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回帰

 目覚めたのは暖かなブランケットに包まれながらであった。体にまとわりつくほどに柔らかいマットレスの上、ケイトは何も考えることもできずに仰向けになって、ただ何もない空中の一点を見つめ続けていた。

 なにか甘い香り、全身に回る心地よさ、薄暗い光、自分の呼吸音、着せられた寝間着の肌触り。ただただ、それらを感じるのみである。

 私は死んだのではないのか? 目覚めからしばらく経ち、ようやく靄が晴れてきた脳が最初に回路を開いたのは、そんな思考である。どうやら寝ているのは天蓋付きのベッドのようで、周囲にはカーテンが巡らされている。随分、高級なもののようで、装飾に美しい刺繍が一面に施されていた。

 夢を見ているわけではないようだ。だが、現実感もない。ただそこに転がっている事実を捉えることしかできず、そこから思考を巡らすことも何もできなくなっている。

 そういえば、眉間を撃たれたのではなかっただろうか。右手で自分の顔を触ってみるものの、風穴どころか傷すらない。一体どういう事なのだ。


 「ああ……」


そうか、なるほど。これは死後の世界というものなのだろう。はぁ、とため息をひとつ。ようやく納得がいったのだ。

 よく見れば、先程まで煤で真っ黒になっていた自分の肌も、綺麗な元の肌色に戻っている。それに目覚めてから鼻を突いていた甘い香りは自分の髪から香っているではないか。髪の毛をかきあげると、久々に見る亜麻色、自分の毛色。黒く塗りつぶされ久しく忘れていたが、そうだ、これが本来の私なのだ。

 やはり、私は、死によって救われた。


「ふふ……」


感情が口もとから漏れ出す。解放感に溢れていた。何も恐れる必要はなかったではないか。魂はここにあり、私は騎士であり続ける。そしてもし、ここが楽園であるのなら、私の願いは確かに叶ったのである。ケイトはこの幸福は神に感謝せねばと両手を組み祈りを捧げようとした。

 だが、なにか引っかかるのだ。結局、神とは何であったのか。あの少女は一体なんであったのか。死んだはいいものの、状況が全く掴めないのである。


「ふむ……」


 今一度状況を整理する。私は確かに眉間を射抜かれたはずだ。死んだということは確実。つまりここはあの世であることも確実であるが、私の信ずる教えの神は既に死んでいるのではないか? それでは、他の教えのあの世なのであろうか。いいや、私が崇めていたのはミスラ神のみのはずである。熱心な信者であったケイトには異教のことなどてんでわからない。

 では、やはりあの少女が死神かなにかとしか考えようがない。

 と、すれば。

 あまり良い予感はしなかったが、ケイトはまだ寝ぼけ気味の身体を起こし、締め切られているカーテンの合間から外を伺うようにほんの少しだけ開き、見た。


 「お目覚めのようね」


真珠色の長い髪、やはりいるのである。

 まるで宮殿のようなインテリア、白を基調としたシンプルながらもきらびやかな装飾、見るからにラグジュアリーな部屋の中、まるで彼女自身も家具の一つであるかのようにソファに腰掛けていた。あまりにも似合いすぎていた。あまりにも人間であるようには見えなかった。絵画の中にいるかのようで、現実感があまりにも薄い。

 だが、今のケイトにその美しさなど感じる余裕はなかった。少女の姿を見た途端、心の中に波風が立ち、なにか並々ならぬ感情――主に恐怖が思考の全てを占めたのである。


 「目覚めはどう? 身体に違和感は?」


 少女が立ち上がり、冷笑のような笑みを浮かべてこちらへ近付いてくる。あまりの恐怖のためか体が強張り動かない。

 いいや、畏れと言ったほうが適切か。目の前の少女は面様はそのまま少女であるが、ケイトにとっての彼女は神性なのである。望んだとはいえ、自らの命を何のためらいもなく奪った死神が目の前にいるとなると、あまりにも、ぞっとしないのだ。


 「あ、あ……」


声すらまともに発することができず、ケイトは覗くのをやめ、ブランケットに深く潜る。まるで幼子のようで、かつての正義を貫く騎士の面影はどこかへ行ってしまったようである。今では奥歯をガチガチと震わせ、背を向けて、目を閉じた先の暗闇の中で縮こまるただの臆病者であった。

 怖いのだ。どうすることもできない力が、得体の知れぬ力が。


 「なにも、恐れることなどないわ」


まるで感情の無いような平坦とした声で少女は語りかけた。カーテンの開かれる音が、ケイトの喉元にナイフを突き立てる。何か物音が立つ度にビクビクと震えるケイトは傍から見れば非常に滑稽であろう。

