17 不器用な愛のモデルケース
真っ直ぐ駅に戻ろうとして、通りのさきのハンバーガー店から制服の五人組が出てくるのを目にする。
急いで通りの角に隠れ、そのままその小道をふらふらと歩く。
古い商店街にぶち当たり、なかにある小さな公園に入る。
遊んでいる数人の子供を横目にベンチに座り、目を瞑る。
しばらくはエコのこれまでの乱行や父親の気の回らなさを思いだしていたが、やがて怒りは上手く再生できなくなった。
そのかわり浮かんできたのはエコの撮影用スーツ姿だった。
奇抜な格好を着慣れ、気にもかけない振る舞い。3Dソフトを操作する速度。ダンス。
いや、あいつの境遇を考えろ。あの広々としてワインセラーまで置かれたリビングや、俺のより広い部屋を考えろ。
金があるからできたこと、金で努力のいくつかをショートカットしただけだろ。
あいつを認めまいとするほど、なぜか悲しくなった。
立ち上がる気力もなかった。
滑り台のてっぺんに立った一人の子供がアニメの真似をしてブルーだゴッドだ身勝手だと叫んでいる。
違うだろ。おまえの周りには何色のオーラも出てないだろ。ごっこ遊びなんかやめろ。いつまでそんなことやってんだ。ごっこ遊びなんかくだらねぇんだよ。
どこかでクラクションがけたたましく鳴った。
公園の脇をひっきりなしに人が通りすぎていく。
わかったよ。
俺が一番気に食わなかったのは、あいつが楽しそうだったことだ。
Vチューバーなんて楽しいのかと思っていたが、あいつは楽しそうだった。
俺は金や技術や才能をやっかんでいたんじゃない。
才能でも技術でも稼いだ金でも、自分の持てるものをすべて使ってはばからずに、活きいきとしていたのが気に食わなかったんだ。
マスク越しの空気が、重く吸いこみづらくなった。
だからなんだ。
俺の怒りが劣等感と嫉妬まじりで純粋じゃなかったからなんだってんだ。
気づくと目の前に子供が立っていた。
さっきはしゃいでいた子供だ。
「ずっと座ってるよ」
俺はなにかを思い出していた。視界がちいさく揺れた。
「大丈夫」
思わず口にしていた。
子供はそれを聞いて、どこかに行ってしまう。
立ちあがって、元同級生を見かけてから数分経ったことを確認し、駅方向に戻る。
早足で改札を通ろうとして、左手を掴まれた。振りほどこうとして見ると、わずかに息を切らしたエコが俺を見据えていた。
「改札を、通ってないのは、わかってたんだ。どこほっつき歩いてた」
俺は質問には答えずに自分の口元を指差す。
「マスク忘れてるぞ。商売道具が傷んだらどうすんだ」
我ながら嫌味な声が出るな。
「あたしのことは、いいんだよ」
大きく息を吐いて手をほどく。
撮影用のスーツのうえにブレザーだけ羽織り、黒いタイツのさきをスニーカーに突っこんだ格好も構っていなかった。
ただ目だけが小さく揺れていた。
「なんで親父さんまで言う?」
「同じだろうが」
エコは舌打ちをして脇を見る。
目のまえのバーガー店に足を向けた。
「こいよ。ちょっと食いながら話そう。なんか食い違ってるからよ」
俺は身体をそのままに、首だけ巡らし店に足を踏みいれるエコを追う。
反対側には駅の改札が並んでいる。
おまえは偉いよ。憧れちまう。
でもどれだけ自信があったって、俺と俺の父親についてなにを語れるってんだ。
重心が家路に傾く。
手首が、さっき掴まれた位置から動かなかった。
まだエコの熱がそこに巻きついている気がした。
熱が繋がったさきを見ると、自動ドアのガラス越しにエコがこちらを見ていた。
ちらちらと、不安げに。
スマホで代金を払うと、エコは二人用のテーブル席に腰かけた。
