文学酔いの医者
大門医師はいつもの通り、手術室にいた。
「私は自身の身体が正常ではないことを自覚していた。おそらく風邪の類いなのだろう。咳こそはないが、気怠さ、熱感、何よりも病気が持つ、この、自分と世界が透明な膜一枚で隔てられているような、この感覚がその証左なのだ」
「これより腹部の腫瘍摘出手術を開始いたします。執刀医は大門 和夫先生」
助手の一人が手術の開始を宣言するとともに、大門医師は迅速に患者の体内画像を確認する。
「我が半生を振り返る。陳腐な響きだ。だがそんな陳腐さも、今のこの状況においてはお似合いかもしれない。簡潔にまとめるのならば、私の人生は悪くはないのだろう。今のところ、自分自身とも、世間体とも、そこそこ上等な関係が結べていると自負している。未開の芸術を求めて行方知れずとなった弟や、大衆心理に振り回され精神を病んだ友人、年齢も性別も関係ない、すべての人間は産まれながらに闘争をし続け、私はその中で適切な役回りに留まれていると言える」
患者の状態を見終わった時、彼の脳内に手術の全貌が設定された。
「しかし、注意深く覗いてみると、決して輝かしい金剛石ではないことに気付くのだ。私はそのたびに酷く幻滅する。ものがはっきりと見えるからと言って、その事実が綺麗なものをより綺麗に見せてくれるわけではない。むしろそのせいで、綺麗だったものが実は歪みや誤魔化しが生み出した蜃気楼だったことを理解してしまう」
幾人の助手達が器材を用意する。どれもが事前に予定されたものだ。
「ほら、実際――」
一本のメスを患者の体内に入れる。
「今しているこの作業も、慣れてしまえば、幼児でも出来る簡単なことだ。この金属の棒きれで少しばかりなぞってやるだけなのだから。正しい位置ならばそれで金銭と名誉が手に入る。間違った位置ならば人間の尊厳、その他すべて、すべてを失うことになるだろう。しかし、人が呼吸をし忘れることがあるだろうか。呼吸することに知性の迸りや将来への希望を見出せるだろうか。それ故に私は退屈である」
大門医師の技量は圧倒的だった。世界的にも彼ほどの腕前を持つ者はそうはいまい。
それは音楽を指揮するように。周囲は息を呑むばかりだった。
「人の薦められたものを素直に味わえたのは、あの出来事までだった。それ以降はすべてが作り物めいていて、くだらなかった。それでも子供の――成人するまでの間は一応の希望があった。大人になれば、別の世界が待っている。広い世界で十二分に「本物」を享受しようと思った。未来を想像するのは至福の時だった。テニス部の全国大会でラリーをしている最中も、頭の中はそれで一杯だった」
正しい位置を一通りなぞり終え、患者の内側が露出する。
「だからこそ――成人して、改めて失望した。本物などどこにもない。広いと思っていた世界のすべてが、作り物の延長線上に含まれていた。私はどこにも寄りつかなかった。とは言え、義務は果たさなくてはいけない、だから大学の主席にはなった。義務だけが私と世界の間を取り持つ契約であった」
大門医師の振る舞いに疑問を抱く人物が一人いた。
近くにいる自分の先輩に確認する。
「あの……どうして先生は喋りながら手術をするのでしょうか?」
「ああ、あなたは初めてだものね、大門先生」
「ああ、退屈だ。この病的な退屈をどうにか出来ないか。この金属の棒きれを、ちょいと正しい道からずらしてやるだけで終わる。ああ、ずらしたい。すべてを失った私の顔はどんなものだろう。きっと後悔することだろうな、手に持った、その、人を殺めたばかりの棒きれで、今度は自分の頸を切り裂く――腐敗したその体液を一滴残らず外に吐き出してやるのだ!」
名誉のために言っておくが、彼の不気味な発言が手術に影響を与えたことは、過去に一度たりともない。
難手術と呼ばれる部類であろうとも、さしたる苦労もなしに完了させる。(無論、助かる見込みが僅かにでもある患者に限る。流石に敗北した結果を過去に戻ってやり直せる程の力はない)
今回についても、宣いながら大門医師は一分一厘の狂いもなく処置を行う。
