深紅の服と黒い花
その日は仕事が長引いてしまったが明日はやっと休日だった。
たまには酒を飲んで帰っても妻の美智も怒りはしないだろう。
稲垣は至って模範的な夫だった。
だけど飲みたい日だってある。
あまり騒がしいところは嫌いなので、高校生からの同級生が1人で切り盛りしているバー“宿り木”へ行くことにする。
「寒いな・・・」
呟くと足早に駆けていく。
”カランカラン”
入口のドアの上につけられている鈴が鳴る。
「天羽、久しぶりだな。元気か」
「俺は相変わらずだよ」
グラスを拭きながら同級生の天羽は笑う。
こいつ比べると僕はだいぶ年をとったな、と思う。天羽は昔からだが赤やピンクや金や銀に染めた少し長めの髪の毛を雑に後ろでくくりつけている。アクセサリーは好きじゃないんだ、俺はロックでもパンクでもない、と嘯きアクセサリーは滅多につけることはなかった。
2人はもう36になる。
自分が年相応なのか、天羽が若すぎるのか・・・。もしかして両方なのかもしれない。
「なにか飲む?」
天羽がグラスを置いた。
「適当な水割りでいいよ。薄めに」
「はいよ」
氷を砕く心地よい音が聞こえてくる。
何気なく店内を見回すと相変わらずあまり人は入っていない。こいつ、本当に店の経営状態は大丈夫なのか?と天羽の顔をチラチラ見るが本人は何も気にしていない風でグラスに入った水割りをマドラーで緩やかにかき回すと稲垣の前に置いた。
「ま、ゆっくりしてきなよ」
柔らかく笑う。
天羽の笑顔は学生時代、一部の女子に人気があった。
第一印象が多分、あの身なりだから悪いのだろうか。
しかしその後に人懐っこい、なんというか犬みたいな笑顔を見せられるとギャップで好意を抱いてしまう。
昔、ほんの少し好きだった女の子が実は天羽の事を気に入っていると噂で聞いた時はかなり落ち込んだものだ。
しかし天羽本人にはもちろん罪はないし、本人は女の子達よりも男友達を大切にする奴だったので特に問題にはならなかった。懐かしいな、と稲垣は感慨にふける。
「天羽さ、お前まだ独身なの?」
分かってて口にした。
「別に、まだ遊びたいとかじゃないし、いい縁があったらな~とは思うけど俺が女で水商売してる男と付き合ったり、ましてや結婚なんてやだからな。女と男の違いはそれさ。女は割り切って仕事をできるけど男はどこかで色が入るもんな。馬鹿な生き物だよ」
あまりにも真面目な顔で言うので、稲垣は軽く吹き出してしまう。
「そういう台詞はせめて髪の毛、真っ黒にしてから言えば?今の髪の毛のほうが手間かかるだろうに」
「これは俺のポリシーだから」
と訳の分からない主張をする。
「ロックでもパンクでもないのに?」
「学生時代から何回言わせる気だ?」
久しぶりに家族や仕事仲間以外と話すのでまだまったく酔っていないが稲垣は饒舌になっている自分に気付いた。
自分とは違い、自由に生きる天羽が少し羨ましかった。
いつからそこにいたのか分からないがなんとなく視線をカウンターの端にやると1人の女性が頬杖をついて席についていた。
真っ黒の肩甲骨までの長い髪。
横顔でも分かる、美しい横顔、まつ毛は長く小さい鼻に薄い唇。
思わずはっとしてしまう。
伏し目がちなのはカウンターに置かれたグラスを見ているからかもしれない。
なにより印象的だったのはその服。鮮やかな赤いワンピース。
少し、不健康なくらい白い肌に原色の赤がはえていた。
しかしこんな季節にノースリーブのワンピースなんて寒くないのだろうか?