二つ買った飲み物の一つに刺さるストローに口をつけ、もう一つをトレイからはみ出させる。
「なんだよ」
「そういえば家にあげたのに茶も出してなかったなと思って」
俺は座りはしたが、カップには手をつけず店内を見回した。
夕方の中途半端な時間帯のせいか、客はほとんどいない。
「話せよ。なんで親父さんのことまで悪く言う?」
エコはビッグのハンバーガーを一口飲みこんでから言った。
「だいたいわかるだろうが」
「わかんねぇよ。話さなきゃ。行き違いなんてそんなもんなんだから」
本当に聞く気があるのか、口はハンバーガーを削りつづける。
他人に話すようなことじゃないと言いたかった。
だが俺の心は切り刻まれていて、ちょっと外に出しやすかった。
出しても惜しくないと思えるくらいヤケになってもいた。
「母親が病気で死んだのは一年前の今頃だった」
一瞬だけ咀嚼のリズムが遅れた。
「親父が働いてたゲーム会社をクビになったのは、その直後だった。そのまま独立してフリーでやっていこうとしたみたいだけど、案の定ロクに仕事もなくて、営業だって慣れないスーツ着て出かけてっては、手ぶらで帰ってきてた。うん」
当時のことを思いだす。
母の死とともに止まりかけた家の時間を、俺なりに必死に動かそうとした日々を。
「そんなとき舞いこんできたVチューバーのモデルを作るって案件だ。逃がすわけにはいかなかったんだろうよ。さっさと仕上げてクオリティーも出すために、手近なやつを使った。何時間拘束してもモデル料も払わずに済むしな。あいつらしい、情なんてない、ただ効率を考えたんだろうよ。そのあとどうなるかは、想像もせずにな」
父の仕事を手伝えると喜んで協力した自分、誰かが配信するその出来栄えを楽しみに眺めていた自分を殴りたい。
「親だってのに、なんであんなことができたのか、聞きたいよ。子供を利用しても、稼いだ金で養えばいいって話なのか? なあ」
これはいつか親父に叩きつけるはずだった言葉だ。
タイミングも相手もずれてしまった。
エコは指のさきに残ったゴマを舐めとると、ブレザーのポケットからスマホを取りだした。
唇を尖らせ不満げに睨む。
「鍵忘れたからオートロック入れねぇ。母親が帰ってくるまで」
「父親は」
「父親は帰ってこない。成田さんは。こっちの家には」
裏向きにテーブルへ置く。
そういえばこいつの登校が入学からずれたのは、家庭の事情で引越しが遅れたからと言っていたっけ。
なんとなく、そんなとこじゃないかとは思っていたが。
「綱引きってべつに綱が欲しくて引っぱってるわけじゃねぇからな。勝ったりそのさきにあるものが欲しいだけで。綱は勝手にあっちからこっちって引っぱりまわされて、なんか知らん都合で気に入った部屋から引っ越すことになって」
以前にも似たことで怒っていた気がする。
「あえて言わせてもらうけどな。あんたの母さんが死んじゃったのと、うちが離婚したの、どっちが辛いと思う?」
「あえて言う……。人の死に比べるものなんてないって理屈を」
「だろうな。けど、両親が親権……養育費と、離婚したって世間さまが聞いたときどっちが良い親でどっちが悪い親だったのかを判定する目印として自分を欲しがってて、家裁の調査官に有利なこと吹きこんでもらうために自分に優しくしてるって思わされたら、あたしはもう、両親ともなんの感情も持てなくなった。あいつらにとっての世間体に比べたら安いくらいの金を借りる条件を引き出して、さっさと一人で生きる方法を探そうって思うだけでな」
ストローを一口吸う。
「でもあんたは母親に愛されていたし、父親ともまだやり直せる」
「なんで、そんなことがおまえに言えるんだよ」
「ところが、あたしにはわかるんだ。いまからそれを証明してやる」