 だが、本人にとっては恐ろしくてたまらないのである。死んだはずであるが、死が、とても恐ろしいのだ。


 「安心なさい」


そう言って少女がブランケットの端に手を触れた時、ケイトの感情はもはや限界であった。堰を切って流れる涙、激しい嗚咽。子供のように、いやだいやだと必死に泣き叫ぶ。ぐずぐずと鼻をすすりながら、とにかく小さく丸まろうと身を屈めるので、さすがの少女もこれには予想外のようで、どうしたものかと表情をほんの少しだけ曇らせていた。


 「大丈夫、あなたには何もしないわ」

「いや、いやだ……うう、いや……」

「ええと、では、あなたはどうして欲しいのかしら?」


少女は問いかけてみるのだが、帰ってくるのはいやだだけである。埒が明かないので、ブランケットの膨らんでいる部分、ケイトの腰のあたりに手をかけてみたのだが、パニックになっているケイトに強く払い除けられてしまった。


「痛っ」


騎士だけあって力は強い。ケイトは丸まったまま逃げようともぞもぞと動くが、自分から被ったブランケットが行動の邪魔をしてうまく動けないようである。しかし、ブランケットという繭が無ければ安全はどこにもなくなってしまう気がして、出ることなどできないのだ。

 さすがにこれ以上はどうしようもないと悟ったのか、少女は呆れたように一つため息を吐く。そして「仕方ないわね」と一言呟き、言った。


「抵抗しないで。あなたと話がしたいだけ。それとも、もう一度死にたいのかしら?」


 凛とした、非常に威圧感の強い声であった。だが言葉に対して表情は重いものではなく、なんてことはない冗談のような発言であったはずである。しかしその言葉は顔を見ることのできないケイトに直に突き刺さる。ブランケットの中で亀のようになっている彼女にとって、それはまさに一番恐れていたものであると言えよう。もちろん、今のケイトに抵抗するなと命じたところで、まさかそうするはずがないのが現実である。

 しかし、何故だか、体が動かないのだ。未だガタガタ震えるばかりで、逃げようとする意思はあってもそれが実行できない。手足が重く、力を入れてみるも動かない。


 「それでいいわ」


背後から、少女が近づく気配を感じる。思考はもはやキャパシティをとうに超え、何も考えられない状態になっていた。もはやパニックですらない。

 少女がブランケットを掴み、強く引っ張り取り上げると、まるで胎児のようになっているケイトが硬く目を閉ざしながらすすり泣いていた。


「ひっ……」

「あら、効き目強すぎたかしらね」


少女の手が肩に触れる。震えるだけで一切の行動もできない。雷に怯える子供か、いやそれ以上か。

 少女は「こっちを向きなさい」とケイトを無理やり向かせようとするが、動じる気配はなかった。抵抗などという話ではなく、ただ単に硬くなった彼女を動かすのは少女では力不足であっただけである。


 「仕方がないわね」

「うう、あ、あ」


横たわる身体を乗り越え、正面から向かい合う。ケイトは少し逃げ腰になるだけで、やはり動かず丸まってすすり泣いているだけだ。少女が頭に優しく手をのせると、見ただけでもわかるほどの鳥肌が全身に立った。

 ケイトの頭を優しく撫でながら、少女は語りかける。


「……力を抜きなさい」


するとどうだろう、何故だか、全身の力が抜けていく。ケイトの意志とは無関係に、全てを受け入れるように仕向けられていく。言いなりになってしまう。そしてそれと同時に、ケイトの恐怖も徐々に解消されていくのだ。嗚咽も和らいでいく。

 子供をあやす母親かなにかのように、少女は頬を撫でる。「腫れてしまうわ」と涙を拭うと、ケイトの顔がよく見えるように自身も横たわった。


 「私の目を見なさい……。恐れなくてといいと言ったはずよ?」


固く閉ざした目を、ゆっくりと開いていく。吐息も当たるようなすぐ近く、あの真珠色の髪少女の胸元にあった。目線を上へずらしていくと、青い綺麗な瞳と視線が交わる。ケイトは畏れから目を逸らしそうになったが、途端に頬を撫でられ見惚れたままになってしまった。


 「やりすぎかしらね、でもいいわ。……デイム、ケイト・ルエラニ。私を信頼してくれたかしら?」


名を呼ばれた瞬間、青い瞳に吸い込まれそうであった。意識が遠のいていきそうであった。いや、すでに正気を保ててはいない。催眠にでもかかったように、心が勝手に安らいでいく。今でも恐ろしいのだ。今でも怖いのだ。それなのに、ケイトの喉は「はい」と無意識に答えていた。


「そう、ありがとう。その言葉に嘘がないことはわかっているわ」


 少女はすましたように、ふふ、と笑うと、自らの胸元にケイトの頭を抱き寄せる。もはや抵抗など考える余地すらなく、ケイトはただ惹き寄せられるのみである。目を瞑り、抱かれながら、あとはひたすら少女の体温を感じるまで。