確かに店内は暖房がきいているが・・・。
だとしても彼女は上着を持ってきている様子はない。
「あの子、よく来るの?」
思わず天羽に聞いてしまう。
「え?ああ、彼女か。最近よく来てるよ。いつも赤いワンピースでさ。この辺は飲み屋が多いからどこかの店で働いてる子じゃないか?」
「へえ・・・」
稲垣は何度か女性のほうを見やるが彼女はこちらを見なかった。
何をするでもなく俯いている。
「彼女はなにを飲むのかな?」
天羽の片眉が微かに持ち上がった。
「おやおや。旦那さん、不倫ですかぁ~?」
本当に見た目とのギャップが激しすぎる真面目な天羽。
逆にいかにもどこにでもいる真面目そうなサラリーマンの自分のほうが危ない橋を渡りたがるものなのか?内心、少しどぎまぎしつつ稲垣は
「違うよ。」
となんだか言い訳にならないことを言った。
天羽は細い溜め息をつくとそれでも
「ウォッカが好みらしい。少なくとも稲垣よりかは強いね」と笑う。
馬鹿にされたようで赤いワンピースの彼女の反対側にあるスクリーンに映された外国のアニメを見ていた(天羽の趣味だ)
しばらく見ていると
「あの子に酒、作っといたから」
と天羽の声が聞こえ、振り替えるとその女性にウォッカの入ったグラスを渡していた。
まさか本当にあの堅物の天羽が妻帯者の自分が違う女性に酒を奢ることをさせると思わなかったので稲垣は面食らう。
女性がこちらを初めて見る。
少し、気だるそうなその瞳。
綺麗な仕草で髪をかきあげる。
こういう時、洋画に出てくるような甘いマスクの男だったら、さりげなく彼女の席の近くに座って話しかけたり、意味あり気に微笑んだりするのだろう。
しかし気の利いたことはなにもできず、稲垣は曖昧に頷いた。
その時、新しい客が入ってきたので天羽は応対するためテーブル席の方へ行った。
稲垣は手持ちぶさたにだいぶ薄くなった水割りを口に含んでいた。
すると左手から足音が聞こえてきたのだった。
そんなに混んでないとはいえショットバーなのだから人々の話し声や笑い声や音楽が聞こえているのに。
稲垣の耳はその足音を聞き逃さなかった。
「あなたあたしを見てたでしょう?」
その声は少し低かったがどこか甘く綺麗な声だった。
稲垣は何を言ったものだろうか・・・と思案する。
「あたしも、あなたを見てたから」
女性がそう言うので
「嘘をついちゃ駄目だよ。君はグラスを見てた」
と、やっと言えた。ついでに勇気を出して女性を見る。
彼女はくすくす笑っていた。
「ほら、やっぱり見てたんじゃない」
どうやら墓穴を掘ったようだ。
「・・・ごめん。あまりにも綺麗だったから」
素直にそう言う。
それを聞いたその女性はまじまじと稲垣を見る。
「あたしが綺麗に見えるなんて、あなたは幸せな人生を歩んで来たのね」
少し、彼女は淋しそうに笑った。なんだかそんな彼女を見ているともっとこの女性について知りたい、と稲垣は思った。
一体どうしたことだろう?
美智とは四年前に見合いで知り合い籍を入れた。
元来、そんなに遊び好きでもなかったため学生時代も人に言うのが憚れるような女性との交際もしたことがなかったし、結婚してからも浮気と呼べることはしたことがない。
そんな自分がなぜ・・・。
女性は少し切れ長のその目に悪戯っぽい光をたたえている。
「他の店で飲み直さないかい」
その目に根負けしてついに稲垣は言った。
女性は軽く頷いた。
夜の繁華街を二人で歩く。
こういう時、とりあえず自己紹介からしてみるものだろうか?
「僕は稲垣・・・」
とまで言ったところで
「名字でいいわ」
と遮られてしまった。
もしかしてあまり好印象ではなかったのだろうかと稲垣は少し焦りを感じた。
「君の名前を聞いてもいいのかな」
「愛海よ。愛でる海。みんなそう呼ぶけど」
この言い方は天羽の言う通り水商売をしている女性で店での名前を名乗っているのだろうか?
「あ、ちゃんづけとかはやめてね。あまり好きじゃないの」
「・・・」
若い女に免疫のない稲垣は反射的に愛海ちゃん、と言いそうになっていて口を慌てて噤んだ。
本当にこの愛海という女性はいくつなのだろう?
幼さを残した顔つきをしているがどこか憂いを含んだその表情は夜の商売の特有のモノだろうか?
