2 中野さんは、中のひと
「なあ見ろって。なあ。ひとがせっかくギガ使って落としたんだから見ろって」
教室に入って席につくと、今日も隣で近藤がよく通る声を出していた。
入学式があった週で早々に、近藤は教室で大声を出していい人間に分類された。
その内容がなんであれ咎めるやつなんていない。
「なあ。ぱふぇ子の昨日の動画見ようぜ。おまえもー」
身体がぎくりと硬直する。
同じ名前が出ても、家とは違い苛立ちは湧いてこない。恐怖で隠れたくなるだけだ。
立ちあがってどこかに逃げようか。過剰反応だろうか。
「またかよ。なにがいいんだよそれ。Vチューバーって。陰キャっぽいよ」
実際には、オタクはそれほど食いついていないんだが。
「ぱふぇ子は普通のVチューバーとは違うんだって! ほんとの人間みたいだし」
そう、ぱふぇ子、珠稀ぱーふぇく子はいわゆるVチューバーとは違い、人間そっくりの見た目をしている。
技術が進んで可能になったそのリアルさは、よく観察して粗を見つけなければCGだと気づかないだろう。
デビュー当初、現実を捨てアニメ調の絵作りを最適解としたオタクにとっては、わざわざCGに現実を再現させるのは壮大な無駄としか映らなかったらしく、不評だった。
Vチューバーの事務所らも同じ考えだったのだろう。技術的には可能になってもリアル路線を試す会社はなかった。
「Vチューバーだけどガチ普通の女子高生ユーチューバーって設定でやってるから、そういう目で見るんだよ!」
近藤はスマホに指を滑らせ、動画を再生する。俺の心にこびりついたあの、ひたすらに溌剌として明るい声がする。
ぱふぇ子の支持が広がったのは非オタク層、陽キャ連中にだった。
連中はリアル路線の3Dを現実の上位互換として素直に受け入れる。アダルトコンテンツでもそうらしい。
意外な需要を掘りおこしたことで火が点くと、目新しさもあったのだろう、流行の波が来るのもそう時間がかからなかった。
デビューから約半年、快進撃を続けたぱふぇ子の人気はVチューバー全体のトップ層に食いこんでいた。
「だったら生身のユーチューバーでいいじゃん」
「違うだろ? ぱふぇ子のがかわいいだろ? 全然」
「ぜったい中身ブサイクだけどな」
「そんなことないし、そんなのどうでもいいんだよ! 応援したくなるんだよ! マジにJKが頑張ってユーチューバーとして人気者になりたいってちょっと痛々しい感じとかいいんだよ! 有名人気取るくせにどこまでも天然でエッチなコメントとかに固まっちゃうとことか純粋でいいの!」
おまえだよ。
「おまえだよ、純粋なのは。んなもん信じて。どうせ全部設定と計算だろ? 事務所とかが台本書いて」
「ぱふぇ子は事務所とかって情報ないし。マジに一般人かもしれないし。もしかしたらガチでJKかもしれないし!」
「それだけはねーよ」
教室を見回し、本物の女子高生たちを眺めて言う。
「どうせほんとはパっとしない声優とかだろ。だろ? 小豆畑?」
突然名前を呼ばれて、俺は思わずマスクを押さえた。
「え?」
「Vチューバーの中身って売れない声優とか元ユーチューバーとかなんだろ?」
近藤の友人、中田がニヤつきながら訊いてくる。詳しいんだろ? って調子で。
自分でも、やっぱこうなるよなぁとは思う。
始終マスクをして友達も作らない文化部に入った男子じゃあ。いくら頭のなかでごちゃごちゃ毒づこうとも。
「ああ、たぶん。よく知らない」
「へえ」
近藤のほうは、さほど他意のない目でこっちを見る。
二人は同じ中学野球チーム出身らしいが、卒業から進学までの休みのあいだに近藤のほうがぱふぇ子にハマったようだ。
「あんまりVチューバーは見ないから」
真実を言っているのに、なぜ後ろめたい気持ちにならなくちゃいけないんだ。
「だってさ。布教しないの? 小豆畑といっしょに見ればいいじゃん」
「おまえその絡みかたダルすぎ」
近藤はそう打ちきると、自分のスマホを鞄にしまった。
ちょっと場が冷えたところで予鈴が鳴り、中田は自分の席に向かう。
入学の二週目でもう猫かぶるのやめるか? 普通。
「あいつウザいだろ? ごめんねー。イジメられたら言って」
近藤が短い髪を揺らして振りかえりながら言った。なかなか人懐こい笑顔をしやがるから卑怯だ。
「じゃあ遠慮なくチクる」
「へへ。花粉症?」
自分の口を指差しながら訊いてくる。
「うん」
「薬あるよ。すげー効く」
「大丈夫。そんな酷くないから」
担任が教室に入ってくる。そのあとを一人の女子が追従している。クラスメートらがちょっとざわつく。
「えー、入学式から三日ほど欠席されましたが、親の都合で引越しが遅れていた中野さんが、今日からクラスに加わります。挨拶」
「中野依子、です。よろしくおねがいします」
マスクの奥から小さな声がした。
中野エコ。
名前だけはもう知っていたし、なにか新しい情報を追加してほしかったが、本人にそのつもりはないらしい。
俺ですらもうすこし自己紹介頑張ったぞ。
「まだみんな新入生だけどちょっとだけ先輩だから、ちょっとでもわからないことがあったら教えてあげるよーに。では席は一番うしろのあの席」
担任はだいたい俺のほうを指差した。
入学式があった先週、ずっと空だった背後の席の主がやっと現れた。
近づいてくるのを見ると、中野エコはマスクを頬のうえまできっちり被せているうえ、こめかみを挟むようにセミロングの髪を垂らしているので、顔立ちはほとんど判別できなかった。
でなきゃ困る。こっちだって同じ立場なんだから。
「マスク男女コンビだ」
俺と前後に並んで座ったのを待ってから、中田が教室中に聞こえる声で言う。
いっせいに笑いが起こった。剥きだしの歯が並んでいた。近藤も笑っていた。
俺も、目元に愛想笑いを浮かべる。……ほかにどうしろと?
