忌まわしき伝説
ブラドル王子が気持ちよく酔い潰れてしまったのを機に、晩餐会はお開きになった。
随行の近衛騎士と従者が王子を迎賓室へと運び、同時に、シュナーベルも就寝のために寝室へと退室して行く...ヨルムドとエルナドはその場に留まってエールを飲んでいたが、エレネーゼと会話をしているブラストを呼びつけるような不躾な真似はしなかった。食事の間、ブラストは一滴の酒も口にせず、エレネーゼの言葉に耳を傾けていたし、今も希望に添うかたちで広間を出て行くところだったからだ。
「姫君はブラストに夢中だな...」
二人の姿が見えなくなった後、エルナドはヨルムドに向かって言った。
「ルポワドの公爵家との縁談が反故になったと聞いたが、真実は如何ばかりなのだろう...」
「詳しいことは聞いていません。そもそも婚約はメルトワ王家からの希望だったとのこと...ルポワド訪問の際、ブラドル殿下がアーレス殿を気に入り、エレネーゼ様のお相手にと望んだそうです。」
「...そうでありながら、破談に?」
「はい、クロウディア様が兄であるマルセル王に親書を送り、丁寧に詫びを入れて解消に至ったと。」
「王家間の縁を大無しにしてまで、隠したかった事実がある...という事か?」
「ユリウス王と弟君の確執、さらには、真の王位継承権をお持ちであられた兄君の死は、メルトワ王家にとって門外不出の秘事に違いない様です。」
「末の姫君が奔放でさえあらねば、ウィザード侯の悪事に利用させられはしなかったはず...今頃は公爵家の貴婦人となれられていたであろうに...」
「まことに。」
「パルティアーノ公爵のご子息、アーレス殿は品格と知性を兼ね備えた好青年だった...メルトワ王家にとって申し分のない相手だったと思う。」
父上の言う通りだ...とヨルムドは思った。バルド帝国遠征における“マリアナ奪還作戦“の際、王太子に付き従っていたアーレス・パルティアーノの事はよく憶えている。温厚なるも勇猛果敢。王太子の護衛をそつなくこなす優秀な騎士だった。
「彼は気品のある誠実な人よ。」
…マリアナ様もそう仰っていた。破天荒な王太子より、ずっと国王に相応しい人格だと..,
懐かしさに目を細めた。
心優しいマリアナ...ルポワドの王太子妃として、お心を痛めたに違いない...
「それにしても、シュナーベルの件といい、ユリウス陛下の姫君への甘さは真実だな。」
「...甘さ?」
「でなければ、末の姫君のボルドー行きなど容認しまい?」
「まあ、確かに..」
「お前も親になれば理解できよう。国王とて人の子、男であれ女であれ、我が子は愛しいものなのだ。」
…父上も多分に漏れず...ということか?
ヨルムドは昼間のキロプスの言葉を思い出した。自分も父親となれば、予言通りになってしまうのだろうか?
「ともかく、ブラストがこの問題にどう応えるか、静かに見守ろう。」
エルナドは言い、手に持っていたグラスのエールを飲み干した。
「そうですね。」
ヨルムドも答え、薄く口角を上げた。
松明の灯に照らされた庭の小道を、ブラストとエレネーゼは並んで歩いた。
静寂に包まれた庭園...他人の目を気にする必要のない王女は、遠慮なく騎士に寄り添かかり、頭を腕に乗せている。
「今夜は宿泊して欲しいとのことだ。」
その招きに、今夜は素直に従うことにした。シュナーベルの心遣いを無下にはできないし、断ればエレネーゼの泣き脅しに見舞われるのは必至だったからだ。
「今夜はずっと一緒にいてね。」
エレネーゼは当然のように言った。
「とても眠れそうにないの...ふわふわして、背中に翼があるみたい。」
「旅の疲れはないのですか?」
「全然。」
「どこか痛む箇所は?」
「それは少しあるけれど...恥ずかしいから言わない。」
その部位に手を触れながら、エレネーゼは顎を上げた。
「なるほど...」
追求せずに納得して見せる...どうやら馬車の座り心地が悪かったようだ。
「まあ、可愛い椅子」
道の途中でベンチを見つけると、エレネーゼはブラストの手を引っ張った。
否応なく並んで座らされ、さらに密着度が増す...顔を上げた王女がうっとりと見つめ、魅惑的な薔薇色の唇が今にも触れそうだった。
「姫君...」
「なあに」
「あなたは私を買い被っておられます。」
「え?」
「これ以上は危険です。」
「...危険?」
「私の自制が効くうちに、離れるべきです。」
「ブラスト?」
「悪い噂を払拭するために、たくさんの努力をなさったのでしょう?軽率な行動は控えるべきです。」
「軽率...」
「もう少し散歩をしたらお戻り下さい。部屋までお送りします。」
ブラストが顔を背けて立ちあがろうとすると、エレネーゼがそれを防いだ。袖を掴み、目に涙を浮かべる。
「ブラストは...私のことが嫌いなの?」
「姫君...」
「私はあなたが好き...この気持ちを伝えるために、一生懸命手紙を書いたのよ....」
「存じています。」
「でも、あなたは何も答えてくれなかった...とても悲しかったわ。」
「申し訳ありません。」
「謝らないで...」
エレネーゼは鼻をすすった。
「私の欲しいのは謝罪の言葉なんかじゃない...あなたの答えよ!」
「落ち着いて下さい...」
「一緒にいられるのは少しの間だけなのよ...それなのに...」
身体を震わせて訴えるエレネーゼの姿に、ブラストは抑えの限界を感じた。こんなにも慕われ、求められているというのに、なぜ突き放さねばならないのだろう。
…心を偽るのは、もうたくさんだ。
「嫌いなわけがありません。」
ブラストは告げた。
「あなたが尊い方であるがゆえ、私も軽率な行動を控えねばならない...そのお気持ちを受け入れることができないのです。」
「私が王女だから?」
「はい。」
「...だったら、王女なんて辞める...何もかも捨てて、あなたの妻になる!」
「姫君…」
「これで問題は解消よ...そうでしょう?」
エレネーゼの一途な想いが嬉しかった。
愛しくて堪らない。自分のために、地位を捨てると言う...