あまりそういう店にあまり行くことのなかった稲垣には判断しかねた。
「愛海はいくつかな。僕はもう36だけど」
思い切って聞いてみる事にする。
「21歳よ、まあ・・・それは体だけの話だけど」
少し含んだ言い方をするが、
「でももう少し年上に見えたんじゃない?」
とすぐにまた笑う。
なにか違和感を感じつつもいきなり立ち入ったことを聞くのも失礼に当たるだろう、と稲垣は「うん、大人びてるからほんの少し上だと思ったよ」と頷く。それにしてもこんな若い女性と自分が話していていいものかと稲垣は少しばつが悪くなった。しかしそれを愛海は気にする様子もなく
「この店に来たかったの」
と、遅くまで営業している花屋の前で足をとめた。
どうやら今は酒を飲み交わすより花を見たかったらしい。
店内に入ると花屋特有の心地よい香りがした。
花の知識が全くない稲垣は愛海の見ていた花を覗き込んだ。
「それはなんて花?」
「黒百合よ。これがほしくて」
そう言うと店員に話しかけ、高そうな(少なくとも稲垣よりかは)財布から紙幣を抜き取りレジに出す。
花を受け取ると稲垣のほうを向いて笑いながら
「プレゼント」
と、黒百合を差し出した。
女性から花を受け取るなんて初めてだったが、これは少しは好意があるということかな?と「ありがとう」と受け取った。
外に出るともういい時間で愛海は、帰らなきゃと言った。
「また、会えるかな?」
「よくあのバーにいるから、また会いに来て」
「携帯、教えてくれないのかな」
「そんなの、今のあたしは持ってないのよ」
今時、携帯がないなんてあるんだろうか。しかし稲垣はそれ以上は何も言わず
「僕は休みが日曜だけなんだ。明日はちょっと・・・家を出れないけど・・・」
妻がいる、というのが稲垣に後ろめたい気持ちにさせていた。休みの日は、子供はいないとはいえ美智と外食に行ったりするのが習慣だった。
普段がそれだけ忙しかった。
「奥さん、いるもんね」
心を見透かしたように愛海が言った。
結婚指輪はしていないのになぜ分かったのだろう?
「雰囲気で分かるわ。稲垣さん。女は嗅覚が鋭いからそんなのすぐに分かるの」
そんなものかな?
でも妻がいるからといって稲垣に対する態度が変わらないのが救いだった。
「じゃあ、明後日あの店に行くよ」
「えぇ、お休みなさい」
踵を返し雑踏にまぎれこんでいく愛海はあっという間に見えなくなった。
しばらく、稲垣はその場所でただ立ち尽くしていた。
「お花、買ってきたの?」
玄関先で美智は不思議そうな顔をした。
「偶然、花屋の前を通りすぎたんだけど綺麗だったから」
稲垣は上手い言い訳が考えつかずどうとでもとれる言い方をした。
「黒い百合ってのも綺麗ね。どこに飾ろうか?」
美智は顎のラインで綺麗に切り揃えた髪を少しかき上げながら微笑む。
美智の両親は少しばかり資産家だったから一軒家の(と言ってもけして広すぎるわけではないが)家をローンなしで購入できた。
それを差し引いても冴えない自分に、五つしたの溌剌とした魅力のある美智を妻にできたのだからこれ以上なにを求めることがあるだろう?
しかし愛海の愛くるしい、しかしどこか淋しげなあの表情を思い浮かべると胸が苦しくなった。
それを打ち消すように、
「僕の書斎でいいよ。自分で活けるから美智はもう休んでいいよ」
と、稲垣は言った。
「そうね。今日は遅くなったみたいね。先に寝るわ。お休みなさい」
美智は二階の寝室に上がっていった。
しばらく黒百合を眺める。
そして花瓶を探しに戸棚を開ける。
次の日、稲垣は息苦しさで目が覚めた。
体が熱い。
昨日、寒い中飲みに行ったり、愛海と街を歩き回ったしその疲れかもしれない。軽い風邪だろうと稲垣は一階のリビングに降りていった。
もう朝になっていてテーブルの上に簡単な朝食が置いてある。
テレビを見ていた美智が振り返って
「顔色悪いわよ。風邪でもひいたの?」
と心配そうに言った。
「どうやらそうらしい」
美智は立ち上がるとリビングの小さな引き出しから体温計を出して稲垣に渡した。
38.8度。まあまあの高熱だった。
「わたしが車、運転するから病院に行こうか?」
美智はそう言うが、
「大丈夫だよ。今日一日休んでれば。朝食、作ってもらっておいて悪いけど粥でも作ってもらえないか」
美智は嫌な顔ひとつせず頷くと台所に向かった。
次の日になっても熱は下がらなかった。
昨日はずっと安静にいていたというのに。
会社を休みたかったが今日は大事な会議もあるし片付けなければいけない書類もある。
だいたい、体調の不備など自分の不注意以外のものに異ならない。
そんなことを理由に休むわけにはいかなかった。
意外となんとかなるもので会議をこなし書類の片付けも昼には大半が終わっていた。
同僚達、数人が稲垣を食堂に誘う。
どうやらみな自分の体調が悪いのに気付いてないらしい。
その事実に満足し、食堂へと続く渡り廊下を歩く。
ふと、窓の外を見ると会社の入口の門のところで赤いワンピースの女性が立ち尽くしていた。
(愛海?)