「そもそも、私の眼前にいる患者にしても。どうせろくに身体を労らなかった結果がこれなのだろう。その、何十年にも渡る不義理のツケを手術ひとつで帳消しにしようとしているのだ。なんと忌々しい傲慢な人生であることか。それが、高度に成長した生物の在り方なのだろうか」
ただ、その事実を以てしても、この振る舞いが受け入れられるかどうかは別である。
「否。そんな犬畜生は――切開部の上からけんけんぱするしかない。開かれて、剥き出しとなった胃腸や肝臓に足を突っ込んで、全体重をかけて踏みにじってやる!そら、けぇん、けぇん――」
手術室の雰囲気が本来の状況にそぐわないことは、この場にいる執刀医を除いた誰もが知っていた。
「どうしたどうした、身体を捻っていては、いつまでも両足を広げられないではないか! 大人しく踏み潰されて、己が身体の泣き叫びを聞くがいい! お前のところの病魔はどうやら少し禁欲的過ぎる。私が代わりに搾り取ってやるぞ! 釣り合わないことをしたのなら、その代価を支払わなければ!」
初めての来訪者は、今にも泣き出しそうである。
「大丈夫よ、口だけだから」
「どいつもこいつも――私がこうして処置をしている間にも、ぽこぽこと仕事を増やしていく。子供の頃から、とばっちりをもらうのはいつも私だった。この不毛なやりとりを一体いつまで続ければいい? 私は袋小路に入るために医師になったわけじゃ、ないんだ」
大門医師が動きを止めた――数分間の休憩の合図だ。その姿だけを見るのなら、彼は間違いなく名医の貫禄を持っていた。
その間に新入りと先輩、二人の作業者が小声で話をする。
「あなたも大門先生に憧れたクチかしら」
「は、はい」
「で。どうだった、うちの先生は」
「そ、その……」
新入りが続きを紡ぎ出す前に大門医師が言葉を発した。
「……頭は回らないが、手は動く。今までに積み重ねた習慣が、設定したルーチンに従って、正確なルートを提示するからだ。世間は私を認めているが、彼らが欲しているのは私の習慣だけで、私そのものではない……」
「変わっているわよね、本当」
結局、続きは先輩が横からかっさらってしまった。
「私も数年前、同じような理由でここに来たから、気持ちは分かる。百聞は一見に如かずって本当ね、本やインタビューなんか、何の参考にもなりゃしない」
「でも凄いですよ、やっぱり、先生の技術は……」
「それは誰もが認めているわよ」
「……私は自分のことを気が違っていると思っているし、誰かが私のことを気が違っていると思っていることだろう。誤解しないで欲しいのは、気が違っているのは私だけでなく、誰もがなのだ。誰もが誰もを『我々とは違っている、信じがたい人間がここにいる』と決めつけたい。そうでなければ、ガリレオもダーウィンもありとあらゆる天才も凡人も愚人もこのような扱いを受けることはなかっただろう!」
医師が動き出した。すぐに手術は再開される。
先輩は「頑張って」と、この現状において何の慰めにもならないだろう言葉で新入りを送り返した。
「――あの出来事は中学一年の頃、学校総出で行われた弁論大会だった。教師陣の目論見は、学生の思考力の向上だったのだろう、そう思った。あの頃は暴力ばかりだった。頭の用途と言えば相手の顎を下からかち割るための武器か、とびきりの下品で刺激的な音楽に合わせて振り回す装飾品であったのだから」
話の内容に合わせ、メスも奥へと進んでいく。
「私はその考えに賛同した。そして機会に報いるべく、論争の場までに百冊の本を踏破した。当日になって、討論のテーマが『見知らぬ他人と心を通い合わせる方法』と出た時、すべては整ったように見えた。それはこの場のみならず、常日頃考え続けていたものだった。私の持病、作り物めいて見えるこの世界と別れるための方法、その正しさを大多数に評価してもらえる。もし筋違いをしていても訂正してもらえる。なんと理想的な話だったことか!」
僅かながらに汲み取れる発言の内容からも分かるように、大門医師は相当な完璧主義者にして、潔癖症のきらいがある。
