074 宙駆く物者(5/6)
蜜柑色の羽毛が宙を舞った。
「ぐわぉっ」「キュエッ」
泥荒猪を倒して、機嫌良く広場を闊歩していたダグリッチが悲鳴を上げた。見れば、ダグリッチは押し倒されて、襲撃者である黄褐色のしなやかな肢体に圧し掛かられて暴れている。が、抵抗むなしく喉を噛まれ、骨が折れる音を周囲に残して絶命した。
上空からの急降下であったが、この場の皆には、それが突然に現れたように思えたに違いない。
「柿右衛門ぉおぅぉーーん」
まさるの悲痛な叫びが天を衝いた。ただ、伏したダグリッチは初めて聞いたその名を自分のものだとは夢にも思わずに旅立ったことだろう。
各々、その声に言いたい事はあるだろうが、のそりと軍禽に掛けていた右前脚を下ろして口の周りの血をなめとった獣から目を離せない。泥荒猪よりも体格は劣るが、その存在感はけた違いである。完全なる肉食獣の雰囲気とでも言えば良いだろうか。斧を屋根材に落とす度に上がっていた小屋内からの悲鳴も今は止んでいる。
それがその存在感を自ら誇示するように気配を放つ。獲物を狩る姿勢としては疑問符の付く態度であるが、それもそのはず、それは先の場面で上げたダグリッチの鳴き合いに呼応して、この場に訪れた故だ。
丸めた前脚を力強く地面に叩きつけて、背中の羽根をばさりと一羽搏きさせて、胸を張る。と、たてがみを震わせて静寂の中で咆哮した。
「がおぉうぉぉぅーーー」
先程の挑戦を自らに対するものとして受け取ったという意志表示である。そして、不届きものたちに向けて歩みを進めた。
「グリフォンめぇー、カッキーに何て事するんかっ」
「羽根の生えたライオンなのっ」
不思議生物に対して、身を縮こませることなく感想を言えるくらいには異世界慣れと言うか、修羅場慣れしてきたようだ。
修二たちにも視線は配られるが、有翼獅子が見据えるのは飽く迄もダグリッチである。それらは、どうにもダグリッチの存在が許せないらしい。食餌にする訳でもないのに、その姿を見れば狩らずにはいられないようだ。だが、それらの目的がダグリッチだとしても、修二たちは立木を利用して機動車に泥荒猪を乗せようと一か所にまとまっていたので、危険が自分たちに向かって近づいてくる状況は変わらない。
立木の枝に綱を掛けて泥荒猪を引き上げていたダグリッチを誘導していた修二が跳ねるように動いた。事前打合せで突出行動禁止とされていたが、即座に身体を動かす。そこに逡巡はない。
荷台にいた鈴音の手に斧槍はない。が、修二の動きに連動するかのように予備の剣を抜き、左手の蹄を振るった。
有翼獅子とダグリッチの関係性については、こちらの新聞を読んで知識としている裕樹である。出来れば、ダグリッチを犠牲にしてでも自分たちは一時この場から離れて状況を見極める選択肢が欲しい。が、残念ながら一方は屋根の上、他方は荷台の上となると、その選択肢は取りづらい。バラバラに逃げて、一人だけが追われたなんて事態は想定さえもしたくない。修二の動き出すのを見た裕樹は苦無を投擲する。
三者三様の動きは、裕樹の苦無は魔物に翼を振り上げられて、数本の羽根を散らすも向きをずらされて身体の上を抜ける。修二は側を駆け抜けて、その翼に狙いを定める。が、後方の機動車と軸線が揃った時を計ったように、後ろ足に体重を移した有翼獅子の右前脚が振り上げられた。風塊が白く渦を巻く。偶然か狙いかは分からないが避ける訳にも行かず大剣の腹で拝むようにそれを打ち払った。風塊は勢いを消されながらもその余勢が修二の体側に数筋の爪痕を残す。その合間を抜けて、鈴音の蹄が飛来し、有翼獅子の左前脚を抉る。
「修ちゃんっ」
鈴音が悲鳴を上げながらも、蹄を投げる手は止めない。
「お返しなの!“刀喰/三刃散草”」
智夏が機動車の上から側板に身を隠しながら、摩法を放つ。二層の摩法陣が右手の先に構成され、似せ狼を蹴散らした時と同じように手指ほどの三角柱が飛び出すが、有翼獅子の目前で3枚の花弁を開いて、一枚一枚が曲刀となって襲う。
これは黒の森からの帰り道で、“片喰/種爆弾”を試行錯誤していた際の副産物である。
「カタバミ草は成熟時に種を弾き飛ばすの」
「なるほど、良く見かける草花だと思うけど、それは知らなかったな」
博識の裕樹も植物は興味対象から外れているらしい。しかし、この草について知っていたのは何故か。
「知っているかい?カタバミ草は十大家紋の一つで剣豪と名高い上泉信綱も使っていたんだよ」
そういう事だ。
「ちなっちゃん、知ってる?ちょー有名なんだけど」
「知ってるもん、偉い人なの」
「柳生を作ったり、将軍を部下にしたんだよ」