しかし食堂を行き交う人々が邪魔をし、愛海が見えた窓に近付けない。
「どうした?稲垣」
同僚の声が聞こえる。
それでも窓際に飛び付くと愛海らしき人物がいた場所に目を凝らすが誰もいない。
「浮気相手でもいたのかよ?まぁお前に限ってそれはないか」
同僚達は笑うが稲垣は窓際に立って周りを見渡していた。
「ほら、座るとこなくなるから」
同僚の一人に半分、引きづられていく。
どうせ仕事が終わったら会えるからとその後は気力が充実したのか、ますます仕事に励める稲垣だった。
バー“宿り木”に着いたのは午後10時を過ぎた頃。
さすがに疲れたな、と稲垣は肩を叩く。
店の扉を開けるとさすが週明けとあって店内は閑散としていた。
カウンターに赤いワンピースの愛海。
天羽はこちらを見ると
「風邪か?」
と、言った。
天羽は普段、何に対しても無頓着だとか言われることは多いが本当にそれは風貌の為で観察眼もあるし着眼点も鋭い。
他の奴は気付かなかったのにな、と思ったが一目して風邪だと分かる自分がバーに飲みに来ているのが何か、後ろめたい気にさせた。
「残業が多すぎるんだ」
稲垣は言いながらとりあえず天羽の前に座る。
いきなり愛海の横に座るのは得策ではないかもしれない。
しかし愛海は自分の目の前にある、おそらくウォッカを飲み干すと稲垣の方に歩み寄ってきた。
「こんばんは、稲垣さん」
「うん、こんばんは」
チラリ、と天羽を見ると何食わぬ顔でグラスを片付けている。
「風邪、ひいたの?」
天羽との会話が聞こえていたのだろうか?
愛海は掌を稲垣の額に当てた。
とても冷たいその手。
しかしひんやりしていて気持ちがいい。
「苦しい?」
「というよりかは体がだるいかもしれない」
愛海は少しの間そのまま稲垣の顔を見つめていたが、そっと唇を稲垣の耳に近付けると、
「どこかで休もうか?」
と、始めに会った時のように悪戯っぽく笑った。
なんとなく流れでラブホテルに来てしまった。
愛海は物珍しそうに室内を見回している。
稲垣もこういう場所は久しぶり(最後はもちろん美智と来た)だった。
このまま男女の関係になるのかと思えば、期待をしてないと言うと嘘になる。
しかし実際、体がだるいのだから休んだら?と言われて来たのだし、そう簡単に女性に手を出すような軽薄さはないと自分では思っていた。
「横になってていいわよ」
愛海はソファに腰かけると言った。
確かに本当に体は熱っぽくだるかったので稲垣はスーツの背広だけハンガーにかけるとベッドに横になった。
寝るつもりはなかったが目を閉じると次第に眠りの世界に引きづりこまれた。
目を覚ます。
一瞬、ここはどこだろうと思った。
すぐに愛海とホテルに来たことを思い出し室内を探すが姿はなかった。
こういうホテルは確か一人では出れないはずだ。
ふと、時計を見るともう夜中もとうに過ぎていた。
慌てて帰る支度をする。
おかしい、と気付いたのはその帰り道。
後ろからぴったり後をつけてくるものがいる。
足音から相手はスニーカーだと稲垣は判断した。
足音が歩きから走りに変わる。
自分に二メーター辺りまで足音が近付いた時に稲垣は素早く振り返った。
こうみえても稲垣は大学に行くまでは柔道をかじっていた。
今でも、ずぶの素人相手ならおそらく負けない・・・が相手は刃物を持っていた。
暗闇でそれが光る。
とっさの判断で腕を犠牲することにした。
腹部に向かってきた刃は左腕へ吸い込まれた。
しかし稲垣は相手の手を掴むとひねりあげた。
刺してきた男は稲垣の少し年下だろうか。
陰険な顔をしている。
稲垣は怪我を負いつつも右手で犯人を押さえつけ、左手で携帯を出し110番に通報した。
