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蟻の葬列

死に関する描写があります

苦手な人は避けてください

ふと、足下を見やるとそこに誰かの落とし物がある事に気づいた

持ち主は最早、生きてはいないのだろう

それは、全体をバターの様な濃厚な黄色で覆われていて膨らんだ外側に向かってオレンジのグラデーションで染まっている

自身に何の不安もなく、それでいて想像力に富んだ男が握ったかのように万年筆からいくつもの線が伸び、黒くあるべき場所を黒く縁取る

そして、手を持ち上げた拍子に重力に負けてペン先から溢れたインクがその細かく毛ばんだ生地にじわりと染み込んで歪んだ丸を作るのだ

それは、生きている頃には私の目を喜ばせただろう

身を包む様なゆったりとした風に揺れ、野に咲く花の慎ましい微笑みの中、雑草の青々とした生命力に溢れた中、それらはちらほらと視界の端に映るのだ

あぁ、それは過去にそうしていたであろう蝶の前翅であった

ーーだと言うのに、何故、リノリウムの冷たい床の上、薄く積もった埃と共にそこにあるだけでそれは、ここまで悍ましく人を狂気の境地へと陥れるのだろう

そして、何か心に疾しい事でもあるかのように顔を背けずにはいられないのだろうか

昔からそうだった

何も考えてない様な無垢な瞳をして生きている内はいいのだ

しかし、その生涯の最終期に至ると彼らは恐ろしい

その身に訪れた死への痛み、

その胸に浮かぶであろう死への予感ーーそう予感だ

あと数分としない内に初めての体験をする、そしてそれはもう2度と得ることはない、そこからは何も始まることはなく敢えて言うのであれば、自身の終わりの始まりという変えようがない事実に純粋な恐怖が体を動かし始める

それが怖いのだ、私は

あの無言の激しい主張が怖い

生を引きつけろうと、もがくあの様ーー手足を異様な速さで振り乱し、架空を掻くあの様が静寂の中にあるのが怖い

その黒々とした瞳には何も写ってない様にさえ思える

そして、それがある地点でぱたりと終わるのだ

先程までこれほどまでかと精力を現していたそれが終わるのだ、力はそこにはなく、誰かがその残骸を喰らうか、地へ沈むか、塵として掃除婦に捨てられるまでそこで只のオブジェクトとしてそこにある


そうなのだ

私は幼い頃からずっとそれが恐ろしかった

虫籠に嬉々として捕まえたバッタが弱って死んでいく様を見た時からずっとそうなのだ

己の邪悪さに初めて気づいた時から


私には、幼い弟がいた

母親に似た為に父の血を強く継いだ私には似ても似つかない容姿だったが、内面の少年らしい溌溂さは2人ともに当てはまるもので、同族嫌悪からか多少鬱陶しくは思っていたが、それでも日が登っている間は共に野山を駆け回り、仲の良い兄弟であったと思う


ーー今思うに、きっとバナナがいけなかったのではないか

かと言って、私はそれを母に告げるつもりはまっさら無い

バナナは母がいつも台所の卓上に常備していたのだ

栄養はあるし、勝手に子供らで空腹を満たす事ができると母はそれを気に入っていた

弟は物を噛む力が弱いらしく、それが好きだった

特に、何日か放っておいて所々黒く熟した甘くて柔らかい奴を好んで食べた

私は、黒ずんだものは腐っている様に見えて食指が動かなかったので喜んで弟にそれを押し付けた

その日も弟は腹が減ったと言って何本か黒い斑紋が浮かんだその果物を口に頬張っていた

ーー午後のことだ

私達はいつもの様に、外で遊んでいた

違うことと言えば、偶々近所に住んでいる親戚の叔母さんと叔父さんが庭先で母達と茶を飲んでいたぐらいか

弟は顔や手を土で汚しながら私の後を追って走り回っていた

青いズボンに揃いのサスペンダーと中に茶のシャツを着ていたが、それらも随分と汚していた

恐らく私も似たり寄ったりな格好だったのだろうが、自分がどんな服装だったかは全く思い出せない

私達は、2人庭先やら裏の林の中を駆け回っていたが、ふと、弟が何やら地べたにしゃがみ込んだのを見た

何をしているのかと思うと、それは木から落ちたカミキリムシを手にしていた

私は生きている虫は別段平気なのだが、こいつだけはどうしても背筋をぞぞぞと言わせる何か本能的に拒絶するものがあって、弟はそれを知っていて、兄に悪戯を仕掛けようと企んだのだ