それは野望でしかない。
「いやいや、鈴ちゃん、柳生宗厳に印可を与えてるけど作ってないからね。それに足利義輝を配下にしちゃダメだから」
「そーなんだよ、ちなっちゃん」
「ふーんなの、“刀喰/三刃散創”」
「えっ」「智夏ばっかりズルいーーー」
智夏の摩法適性のほどを思い知った一時だった。
「一層二円を越えるから、禁制かな」
「のん」「智夏、残念だったね」
鈴音の鉄片はさほど気にもされていないが、摩法の三刃は小さい刃ながらも同じ箇所を連続して傷つける。
「グワォオッ」
有翼獅子が驚いて歩みを止める。丸めた手で顔の傷を撫でる。人臭く感じる仕草だ。
「撤退する。まさるくん、先に皆に合流してくれ」
ここで翼の生えたライオンと立ち合う必要性を感じない。
「ちょ、ちょ、それは困るんだな」
小屋内が騒然とし始める。
「相手は有翼獅子です。ダグリッチを連れて、この場から離れます」
ここで騒ぐなら棚の荷物などを退かすなどして外に出る努力をしないのは何故かと問わなかった。内からなら荷は退かせたし、棚の閊えになっている控え柱を除けば、棚は容易にずらす事が可能だっただろう。控え柱が無くなっても、丸太組小屋が倒壊することはない。
「そんな事を言って、ここに一人で残ったりしないっすよね」
場合によっては、有翼獅子を城砦に招いても良いと思っている。“グリペンの巣”と呼ばれるぐらいだから、備えぐらいはあるだろう。
まさるの疑いの眼差しに笑って答える。
「僕はそんな無責任なことはしないよ」
裕樹の責任は皆を無事に元の世界に連れて帰ることだと思っている。それに比べれば、この救出の成否などはどちらでも良いのだ。
「きゃあー、行かないでぇー」
「トルスティ、どこだ!撤退する、承諾しろ!」
「あいつ、なんで平気なのよっ」
鈴音の投げる蹄が効いていない。一寸角の暗具(暗殺用の道具を指す)である蹄は人の頭蓋に容易に刺さり込む。それが黄褐色の体毛を乱すだけに止まっているのだ。
「軍人さん、師匠が呼んでますよ」
「何故こんなことに、私の相手は書類だったはず……」
機動車に載せられた泥荒猪の懐に鈴音、智夏、見習い少女といつの間にか軍人トルスティが収まっている。腹背を入れ替えれば、乳に群がるウリ坊の図だ。側板との間に出来た狭い隙間は身動きの余裕がないが、何故か安心感がある。
「ダグリッチを囮に脱出するぞ」
声を張る修二が有翼獅子の後ろに回り込んで牽制しなければ、とっくにその爪が届く結果になっている。
風塊を放つような仕草は見られない。有翼獅子は自らの牙と爪でダグリッチを引き裂きたいのだ。
「愚図がさっさと退くの」
まずはトルスティが退かないと機動車から皆が降りられない。
「あんたも戦いなさいよ、軍人でしょ」
「軍人だからって、皆が戦える訳じゃないんだっ」
トルスティは軍の経理行政事務を司る役人、つまり、軍吏である。彼の言う通りに軍人=兵士ではないのだ。
「クエッ!」「クエッ!」
ダグリッチが遠巻きに牽制する。逃げ回ったりしていない彼らの方が役に立っている。
屋根から降りたまさるが、小屋裏に隠れていたスマールベリ少年の肩に手を回す。
「今は逃げるっす。あれをこの場から引き離した方がお父さんも安全だと思うッスよ」
それは方便だ。そこに保証はないことは、話すまさるも分かっている。
「父ちゃん!戻ってくるから、それまで耐えて」
「スマールベリかぁ?ちょっと待つだぁよ」
今更になって、小屋の中から屋根に上ろうとする音がする。
決意の表情の少年を抱き抱えながら、機動車に向けてまさるが走った。ダグリッチは可愛いが、皆の命には代えられない。
修二は出来れば、片方の翼だけでも落としておきたかった。逃げても、飛んで追われたら、かなりマズい。初撃の急降下は気付くことが出来なかった。
だが、ネコ科の俊敏さは想像以上だった。2mを越える巨体が一瞬にして、それに倍する間合いを詰めてくるのだ。太腿のようなあの前脚に撫でられるだけでも惨事になりそうだった。
しかも、ぼんっ、ぼんっと少し前から聞こえて来た爆発音が大きくなってきた。
「マジか、勘弁してくれ。何が暴れてんだ」
有翼獅子の踏み込みと同じだけの距離を修二が跳び退る。が、それも同じように後ろに跳ねて、その勢いのままに一羽搏きでその巨体を宙に浮かせた。
が、その瞬間を待っていた槍士がいた。丸太組小屋の屋根から勢いをつけて、宙に一歩を踏み出す。
足の裏で土の球が弾ける。二歩、三歩、四歩……、ばん、ぱん、ぱん、とその度に土の球が弾けて、宙を駆ける。
そして、上段の斧槍を有翼獅子の背に振り落とした。