病院で急所を庇った左腕の袖を看護婦がめくりあげた。
「三針ってとこね。通り魔に合って、これですんだんだからよかったじゃない」
と、若い看護婦は慰めてくれた。
治療が終わり、痛み止を貰っていると背後から
「稲垣さんですか?」
と、中年の男性と若くて色の黒い男が立っていた。
「警察の方でしょうか」
「はい、お時間よろしければ署までご同行お願いしたいのですが」
「・・・はい、分かりました」
本当は左腕がずきずきうずいていたし熱でふらふらしていた。
早く帰りたかったがこれも市民の義務だろう。
取調室で刑事は尋ねた。
「さっきの男に見覚えはありましたか?」
稲垣は首を横に振る。
これではどちらが被害者か分からない。
「あなたは本当に運がよかった」刑事は目を閉じる。
「先ほどから話の真意が分からないのですが」
「・・・さっきの男には殺人の容疑がかかっています。ここからそう遠くないマンション街で一人暮らしの女性の家に大量の血液が残されているのを被害者の同僚が見つけました。あの出血量ではまず生きてはいないでしょう。その時に現場にあった刃物に前科のあるあの男の指紋が付着していました」一呼吸置く。
「橘舞花という女性に覚えは?」
と、聞いた。
「知りませんね。なぜそんなことを?」
「その事件の被害者の名前です。偶然、稲垣さんを狙っただけかもしれませんがもし共通点があればと思いましてね。もし、なにか気付くことがあれば連絡ください」名刺を稲垣に渡すとその刑事は取調室から出ていった。
結局また違う刑事に事情聴取を受け、被害届を出すと家に着いたのはまたかなり遅い時間だった。
隠していても自分が不在の時に警察から連絡が入り美智を混乱させてしまうかもしれないと、事件のことを話した。
美智は驚いていたが、本当にその腕の傷だけでよかったと今にも泣きそうになっていた。
明日はこれで会社を休む大義名分もできたし美智と外出でもしよう。
熱はすでに慢性的なものへとなってしまい大して苦にはならなかった。
次の日、起きると美智は粥を炊いていた。
まだ本調子じゃないんだから、と。「久しぶりに映画でも見に行く?」
稲垣が言うと
「外出なんかして大丈夫?」
と、心配そうに言う。
「問題ないよ」
稲垣は美智に笑いかけた。
映画館へ行く前に若者に人気のあるカフェを通る。
その前によく知った顔がふたつあった。
ひとつは天羽、午前にこんな場所にいるのは仕事が終わって用事でもあったんだろうか?
そしてもうひとつは愛海。
愛海はなぜか険しい顔をして何かを言っている。
いつもはまとめてある髪の毛をほどいていた天羽はため息をつきながら毛先をもてあそんでいる。
なぜ、二人がこんな時間に一緒に?
もしや天羽も愛海と・・・?
嫉妬心が巻き起こり二人を遠巻きに見つめる。
なぜよりによって天羽なんだ?
なぜよりによって僕の親友と?
稲垣の心はフワフワして現実味がなくなっていた。
少し先に歩いていた美智が立ち止まっている稲垣を振り返る。
とたん
「避けて!!」
と、上空を凝視しながら叫んだ。
はっ、と上を見上げるが状況が理解できなかった。
自分に向かって大きい何かが落ちてくる。
足は根を張ったように動かずそれを見つめる。
しかし、発熱でふらついていたのが幸いした。
数歩、後ずさるとそのまま尻餅を着く。
落下物はもう目の前だ。
目をきつく閉じる。
大きな水風船が破裂したような音がした。
恐る恐る目を開ける。
原型は留めてないがどう見ても人間・・・の成れの果てがそこにあった。
美智はその場で立ち尽くしている。
天羽と愛海の姿は幻だったようにもうなかった。おかしい。
はじめは発熱。通り魔に合い、次は投身自殺?
