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蛹の家

作者:黒石迩守
 彼は一人旅をするのが趣味だったため、その時も、ある山奥に足を踏み入れた理由は特になかった。強いて挙げるとすれば、知的好奇心だろう。猫を殺す、というが、見知らぬ土地をただ訪れるだけでは、芸もなければ意味もない。固有の景色や文化に触れてこその旅だ。

 そんな理由で、道標もない山へ、彼はふらりと足を踏みいれていた。

 山は一言に美しかった。ひんやりとした森の空気は居心地がよく、周囲には甘い草の匂いが漂っており、瑞々しい生命力が空間に満ちているのが感じられる。沈黙の法則で限りなく不揃いに立ち並ぶ木々は、視界全体に緑を広げているが、決してこちらに圧力を掛けてくることはなく、心を落ち着かせる。繁茂する葉の間から差す陽光が、人の手では作りだせない鮮やかな翠緑の濃淡を生みだしていた。歩を進めるほどに表情を変える風景は目を楽しませ、時間を忘れさせた。

 それが不味かった。

 慣れない山に、深く這入りこみすぎたと彼が気がついたときには、すでに陽が沈み始めており、とても初めて訪れた山を出られる状況ではなくなっていた。
 どうにか来た道を辿ろうと彼は考えたが、よく知りもしない森の顔は、夜の化粧ですっかりと別人に変わっていた。

 昼間はあんなに美しかったと感じていた森は、とても恐ろしいものに変貌していた。月の光で冷やされたような空気は、どこか重苦しくまとわりつくようで怖気がする。自分の足音しか聞こえず、それが拡散しているのか反響しているのかも判らない。闇で黒く塗られた視界の中で、全体の静寂は自分の立ち位置も判然としないものにさせていた。僅かな光が目に映るものの正体を半端に教えるせいで、想像力が無闇に働いて、恐ろしいものばかりが脳裏を過ぎった。

 夜が訪れてから、一時間か二時間は森を彷徨っただろうか。疲れで足取りが鈍くなり、このまま森を出ることは諦め、朝が来るのをどこかで待とうと考えていた時だった。彼は鋭い白い月光ではなく、柔らかな灯りを見つけた。誰か人が居るに違いない、と思うと重い足を動かす活力が湧いてきた。

 それからなけなしの体力を使って、灯りの方へ一〇分ほど歩いたところで、彼は簡素な木造の小屋を見つけた。随分と古いもののようで、蔦が這い、半ば森の一部と化している。しかし、中から漏れる灯りは、確かに人が住んでいる証だった。
 助かったと思いながら戸を叩くと、中からは女の声で返事があった。彼は戸越に事情を話し、一晩だけ休ませてもらえないだろうか、と訊くと、家主は快く招き入れてくれた。

 家主は、墨を引いたような豊かな黒髪を持つ美しい女だった。新雪のように柔らかな白の着物を着て、その布地と同じくらいに白い肌をしている。これなら迷ったのも悪くはなかったものだ、などと彼は思わず調子よく思うほどだった。

 どうやら家主の女は目が弱いらしく、戸を開けたあと、彼の方を見ずに身振りで中へと誘い入れた。
 小屋の中は居間と、裏に台所があるだけで、お世辞にも快適とは言い難い。だが身体を休ませることができるだけで、彼にとってはありがたいものだった。

 居間に腰を下ろしたところで、大変でしたでしょう、と家主が弱い目で足元を確認しながら湯呑みを持ってきてくれた。安心したこともあったのだろう、歩き詰めだったせいで、すっかりと喉が渇いていたことを思い出した。礼を言いながら湯呑みを受け取ったところ、中は赤く透き通った液体で満たされていた。訝しんでいると、人の来ないところでして、こんなものしかお出しできませんが、と家主が少し恥じたように言った。

 話を聞くに、湯呑みを満たす赤い液体は、果実酒であるとのことだった。家主は自分の目を治すために、この辺りで取れる薬草と果実を使い、薬用酒を作って常飲しているらしい。

 ならばもらえない、と彼が断ると、普通の方が飲んでも問題ありませんよ、と家主は答えた。そんな大切な薬であるならば、という意味で言ったのだが、もう少ししたら目が見えるようになって外に出られるんです、と家主は続けた。どうやら薬用酒はもうなくなるところで、ちょうど飲みきったころに目が治るということだった。

 最後にお客さんと杯を交わせるのもいいものです、と家主は言い、そこまで言われて出されたものに口をつけないのも失礼だと思い、彼は湯呑みの中身を飲み乾した。赤い果実酒は、香草のような匂いがし、少し酸味があってやけに甘かったが、不思議と不快ではなく喉が潤うだけでなく、身体全体に染み渡り、疲れが取れるようだった。

 その後、家主と酒を酌み交わした彼は、やはり疲れていたのか、酔うとすぐに眠りについた。あぁ、ようやく外に出ることができます――と、家主が呟いた声が、やけに耳に残った。

 翌朝、彼が起きると、家主の姿がなかった。
 はて、と思いながら台所の方を見に行ったが、そこにも姿はない。台所には、あの赤い果実酒が、なみなみと満ちた瓶が置かれていた。

 家の中のどこを探しても見つからないので、寝ている間に外に出たのだろうか、と思い、彼は外に出てみた。そして、戸を開けたところに、それはあった。

 そこには、血肉を吸われたように乾涸びた、手足を広げている女の皮が、地べたに張りついていた。白い着物の上に、千々に乱れた女の濡れ羽色の髪が慎重に配置され、見事な紋様を描いているようだった。

 まるで蝶のように。










 ……あぁ、すみません、気味が悪かったでしょうか。
 なにぶん、ここは余り人が訪れないものでして。久しぶりに誰かと話せると思い、つい舌の滑りがよくなってしまいました。酔っているせいもあるのかも知れません。どうですか、その酒は美味いでしょう? 目がほとんど見えなくなってから、空想がよく働いてしまうのです。

 この、蛹の家に居ると。

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