エコはテーブルのうえでスマホを引っくりかえし、電話帳を操作する。
ある番号を呼びだしてから、スピーカーモードにした。画面には、俺の父親の名前が表示されている。
「まだ寝てるかも……」
コール音が途切れる。
「……もしもし」
気だるげな声がテーブルから発せられる。
「もしもしこんにちはー。珠稀ぱーふぇく子ですー。お世話になっておりますー」
突然目のまえで放送が始まる。
「えっ、あっ、……どうもお世話になっております」
「番号は知ってましたけど、直接おはなしするのは初めてですねー。いまお時間よろしいですか?」
「やっ、いえっ、はい。どうされましたか? なにか不具合でしょうか?」
父はもう、相手が取引先と信じて疑っていなかった。
真実だが、なんだか間抜けだ。
「いえ、全然そういうんじゃなくて、ちょっとお願いがあるんですけど。ふふふ」
「そうですか。えっと、なんでしょうか」
エコもよそ行きだが父親の声もよそ行きだ。
あいつなりにだが、抑揚をつけようとしているらしい。
「今度ウェブメディアからぱふぇ子の製作環境について取材がしたいって話がありまして、私の話以外にそちらにも取材してもらって、モデル製作時のエピソードなんかも織りまぜていけたらなーなんて」
「製作環境……取材……のエピソード……。はい、でも、ぱふぇ子さんは本物のユーチューバーって体裁だから、それはまずいのではないですか?」
目のまえの顔が笑顔になる。
つまり、嘘を考えている。
「そうだったんですけどー。もうデビューから一年近く経ちますし、徐々に縛りをなくしていくと同時に、裏側も見せていって新しい訴求力にしていこうかなーって、まだ考えてるところなんですけどね」
なんの準備もなくでまかせを繋ぎつづける能力は、本当にうらやましい。
「な、るほど。……それで私はどんな話をしたら、いいのでしょうか」
「まず私が聞いて、いいなと思う部分をまとめて、ちょっとこちらの出す話題とはなしの流れなんかも絡めて一本のストーリーにしていきたいなって。まずぱふぇ子なんですけど、誰かモデルとかいるんですか?」
「あ、モデルは、私の息子です」
情報はなんのためらいもなくスピーカーに乗せられる。
てめぇそういうところが……、口を開きかける気配を察し、エコが手で制する。
「えー! 息子さんなんですかー? 男の子? いがーい。それって息子さん怒ったりしませんでしたー?」
「いえ全然そんなことはありません。喜んでモデルになってくれました。あ、その、もしかして、心配でしょうか? モデルにしたといっても男の子と女の子、ですので、細かいところは全然違いますし、ですね、ですよ。だからその、イメージを損ねるということは、ないんじゃないかと、思います。私は、思います」
それはおまえが両方の生みの親だからわかる差異だろうが。
どうしてそう余計なことばかり気にして、他人の想いを想像できないんだ。
「あ、じゃあさかのぼって、ご自身の経歴なんかから教えてもらっていいですか? 話せる部分だけでいいんで」
「私のこと……ですか。はい」
ぱふぇ子は、エコは飲み物を手にし、口を湿らせる。
「CGは学生のころからやっていました。大学を出てすぐゲーム会社に入って、十年いました。でもちょうどぱふぇ子のモデルを依頼されるまえくらいに、ちょっと……あの私事が……私のことじゃないんですが、ありまして、私自身もっと子供といる時間を増やそうと思いまして、その会社を退職したんです」
独りで喋らせると、父はどんどん早口になっていく。聞きとり損ねそうになって、引っかかった。
退職した? クビになったんじゃなくて?