私はこの悪鬼への憎悪を腹の内に宿しながらもそれを上回る恐怖で、虫の苦手な母に縋ろうと庭へと逃げ出したが、途中、足がもつれて追い付かれてしまった

あの時の弟の邪悪な笑みはその後の一連と共に忘れることができない

奴は私の体へと哀れなその虫を触れさせようとした

私は恐怖のあまり、その幼い弟の手を力の限り引き払ったのだ

ーーそれが、原因ではないというのは分かっている

弟は私に手を弾かれたその衝動で少し体を傾けさせたが、何かそれよりも恐ろしいものが彼の体に這い寄った

突然、弟はしゃがみこんで地面に四つん這いになった

その小さな両手が必死に喉を押さえているのが見えた

顔が初めて見る歪みを帯びていた

所々に不気味な赤が浮かび上がっている

不規則な呼吸が徐々に力を奪い去るかの様に弱まっていく

弟が、彼が生まれてからずっとそばに居たその少年がそこでそうしている間、私の体はまるで射止められたかのようにぴたりとも動かなかった

自分の呼吸が荒くなっているのが分かるのに、その音さえ聞こえない、いや、何一つその時私は聞こえなかった

弟が苦しむその呻き声も自分の呼吸も、蝉の忙しさも木々の唸り声も全てが何かに吸い込まれていた

まるで、他人事な映画を見ているようだった

モノクロの不気味なそれが音もなく滑稽な寸劇を演じるのだ

私はそれから目が離せなかった


まず、私を思考の果てから掬い上げたのは左肩への衝撃だった

次いで、直ぐに体が浮上する感覚を得る

高い視野から見ると、弟の側に髪を振り乱した女の姿があった

どんどんとスクリーンは遠ざかっていく

女とその子供の姿は小さくなっていき、私が離されていくのとは反対に何人かがそこに集まっていく

何か私は喚いていたらしい

離さないでくれと、そんな事をめったやたらと担がれた叔母の肩の上で騒いでたらしい


私は今でも忘れられないのだ

あの弟の姿が

あの子は、頬を子供らしく赤く染め、母に似た可愛らしい顔を満面の笑みで歪めていた

肉付きの良い手を私へと伸ばして、遊んでくれとせがんでいた

そんな弟を私はあろう事か、あの瞬間虫の死ぬ様に重ねて見たのだ

あの、徐々に失っていく生命の様に

血を分けた兄弟である彼の最後を


彼の葬式は、それから幾日か経った非常に天気の良い日だった

私が死ぬ日もきっと快晴だろう

ーー私にとって、死と太陽、青空、肌を緩く撫でる逍遙風は切っても切り離せないものになった

天上に広がりを見せる空は青いペンキを溢してめたらやたらと引き伸ばし、そこには雄大な大道雲がもくもくと立ち上って、地面の人間達を見下ろしていた

緑が生い茂った丘をーーその丘もやはり、弟とよく遊んでいた場所だったーー黒い点がぽつぽつと並んで歩いていた

青と緑の狭間で黒が余計に目立った

私は熱を出したのでその様を遠くから見ていたのだ


皆がまだ幼い彼の死を悼み、その足取りは重かった

女王蟻だけが、毅然と顔を上げて歩いていた

小さな木箱をしっかりと抱いたその両手だけが彼女の心持ちを現していた


葬列は日の光の中で延々と続いていた

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