何かがおかしい。
僕は確かめないといけない。
全ての発端は愛海に出会い黒百合をもらった時から始まったのだ。
まずは美智に一人でなんとか帰るように言う。
携帯電話を取り出し、天羽にかける。
「どうした?もう寝るとこなんだけど」
そう聞くと怒りが込み上げた。
それは愛海とか?なんとか言葉を飲み込む。
「天羽、お前は僕に隠してることがあるだろう」
「愛海ちゃんのことか?」
「知っていてなぜいってくれないんだ!彼女と出会ってからなにかがおかしい・・・彼女は何ものなんだ?」
「俺だって何も知らないよ。それにお客同士のことはプライバシーに関わる。言いたくても言えなかったけど」
少し、考えるような間があった
「彼女、俺の店でだけで知ってるだけで三人と関係があるみたいだ。共通点もない男達ばかりだよ」
それだけでも稲垣はショックを受けた。
あの笑顔は自分の為だけではなかったのか。
「なぜか、今日シャベルを持って街の端の・・・ガキの頃小さな樹海、って言ってたとこあるだろ。あそこに来てくれと言われたよ。他の男にも言ってたみたいだけど、意味が分からないって断られてたな」
「愛海はどこに?」
「まだ映画館の近くのカフェじゃないかな」
それを聞き終わると電話を切った。
愛海を探しに雑踏を駆ける。
駅前の噴水でその姿を見つけた。
赤いワンピース、噴水の柵にもたれながら髪を揺らせていた。
「愛海」
「あなたはあたしのよりしろになれない」
愛海は意味の分からないことを言う。
「もう帰らなきゃいけないの。もう会えない」
「今日中にしなくちゃいけないことがあるんじゃないのか?」
「なぜ分かるの?」
「そんな気がするから」
愛海はしばらく黙っていた。
「シャベルを買って。あたしに着いてきて」
小さな樹海に着き目的地まで着いたのはもう夜だった。
それほどまでにいりくんだ道を進んだ。
途中で雨が降ってきて月明かりもなく何も見えないのに愛海はすたすた竹藪を進んでいく。嫌な予感が稲垣の中に渦巻いていた。
しかし考えないようにする。
やがて二人は大きな木の根本に出た。
「着いたわ」
それだけ言うと愛海は黙りこむ。
きっと愛海の言う通り、自分達に残された時間は後僅かなのだろう。
だから稲垣は言った。
「愛海、君を愛している」
愛海はしばらく稲垣を見つめていたが、やがて憎怨のこもった目できっ、と睨んだ。
「愛なんてただの詭弁じゃないの!今更そんなこと言われたってあたしは救われないわ!」
ジャンパーに雨が染み込んでいく。
「一緒になれるとは思っていない。だけど一緒にいることはできると思うんだ」
必死になって言葉を繋ぐ稲垣に愛海がとうとう口にした。
「あたしのワンピースが血に濡れて赤いのに気付いてた?あたしは半年も前に死んでるのよ!」
暗くて見えない、がもしかして愛海は泣いていたのかもしれない。
だから稲垣も言った。
「気付かなかったと思ってるのか!!」
珍しく語調を荒げた稲垣に愛海は驚いた様子だ。
「いつも君は過去形で自分のことを話していた。もしかしたら昨日、合った通り魔は・・・君を殺害した人物じゃないか?死んだはずの君といるのを見て、錯乱して僕を襲ったんじゃ・・・君の本当の名前は橘舞花じゃないか?」「・・・多分そうかもしれない。よく、気付いたわね」
「いや、勝手にそう思っただけだ。そう言うのも三ヶ月くらい前だったか。新聞で君が殺害されたニュース、と言っても遺体は見つかってないから行方不明扱いだったけど。その顔写真を何気なく見ていたのをなんとなく覚えてたんだ。印象は違えども君だった。僕は、気付かない振りをしていただけなんだ。結果、君を苦しめてしまったかもしれない。本当にすまない・・・」愛海は首を左右に降った。
「あたしが悪いのよ。だけどお願いがあるわ。このままじゃあたし苦しくて痛くてどこにも行けなくなるの。今日がその期日なのよ。だから」
「君の遺体を弔えばいいんだろ。その為に僕はここにいる」
愛海はうなずく。
稲垣は持ってきたシャベルを地面に突き立てる。
何時間経ったろう?
