を噛み、僅かな音を立てている。


 応じて小六は足を捌き、男を正面に捉え続ける。

 太刀を構えているのは右のこめかみ横だ。左に回られると打ち込みがやや遅れてしまう。この先が紙一重の勝負となるならば、その遅れは文字通り致命傷ともなるだろう。


 軸足を抜いて、横へ滑らせる。

 地面を噛んだら、残った足を引き寄せる。

 次を見越して引いた位置へ置きたいが、それでは打ち込みに支障が出る。

 更に一歩を。

 そう思った小六は息を詰めた。

 円を描いて回り込んで来ていた男だが、ゆっくりと距離を詰めていたのだ。


 気付かなかった。

 拙い、と思う。

 完全に幻惑されていた。

 あるいは自身の足捌きに気を取られ過ぎていたのか。

 小六の動揺を悟った男は大胆にも大きく足を滑らせてきた。


「っ、!」


 追い付かない。

 単に円を描いていたならば対応出来ても、詰められた距離を見誤っていた為にズレは徐々に大きくなってしまう。

 しかし小六は堪えた。

 ここで大胆な仕切り直しなど企図すれば、それこそ男の思う壺だ。

 不利は良い。

 素直に受け入れて、少しでも万全に近付けるよう立て直していく。

 それでも開いて行く理想とのズレと、対応していける均衡点を過ぎた時、草履が草に引っ掛かった。


 来る。

 来た。

 刀を上段に構え、身ごとぶつかる様な突進だ。

 まさしく獣。

 故にこそ尋常なる者は竦み、隙を突かれるのだろう。

 小六は奇声を上げて前へ出た。

 引いた足を草に引っ掛けている為、下がって姿勢を立て直すことは出来ない。

 咄嗟の判断だった。

 隙を突かれ、不利を得た上での前進は正気の沙汰ではない。

 けれど、姿勢は整った。

 打ち下ろす。

 太刀が、脇差が、山間の道半ばで打ち合わされる。


 その時、雲に隠れていた月が顔を出した。


 月光を浴びて刃筋が天元を切り落とす。

 触れたもう一つには小動(こゆるぎ)もせず、真っ直ぐに線を描いた。


 どちらも倒れてはいない。

 けれど、着流しの男は驚愕の表情で小六を見、すぐに怒りに震えて腕を振るった。弾く一打がふわりと受け止める。更に突き出せば静かに小手を抑えられ、下がって立て直そうとすれば素早く詰めた太刀の切っ先が首元へ添えらえた。

 目の前にはただ、瞳に月を映した小六が居る。


「っっっ、なぜ殺さん!!」


「これが俺の答えだ。江戸も、幕末も、既に過ぎ去った。それぞれの時代に、それぞれの考えを持つ侍が居ただろう。俺もまた、明治の侍として生きることを決めたまでだ」


「俺はお前の友を殺した」


「そうだ。仇討ちすべきと、俺も思った」


「なら俺を殺せ! 仇を討て! 俺が憎いなら! 侍なら!!」


 懇願にも近い男の訴えに小六は首を振った。

 最初から答えは出ていたのだ。

 太助の求めに対し、小六は母を思って残った。

 それを侍に非ずと言う者も居るだろう。

 政府の犬になり下がったと揶揄もされるだろう。


「お前が言ったのだ。誰でもなく、己自身が認めることが大切なのだと。元より俺は、他の誰かが決めたものに興味も薄かった。母上と共に築き、そうして一人でひたすら棒を振ってきた。妥協と言われてしまうと、少々耳も痛いがな。()()()()


 今まさに、絶好の期を得ながらにして、極めて単純な道理で打ち負けた男を見据える。

 刀を振る時は根本から刃先へ力を通す。

 無駄な力を加えず、静から動へ、動から静へ。

 彼の笑っていた道場剣術では当たり前に教えられる、基本的な部分で小六は男を圧倒した。

 打ち合わせた上段が払い除けられるというのはそういう理由だ。


「お前は俺に負けた。お前が俺を侍でないと言うのならばそうなのだろう。なら、その俺に負けたお前はどうだ」


 崩れた男の表情を見て、小六は身を引いた。

 目の前で納めるような油断を道場では教えない。


 いつでも応じられる距離まで下がり、そこでようやく太刀を降ろす。


「ふむ、ちょうど良く奉行所からやってきたようだな。侍を自負する己を斬られ、更には奉行所では単なる人斬りとして処分が下されよう。当然切腹など許されない。人斬りは絞首刑と決まっている」


 小六は男を許したのではない。

 太助の一件のみならず、侍を目指して人斬りに堕ちていたなどという事自体、今日までの彼を侮辱する話だ。

 ましておみつの苦しみを思えば、相応の罰は受けて貰わねば気が済まない。


「侍とは主君あってこそ。己を主に据えるのはいいが、ケダモノ風情に仕える者を俺は侍とは思わんよ、駄犬」


 心底蔑んだ目で睨み、駆けこんで来た者達に後を任せて山道を戻っていく。

 呼び止める声を聞いたが、誰かが止めた。


 そうして明治の侍、小六の仇討ちは終わった。

 男は四日後に絞首刑となり、晒し首にされた。


    ※   ※   ※


 居の間で小六は膝を付き、深々と頭を下げた。

 正座する母とおみつはそれぞれの反応を示し、けれど続く小六の言葉を待ってくれた。

 経緯の全ては話し終えている。

 ならば次は、先へ向けての話だ。

 まずは。


「母上。ようやく決心出来ました。今日を以って私は小六の名を改めます」


 小六は、幼名だ。

 本来であれば成人としての名を貰っているべき年齢であるのに使い続けていたのは、時代の変遷が大きく関わっている。


 すなわち、江戸の侍として生きるか、明治という時代に合わせて生きるか。


 答えを察しているだろうに、母は敢えて問いかけてきた。

 まるで別離のようだと胸に熱を宿す。


「私は明治のことなど分かりません。己の事、お前自身で決めなさい」


 再び深く頭を下げ、そうして告げる。


「では、太一と。大切な友である太助から一字貰い、小六の数を一へと進めます」

「分かりました。では太一、今日より貴方がこの家の主です。一切を、思うが儘に扱って下さいませ」

「有難く」


 互いに頭を下げ合うという奇妙な一幕は出来たが、とにかく小六は太一となった。


 太一は、話が落ち着いたのを見て、この場に同席して貰ったもう一人、おみつへ目を向ける。


「それで、その、だな」

「はい」

「その……」


 幾分血色の良くなったおみつを見て、棒振り太一は言葉を濁す。

 仇討ちへ発つ直前、握り飯と沢庵と、茶を淹れてくれたおみつと共に空を眺めた。

 だからこそ、腹に決めたものもあるのだが、どうにも太一の歯切れが悪い。

 一度は家長として敬意を示した母も、この有り様には息を落とした。


「しゃんとしなさい!」

「っ、はい! 母上!」

「私にではありません!」

「し、しかしこの手の話は母上が取り持つものではっ」

「私は明治の作法など知りません! 第一この場で始める子が居ますか! まずは二人でしっかりと話し合い、その上で私に報告為さい! いいですか!」

「は、母上ぇ……!」


 情けない声をあげて、明治の侍を自称する男が母へと縋る。

 そんな二人を見て、葬式以来初めて、おみつが小さく笑い声をあげた。







ご読了ありがとうございました。

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