こいつカッコつけてんじゃないだろうな。
……ないとすれば、母が死んだ混乱のなか、不景気だのリストラだのって言葉だけをどこかから仕入れていた俺が、会社を辞めるのはすべてクビになることだと子供ながらに思いこんで、父親も多くを語る人間じゃないからそのすりかえがずっと残っていた、なんてことが……。
「それで、独立してフリーになりまして。なって……のは、いいんですけど。当てにしてた取引先が、そのー、潰れたりとかいろいろありまして。仕事はゼロ、ほぼゼロですね、になりまして。あのころは、大変でした。仕事をもらうってこんな大変なことなんだって思いしらされて。私自身、自信も全然、失くして。慣れない生活もありまして、なにをやっていいかわからなくなってました。頭を下げて、もといた会社に戻ろうかと、考えてたときでした。あなたの依頼があったのは」
エコがふふっと笑った。
「その節は、どうもすいませんでした」
「あっ、いえいえ。こちらこそ、私も受ける側として全然形式とか決めてなくて、ですね。ちゃんとクライアントの要望を詰めてもってきてくれる営業さんとかの、ありがたさ……みがわかりました」
「やっぱり憶えてますか? あの依頼」
テーブルの向かいから俺の顔を盗み見てくる。
「もちろん憶えてますよ。シンプルな注文でしたから」
離れたところでポテトが揚がったチャイムが鳴る。
「写実的な女子高生のモデル。Vチューバー用」
電話のさきで椅子の軸がギィと軋む。
「詳しい仕様説明なし」
エコがまた笑う。
「要望は」
回線の向こうで、父はなにかを味わうように息を継いだ。
「あなたが世界で一番かわいいと思う子にしてください」
エコの瞳がしたを向いたまま、きらりと輝いた。
「私のそれは、息子です。だからモデルにしました。あのころ、どん底だった私をずっと励まして、明るく笑ってくれた息子に。どんなに自分……自信を失くしてもそれだけは信じられるから。誰に見せても恥ずかしくない私と、妻の世界一かわいい子に」
早口を切り上げ、沈黙が通信を占める。
「親バカっていうんでしょうか、こういうの」
「そんなことないですよー。とっても愛があって、羨ましいと思います」
エコはそれから取材を受けるかもまだ検討中ですべてが企画ごと消えるかもしれないと念を押し、さらにぐだぐだと話題を変えてから電話を切った。
マスクを外すと鼻水が橋を架けた。
エコが店の紙ナプキンをくれる。
鼻を噛むと、目のまえのカップの蓋を外し、一息に飲み干した。
コーラかよ。茶って言わなかったか?
「ポテトも食う? 塩分補給に」
立ちあがる俺に黄色い束を差しだす。
「いや、いい。家で食べる」
エコはそれ以上なにも言わず、ポテトを口に咥えながらスマホをいじりだした。
店の入り口で氷を捨てる。
一枚、紙ナプキンを追加しマスクの裏を擦る。
つけると、なんだか急に花粉症になった気がした。帰ろう。
夕日が射しこむ車両に揺られながら周りを見る。
まばらにマスクをつけた乗客が揺れている。
普段は絶対にしないが、人のいる場所でぱふぇ子のチャンネルを再生する。
設定を落とした低画質の動画を眺め、エコの言う違和感の正体を探ろうとする。
なんて言ってたっけ? 新しいPCでゲームをしてるみたい?
やっぱり画質がよすぎるってことだろうか。
エコが言うなら、致命的な違和感というのはあるのだろう。
それを見つけて解決しなければ、発表会は失敗におわる、そんな気がする。
目を逸らし、進行方向を見る。
電車は毎日往復する幅広の川に差しかかっていた。
十両編成がすべて収まる長い鉄橋に乗ると、橋の構造に茜色が遮られ、影が車内を駆けぬけていく。
視界が強制的に瞬きしてるみたいで鬱陶しい。
いっしょに乗ってる乗客の動きが細切れにされている。手元ではまだ、低設定の動画が再生されている……。
わかった。
完璧に理解した。
エコが感じた違和感の正体と、その解決法、すべてを。
父に向けメッセージを入力する。
一語確定すると文章は自動的に完成していく。
「今日はちょっと遅くなります」
いつも降りる駅を乗りすごし、都心に向かう。
窓のそとで伸びる建物を眺める。手のなかでスマホが震えた。
「わかりました」
画面をじっと見つめる。
それから、指を新しい言葉に走らせる。
「ちょっと待っててくれればいっしょに食べられる」
「じゃあ待ってます」
軽くなったスマホが浮いて、どこかに飛んでいきそうだった。
俺はその危うさをもてあそんだまま、胸のまえで画面が暗転するのに任せた。