降り続ける雨に体が冷えて稲垣は始終震えていた。
愛海の声が聞こえた。
「それくらいでいいわ」
稲垣は穴からでると木の根本に近付いた。
暗くて見えないが赤いワンピースを着た何かが見える。
稲垣は大切に遺体を抱き上げた。
月日が経っているせいか軽い。
穴の中に丁寧に収める。
「埋めてちょうだい」
稲垣はまた穴の外に出て穴の回りの土をかけ始めた。
全ては終わった。
暗いせいでなく愛海の姿が見えない。
もうあの世に還ると言うのだろうか?
「もう、会えないのかな?」
上空に向かって稲垣は問うた。
「この後のことは体感したことがないから分からない」
愛海のか細い声。
「生まれ変われたり、しないのかい」
「いくつ年が離れると思ってるの?」
少し笑う。
「そうね、だけどもしそういうことがあったらまた会おうね」
「ああ、また会おう」
「・・・黒百合を捨てて」
それきり声は聞こえなくなった。
涙が出そうだったがもしかしたら愛海はまだ近くにいるかもしれないから。それよりどちらから来たのだろう?
全く方向感覚が掴めなかった。
とりあえず真っ直ぐ歩く。
すると地面が消えた。
不愉快な浮遊感。
崖から落ちた、ということを理解する前に稲垣は意識を失った。
目を覚ますと病室にいた。
身体中が痛い。
目線を上げると美智、天羽がいた。
「どうしてあんなところにいたの?大怪我して・・・痛む?」
稲垣は頷く。
激痛で声が出なかった。
「稲垣、あんまり美智さんに心配かけるなよ」
天羽もそう言いながらも安心した顔をした。
「忘れ形見にならなくてよかったわ」
美智が言う。
「?」
「赤ちゃん、出来たらしいよ。よかったな、稲垣」
天羽も美智も笑う。本来の幸せの形がそこにあった。
不思議なのは誰も愛海・・・舞花のことを覚えてなかったこと。
天に還った彼女は人智の及ばぬ存在になってしまったのだろうか?
しかしなぜ自分だけが・・・?
そんなとき、見舞いに来た美智が言った。
「黒百合の花言葉は呪い、ですって」
確かにあれから災難が続いた。
死者は生者と関わるとき、呪いを媒介にするという。
つまり稲垣に呪いをかけ、それを影のようにして舞花は存在していたのだ。
「捨てようか?」
そう言う美智に
「いや、いいんだ」
稲垣は静かに言う。
「あ、他にもあるんですって。花言葉」
「うん?」
「恋なんだって」
呪いと恋、相反するその感情。
舞花はどちらの意味を稲垣に持っていただろう?
それから数ヶ月が過ぎ、天羽が病室にに入ってきた。
「赤ちゃん、生まれたそうだよ。様子を見て落ち着いたら美智さんとまたこっちに来るよ」
天羽は慌てて病室を出ていった。
子供か・・・。可愛くないとは言わないが情愛の対象ではなかった。
窓際を見つめる。
目を閉じれば今でも舞花の愛らしい顔がはっきりと浮かぶのだから・・・。
それから数日して天羽と美智が病室に来た。
何故か美智は気恥ずかしそうにしている。
「どっちに似てると思う?」
美智が赤ん坊を稲垣に差し出した。
「生まれたばかりでまだ分からないけど美智さんに似るんじゃないかな、女の子だし」
目を赤ん坊に向ける。
思わず息を飲んだ。
間違うはずはない。
これは舞花だ。
止めどなく涙が溢れた。
舞花は赤ん坊らしかぬ大人っぽい笑い方をした。
“また、会えたね”
そう聞こえた気がした。
我が子を前に感涙する稲垣を天羽と美智が微笑ましく見ている。
稲垣はもう右手一本しか残っていない腕を広げた。
「抱かせてくれるかい?」
今、呪いは恋になった。