02-19-19
僕が精神病患者にしろ常人にしろ、こうして感情を書き出す事に意味がある。他人が読み返すには奇妙奇天烈でただ痛いだけの文章も、僕に意味が分かればいいんだろう。客観なんて糞食らえだ。客観こそが尊重されるべきなら主観に人を生きさせる神様が馬鹿なんだ。
僕以外には意味が分からない文章かもしれないけど、僕にしか生み出せない文章ではないかもしれないという可能性も議論すべきだろうか。いわば言葉の普遍性と声の唯一性。誰の発言であるかに焦点を当てるのも重要ではあるが、それを考慮すると価値が無い僕の言葉には価値が無い事になる。この悔しさを込めた叫びからも価値が消失する。何故こんなにも悲しいんだ。悲しさしか生まないのは僕か世界か。救いが無いんだ。見出せない僕の無力さか、世界が無慈悲故か。
嘆いても何も変わらないのは重々承知だ。だから世界の流れから動くか流されるかの選択肢だけが発生して、動く意義を持てなかった者らが流される。流れに意義を見出せない事を理由に動いた僕は、それでも動く意義には力量不足として、息も絶え絶えなまま激流の中にいる。やはり流されるべき人間なのかもしれない。いや、激流の最中にてこれだけ嘆くのが可能なら僕もまだまだしぶといようだ。
精神を俯瞰視している。不思議なもので、これを始めて二三年、没頭し始めると身体が勝手に制御を離れて行動している気持ちになってくる。