それが今の自分、立ち位置も含めた全てを作り出していることに、彼は気付いているだろうか。いいや、違う。彼は自分を完璧のみを追い求める人物だとは評価していない。他者と比べて少し優れている、知性の長としての人間にふさわしい振る舞いが出来ている、とは考えているだろうが。
「実のところ、熱の盛り上がりの最高潮は本番の少し前だった。当日、登校した私は少しだけ気落ちした。その日、私の母校は過去最大級の欠席数を記録していた。よって全生徒を収容できる体育館は、実にがらがらだったのである。それでも熱意は覚めなかった。馬鹿な男だ。当時、他の輩が話していた内容が思い出せない時点で結論は決まっていたのに。私の番が来た。正面の鏡は嬉々とした表情を浮かべていた……今でも思い返せる……それは人生に出来た大きな「しみ」なのだから」
見えてきたのは黒ずみ。今回の要となる病変箇所である。
「当時の私は思い違いをしていた。致命的なことを、それも三つも。一つ、私がごく短い間――この出し物の提案を聞いてからこの日まで、少なからず信奉していた教師達の本質。それが学校内に数多いる生徒と同じく、食えない意見を暴力で押さえつけるという低俗なものだったということ。二つ、この場の意図するところ。仮説として立てた、生徒の思考力の向上という目的は、実はところ全く間抜けの答えだった!ああ、そうだ、あの俗悪な大人達は最初から現状を改善するつもりはなかった。では何か。自分達の慰め、快楽の為――つまるところ、悪い生徒の吊し上げの場だったのである!」
いよいよ手術は佳境となる。大門医師の顔に一筋の汗が流れてきた。
「私の喜びは壇上に上がり、前を向いた時までだった。彼らは私を蔑視していた。それでようやく我に返った(なぜ、反省する機会があれば実際に彼らが反省すると思い込んでしまったのだろう! 彼らは命令のチャイムすら下劣な音楽でかき消していたではないか!)が、すべては遅すぎた。最後の思い違いがやって来た。私は予想外の緊張状態に陥った際に、身体中から汗が滝のように噴き出すのだ。それを当時の私は知らなかったのである」
その時、大門医師は目の前に汗拭き用のガーゼがあることに気付いた。こんな振る舞いはここしばらくは見られなかったなと彼は思った。昔――まだ彼の手術の腕が彼の異常さを覆い隠していた間は、多くの医療関係者が彼の汗を拭き取ろうとしていたものだった。どうにか貢献し、記憶に残してもらおうという考えだったのだろう。
しかし、彼の吐露が彼らの畏敬の門を破壊し尽くし、実績に見合わぬ待遇を受けることになるのはそう時間のかからないことだった。子供は動物を欲し、世間は才能を欲する。どちらも持て余し、後始末はつけない――それが大門医師の認識だった。
医師が微動だにせずにいると、ベテランのスタッフがそっと耳打ちする。
「先月から入ってきた大崎さんですよ」
大門医師は大崎看護師がゆっくりと自分の頬をガーゼで拭い、持ち場に戻ったのを確認してから、続けた。
「『小便だ! あいつは小便を漏らしてやがる!』そう叫んで、子供も大人も一緒になって私を指差してげらげらと下品に激しく笑い転げていた。それは彼らの家族、親戚、友人、ペットすべてに笑われているのと同じだった。私は一言喋る前から、既に疲労困憊の状態に置かれていた。そんな時は、すべてがどうでもよくなって……」
そう言うと大門医師は長い溜め息をついた。もちろん、首から上とその下の動きは熟達した習慣により独立して動いているので、本人の落ち込みようとは裏腹に処置はスムーズに進行する。
どきまぎしているのは、初めて彼の手術に立ち会うことになった大崎看護師一人である。手術室にいる人の中で最も若いとはいえ、決して人生経験が少ないわけではない。そもそも年齢は経験や完成度を示す絶対の指標ではないことはお分かりだろう。しかし、そんな彼女でも、この独特な雰囲気を受け止めるのには難儀した。
「ああ、いっそのこと! 小便も、大便も、するだけしてやればよかった!」