 「抱きついてもいいわ、好きになさい……」


少女の腰に手を伸ばす。そこに理性などなかった。考えることをやめたのである。

 少女がケイトの額に口付けをしたところで、意識は飛んだ。








 「随分、しおらしくなったわね」

「……申し訳ございません」


ソファに腰かけ、仏頂面でこちらを見ながら少女は言う。

 意識が飛んでから、しばらくケイトは赤ん坊のように泣きじゃくっていたようで、随分とシーツはぐしゃぐしゃになっていた。また、少女のドレスも涙と鼻水で濡れてしまったので、今はそれを脱ぎ代わりに寝間着を使用している。


 「いいわ。換えがあるし、後で洗って貰うから」

「面目ありません……」

「私がやりすぎただけよ」


とは言え、やはり不機嫌そうで非常に後ろめたいのだ。何故だか強い信頼感はあるのだが、やはり怖い事には怖い。相手の得体は未だに知れていないのである。


 「もうこの話は終わりよ。あなた、体調は悪くないわね?」


ケイトが困っていることを察したのか、少女は自らの別の話題を切り出す。少し無き疲れている事以外は異常はないので、おずおずとしながら、ええ、と肯定しておいた。

 しかしながら、あまりにも疑問が多すぎる。少女の正体もそうであるが、様々な謎がありすぎて処理が追いつかない。なにかもやもやとしたものばかりが溜まって、解消できないのである。


 「そう、それならいいわ」


少女はため息混じりの声で言うと、胸元を気にしだす。下着にも染みてしまったのだろうか。

 会話が途切れ、どうにも重苦しい雰囲気が続く。あまりにも辛い状況に、ケイトはとりあえずこちらからも切り出さなければ、と質問をぶつけようとした。


「あの……あなた様」


少女は自分が呼ばれていることに気付き毛糸を一瞥して一言。


「リクゥよ」

「リクゥ様、でありますか……」


 おそらくそういった二人称で呼ばれるのが嫌だったのだろうか、少女は自らの名をようやく名乗る。ただそれだけなのであろうが、ケイトにはどことなく認められたように思えた。聞いたことのない響きで、どこか異国の面影を感じる名である。


 「それで、何を言いたかったのかしら?」

「ええと、私は死んだはずなのでは……?」


そう、死んだはずである。未だに自分の置かれている状態が掴めず、ケイトはまずそれが知っておきたかった。

 リクゥはそんなケイトの疑問など意にも介せず、そうよ、私が殺したわ、とあっさり告げるのであった。あまりにもショッキングな宣告ではあるが、深く考えると収集がつかなくなりそうではあるので、ケイトはそのまま質問を続ける。


「……では、ここは死後の世界ということでしょうか?」

「違うわ、私もあなたも生きているでしょう? あなたが死ぬ前と同じ世界よ」


 確かに、そうではあるが。もちろんだがケイトは死後の世界など行ったことなどはない。だからこそ、なかなか理解し辛いところがある。むしろこの世界が死後の世界でないということを証明するのは、まさに悪魔の証明であろう。


 「では……ここは一体何処なのですか?」


核心を直接付く質問をするのは若干恐ろしかったが、頭がこんがらがってしまう前に聞いておくほうが楽であるとケイトは判断した。場所がわかれば、あとはきっと何とかなるであろう。

 リクゥはその質問に対して俯いて少し考えた後、ああ、と呟いて窓際を指さした。大きなカーテンが下げられており、その後ろの窓の巨大さが伺える。


「直接見たほうが早いわ」


 ケイトは指差した方へと歩いて行き、カーテンを手にかける。隙間から陽の光が入り込んできており、眩しい。長らく見なかった太陽であろう。おそらくこの先に答えがあるのだろうが、やはり緊張するものだ。

 一度深呼吸をして気持ちを整える。覚悟はできた。ゆっくりと、左右に開いていく。

 カーテンの先には。


 「これは……」


 太陽が輝いているのは青い空ではなく、土の天井の内側であった。その太陽から、太いパイプが幾重にも重なりながらアーチを描くような放射状に広がっている。見下ろす街並みには蒸気配管が線画のように道を描き、幾多もの鉄道が路線を交わえている。煙突は高く高く伸び、上の階層へ、恐らくは地上へと続いている。周囲には頭を上の階層にまで突っ込んだ巨大建築が連なり、その間にはたくさんのパイプ。どこかから、またどこかから白い蒸気が吹き出す。シリンダーが、ピストンが、歯車が、またどこかで音を立てながら動いている。

 あまりにも立体的で、あまりにも金属質で、あまりにも未来的な世界が、ケイトの目の前に広がっていた。


 「ティエラ・ゼムリャよ」


ケイトはそのまま言葉を失い、しばしその眺望を見つめていた。

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