雪
「雪、降らないかなぁ」加奈が言った。
「降るかもな」僕はあいまいにうなずいた。
加奈は僕の肩に寄りかかるようにして空を見上げている。
十二月の寒空の中、僕らは家の縁側に座り、手の中にある緑茶を大切に、愛でるように、ゆっくりと味わっていた。
「雪、降ればいいね」
加奈はそうつぶやいて白い息をはいた。それは僕の顔の前を通り空へ向かって消えていく。
僕は加奈の言葉にうなずいた。
「そうだね」
今、僕と加奈がこうしているように二人でいることをゆっくりと感じていられる人間はいったい世界中で何人ぐらいいるのだろう。おそらくかなり少ないはずだ。そのことが少しうれしく、また寂しくもあった。
「ねぇ、散歩に行かない?」加奈が湯飲みを横に置いてあったお盆に戻し、言った。
「いいけど・・・もう少し」
「ん?」加奈は首を傾げて僕を見た。
「いや、なんでもない。行くか、散歩」僕は自分の湯飲みを加奈の湯飲みの載ったお盆に乗せて立ち上がった。
僕は少しの寂しさに押されて立ち上がった。
二人でゆっくり歩く、駅前の大通り、公園、ちょっと裏寂しい住宅街。まだ白く化粧されていないその景色は灰色で寂しさが付きまとう。
「俺に似ている」
「何が?」俺のつぶやいた言葉に加奈は反応した。
「なんでもないよ、ただの独り言」肩にまわした腕に力を込める、こいつだけが僕のことを、僕の言葉を聞いていてくれる。そういう気がした。灰色の景色でも幸せを知っている。
ゆっくりと歩き、自宅の近くにあるベンチしかない寂れた公園にはいる。さっき通った駅前のちゃんとしたところよりもこちらのほうがくつろげるような気がする。仰々しいジャングルジムやケバケバしたすべり台、そういったあてつけみたいな遊具がないほうが公園らしいと思う。
二人でベンチに座る。目の前には、まばらに生えた葉の落ちきった木々。夏になればそれらは青々とし、ここを訪れる人たちに潤いを与えるのだろうか?
「直人」加奈が僕を呼ぶ。
「ん?」加奈は足元に生えた一本の雑草を見ている。この冬、もしかしたら最期まで生き残った緑なのかもしれない。
「枯れちゃっているのかな?」
「たぶんな」
「雪、降るといいね」加奈が言った。
「うん」二人して空を見上げる、空も灰色だ。
しばらくして僕らは家に戻った。
「寒い、寒い」僕らは二人して火を灯したストーブの前にしゃがみこんだ。
「散歩したら、すっごい体冷えちゃったね」
「行かなきゃよかったかな?」
加奈は首を振って笑った。
「行けてよかった」
「そう」僕は手を伸ばし、加奈の頭を撫でた。
いつもは子ども扱いされて怒るくせに加奈は照れくさそうに笑った。
「お茶、飲もうか」加奈は立ち上がり台所に向かった。
その背中は悲しくなるほどやせて見える。あの日、病院で加奈の運命を告げられたとき、僕はたくさんのことを想った。いろんな決心ができた。明日、加奈は死ぬ。あんなにも元気そうに見えるのに、一人で歩けるし、笑うこともできる。なのに明日、加奈は死ぬ。意識をいつ失ってもおかしくない状態。
何を言う、加奈はあんなにも元気だ。
医者が言っていることがおかしい。
そんな病気があるはずがない。
背中を見るまでは、彼女の背中を見るまではそう思えた、そう思うことができた。けれど、信じられないけれど、それが本当であることが加奈の背中を見てわかった。
「ちょっと、運ぶの手伝って〜」台所から加奈の声がする。
顔を両手でこすり立ち上がる。
「ちょっと待って」雪が降ればいいと思った。
また二人で空を見る。縁側に座って。
「雪、降るといいな」僕は加奈を後ろから抱きかかえて言った。
雪のような真っ白な彼女のうなじが僕の目の前にある。
「そうだね」僕が加奈の黒い髪に鼻をうずめるとくすぐったそうに彼女は笑った。
腕に力を込める、強く。彼女の匂いに抑えていた涙がこぼれた。
「大丈夫」加奈は僕の腕をぽんぽんとたたいた。
「うん」何が大丈夫なのか、けれど、うれしかった。
僕は少しの間泣いた。その間加奈は僕の腕をたたきつづけていた。僕の涙が止まったとき、彼女が泣き出した。
「大丈夫」僕はゆっくりと体を揺らし、彼女をやさしくゆらした。
そして、加奈の涙が止まったとき、空から小さな、雪のかけらが落ちてきた。
初めのひとつが地面に落ちるとそこへ次から次へとたくさんの雪のかけらが降りてきた。
空を見ればそこにはしんしんと降る雪。
地を見ればそこにはゆっくりと溶ける雪。
「大丈夫」僕らは言った。
次の日、世界は白く染まった。灰色の街も、公園も、駅も、あの最期の雑草も。みんな。
白くきれいな世界だった。
初めてこのサイトを利用させていただきました。いろいろな方が僕の書いた話を読み、なにかを感じ取っていただければ、そう想い書きました。小説は「心のコミュニケーションにおける言語」だと僕は思っています。みなさんぜひ僕と「会話」してください。