大崎看護師は世界の広さと人の深さをまた一つ深めていく。
「――そうすれば疑惑は確定のものとなり、そのはずみで私は壊れきることが出来たのに。そうすれば、あの場の彼らと同化し、今の世間とも同化できたのかもしれない。だが、そうはならない。間が悪いことに、希望を抱いていた頃の昨日までの私が、体も心も完璧に調律してしまっていた!」
横たわる人体の腹部から黒ずんだ組織を取り出す。今回の手術における最大の目的が無事に完了した。
そう、無事でないものなど、ある男(と女)の精神状態を除いては何もなかった。そしてその揺れですらも周りはすべて受容し、警戒するに値しないと割りきっている。
「もはや壮大な独り言の檻となった体育館で、私は結局、汗を床に垂らしながらも、十分間の持論を展開した。その途中、私の中に文が広がり、声が聞こえた。突然の話だが、自分の心の動きがあらゆる感覚で受け取れるようになった。それから終わりまで発していた言葉は、当初の台本通りだったのか、今の思いの丈だったのか。ともかく、彼らの声がよく聞こえ、彼らの意味をよく捉え、彼らの業はよく刷り込まれ、私の世界は急速に色褪せていった」
その言葉の後は、静かな時間。大門医師は黙ったまま残されたわずかな作業を行った。
「血圧の安定を確認――手術は成功です」と助手の代表が報告した。
「風邪だからかな、妙な気分だ。身体が浮つく。浮ついて、この身体から抜け出てしまいそうだ。ああ、小学校の時、傘を差していたら、突風が吹いてきたことがある。お気に入りだからとしっかりと握っていたら、身体ごと浮きそうになったな。あの時は結局どうなったのだったか」
当初の予定が一段落したことで、静寂は瞬く間に打ち砕かれた。
患者の家族は安堵の涙を流した。
「周りの様子を伺う限り、どうやら私の腕は当初の予定通りに動いたようだ。しかし、心なしか声が遠くから聞こえてくる。本当にここは手術室なのだろうか。それともこれは夢の続きなのか。あの突風に実は吹き飛ばされていて、綿毛のように空中を舞う、その発芽への旅の途中なのだろうか」
手術の時に一本に結ばれていた時間が、それぞれの方向に散らばっていく。
「大崎さん、クランケを病室に運びましょうか」
「あの、大門先生は……?」
大崎看護師の問いに関しては、皆が首を横に振るばかりであった。
押し黙ったまま、一人、また一人と手術室から出て行く。これからは彼らの私生活の時間である。
「時折、今まで培ってきた尺度だとか、経験則とかいうものが全てぐちゃぐちゃに混ざりこんでしまうことがある。一日も一ヶ月も一年も、私の出自も経歴も関係も、これから起こるであろう出来事の、その巡り合わせすらも、全部が一つのボウルに放り込まれ、玉石がいっしょくたになる――その混沌を直視する度に私は、人生を何一つとして制御出来ていないのではないかと痛感する」
最後の一人はやはりか新入りの看護師であった。天を仰いで世界に浸る一人の男をしばらくは見つめていたが、ついに事情を知っている警備員にひっぺがされてしまった。
「別にいいんだ、あの人は。そりゃあ、俺だって最初はびっくりしたさ、夜回りしてたら誰もいないはずの手術室から声が聞こえたのだからな。それでも毎日ああだと分かれば、慣れてもくるさ」
「母は三年前に亡くなった。自分が担当医となった数年間の終わり、息も絶え絶えになりながら、命を絞り出すようにして放った『カズオの我が儘、聞いてあげられなくて御免』という一言が未だに脳裏にぐるぐると渦巻いている。姿も声も既に霧の向こう側なのに、言葉だけが鮮烈な輝きで私を眩ませる」
照明が落とされた。暗闇の中、大門医師の呟きだけが延々と反響する。
「――かくして私の物語は終わりを迎える。しかし、ある物語の終わりが、すべての、私やあなたのいる、この作り物めいた世界の終わりではないことは、周知の事実であろう。また何かの機会に巡り会うこともあるかもしれない。例えば、あなたが病気を患った時などに」