しかし、背後の中野は、ちっとも笑っていなかったと思う。
放課後、一階で出口に向かう人の流れから抜けだして、行き止まりまで歩く。
コンピューター室の準備室。鍵を開けて一歩、なかに入る。
「ここが電子工作部」
「おぅ!」
驚いて振りかえると、マスクをつけた顔があった。
「中野さん? どうしたの?」
彼女は一日中マスクを外さず、誰もまだその顔を見ていない。俺の顔と同じく。
「部員」
「え?」
「あたしも入ることにしたから、部員」
ぼそぼそとしゃべりながら、脇を抜けて通ろうとしてくる。
俺は慌てて手を広げ、阻止する。
「や、やめときなよ」
「なんで?」
「なんでって、ここ潰れかけなんだよ。俺以外全員幽霊部員で、生徒会から目ぇつけられてて」
「ふうん」
彼女の目は俺を通り越して、部室のなかを見ていた。顔を隠しているのにそぐわない、揺れない目をしている。
「パソコンとか興味あるなら、プログラミング部がいいよ。隣でやってる」
指差して、顔がそちらを向いた隙に、扉を閉める。
扉の反対側で足音がするのをたしかめてからマスクを外し、ふっと息をつく。
小さな部屋の中央に立ち、両の手を広げる。
金属ラックの匂いが混じる空気が心地いい。
やっと一人になれた。
仕事柄、父親はずっと家にいる。俺には一人になれる空間が必要だった。マスクを外して呼吸をする時間が必要だった。一対きりの薄暗い蛍光灯も隠れ家的でよしって感じだ。
PCを起動して、ケーブルで繋がった金属の腕を眺める。
いつの時代の生徒が作ったものかしらないが、制御プログラムと題されたものもあるし動くはずだ。もう一度最初から試してみよう。先週ずっとやってみたことをもう一度。
この子供の工作に毛が生えたみたいなロボットアームは一応指が自由に動かせるらしく、その動きはテキストファイルを読みこませて制御するらしい。
見た目複雑なテキストではないのに、いくつか残っていたファイルを切り貼りしても上手く動いてくれない。それでも俺は部品に脱落などがないか点検して、最後に地味なプログラムの平坦なボタンを押す。
金属の腕は一度ぶるりと震えたが、そこからはなにも起こらなかった。
ため息をつく。
ため息も出るってもんだ。俺は工作は好きだがソフト関係はさっぱりで、見よう見まねで失敗するならお手上げになってしまう。
「これなにやってんの?」
腰が椅子から浮く。足の裏が立ちあがろうとして、でも膝のほうは椅子に落ちつこうとして、結果足がバタバタ上下する。
「うわ!」
叫ぶ俺の肩越しに、中野エコがケーブルの繋がった腕を覗きこんでいた。
「これなに? なんの部品? てかあんたよくもあんな部ぅ紹介したな。女子ひとりもいなくて。危うくオタサーの姫として祭りあげられるところだったぞ」
俺は口を押さえる。マスク、マスクはどこにやったっけ? 机のうえにはない。ポケット、ポケットだっけ。
「ん?」
中野が四角い白のうえで目を細めた。
バレた。ほらバレた。もうバレた。
「んー?」
俺の顔が両脇から掴まれる。
もみあげに指を突きたて、中野は顔を寄せ覗きこんでくる。髪のさきが俺の頬に触れる。
相手がマスクをしたままでなけりゃドキっとしたかもな。
「なんで」
そこまで言って手を離すと、彼女は自分の顔からマスクをむしりとった。
笑われようと話しかけられようと教室で晒さなかったそれは……印象的だった。
控えめにいって、隠すようなものではなかった。
見開かれた瞳のした、あらわになった唇が動いて言葉を続ける。
「なんであんた、あたしの顔をしてるんだ」
出会って初めての、感情が乗った声だった。
これまでの低く抑えたものではなく、腹からの発声だ。
溌剌とした、弾むような、つい今朝がたも教室でスマホのスピーカー越しに耳にした声。
「あたしって……その声……」
もちろん目のまえの中野の顔が俺と同じなわけではない。
俺と同じ顔をした存在は、ただひとつ……。
頭のなかで結びつく。
なんだか俺は、ずっと探していた人間を見つけたような気がした。
「まさかきみが、ぱふぇ子の、なかのひと?」
座った俺を見下ろしながら、中野エコは片目を引きつらせていた。