「光栄です、姫君。」
両腕で抱き寄せながら、ブラストは言った。
「退位する必要などありません。あなたが望み、欲するのであれば、私が一歩進めばいい...それだけのことです。」
「...?」
エレネーゼが顔を上げると、すぐそばにブラストの眼差しがあった。いつものブラストとは違う、真剣な表情だった。
「これから、私の身の上についてお話しします。オーガナイトの名の由来...古よりの伝承です。聞いて頂けますか?」
問いかけに、エレネーゼは頷いた。
求めるように瞼を閉じると唇が重なる...
生まれて初めての口づけだった。
古──
夜が明ける…
地平を見渡しながら、ローゼは察した。
暗闇が続く世界の終わり
新たなる光の支配が始まるのだと...
オーガとともに世界を創り、生命を育んだ。
.虚空なるままに蠢く形なき影が実体と成ったとき「愛」という感情が芽生えた。
光の雫に過ぎなかった我が身に、影は生きる喜びを与えてくれた...
大いなる力の前に我が身の存在は無に等しい...されど、この姿が消えゆく前に、全てをオーガに託したい。
「城を築こう。」
ローゼに告げられ、オーガは聞きなれぬ言葉に首を傾げた。
「城とはなんだ?」
「エーガとマージに必要なものだ...見れば解る。」
ローゼは微笑むと、両腕を大きく広げた。全身の光が増幅し、大きな柱となって天高く立ち昇る...帯の枝が四方へと延びて周囲に及び、夜空に揺らめく光の波とつながって、煌めきながら地上へと降り注いだ。
「おお...」
オーガは目を眇めた。その光は今まで見たどの光よりも眩しく美しかった。小さな雫が宙を舞い、一部がオーガの体に吸い込まれる…それはローゼの愛撫のような心地よさだった。
「とうさま...」
いつの間にか、幼な子が足に掴まっていた。不思議そうにローゼと光の帯を見つめている。
「なにかみえてきた。」
エーガが先を指差した。
「おおきい...」
エーガと反対の足に掴まっているマージを見ると、ローゼの光に同調し、眩しい光を放っていた。マージはローゼを幼くしたような姿で、そっくりな瞳で現れたものを見上げている...
「これで良いか...」
ローゼが告げると、輝きの中から巨大な建造物が現れた。切り立った山麓を背に、透き通る鉱石で造られたそれは、とても荘厳で美しいものだった。
「これが城というものか?」
オーガは仰ぎ見ながら尋ねた。
「こんなものは見たことがない。」
「そうであろうとも...」
ローゼは穏やかに微笑んだ。
「この城は、これから私たちが暮らす場所だ...さあ、中に入ってごらん。」
マージを抱き上げたローゼは、入口の扉を開いて内部に足を踏み入れた。オーガもエーガの手を引いて後に続く。
「わあ...」
エーガが声を上げた。
見たこともない銀色の床と壁──
頭上には円錐形の「天井」があり、無数の星々が煌めいていた。外ではないというのに、外界と同じ光に満ちている...
「かあさま、あれはなに?」
マージがひとつの扉を指差し尋ねた。
大広間には三つの扉があったが、左の扉にはマージの好きな星々と生き物たちのレリーフが描かれていて、それはそれは魅力的なのだった。
「あれはマージの扉だ。「雫の間」の入り口ぞ...」
ローゼは告げると、マージを扉の前まで連れて行った。自然に扉が開き、中が見える。マージは母から離れた。部屋へと入って行き、中で歓声を上げた。
「こっちの扉も開いたぞ。」
オーガの声とともに、もうひとつの扉の先をエーガが覗き込むのが見えた。
「そちらは「命の間」エーガの扉ぞ。」
オーガが見守る中、エーガも扉の内に足を踏み入れる。
「かあさまの光だ...」
エーガが声を上げた。
オーガが覗くと、光のゆりかごに包まれたエーガが、はしゃぎながら微笑んでいた。
「...オーガの扉はここぞ....」
ローゼはオーガに歩み寄り、腕をとって中央の大扉へと誘った。
二人が近づくと、重厚な扉がゆっくりと開かれる...
「この奥は「創造の間」に続いている。」
「創造の間?」
「そう、私たちだけの部屋だ。」
広い廊下は暗かったが、ローゼの輝きによって明るく照らされていた。まるで山々の尾根にいるかの様な光景...星屑が間近に見え、流星が目前をかすめて飛んで行く...
「不思議な場所だな。」
オーガは首を巡らせた。
「ここは大地のはずなのに...」
「廊下は天空につながっている...山々の尾根より高い場所、星々の集う宙に。」
「...宙?」
ローゼは頷き、最奥まで歩みを進めると、光のヴェールに手を触れた。
目前に広がる幻想的な光景...円を描いた室内は、大きなアーチの窓に囲まれており、紡錘状の天井が、天に向かって延びていた。
「ここにお座り。」
中央にあるふわふわとした物体の上に、ローゼはオーガを座らせた。不思議な感触で、光の加護とは別のものだった。
「今日よりここが我らの寝所だ...心地良かろう?」
オーガが腰を下ろすと同時に、ローゼが頑強な体躯を押し倒した。仰向けになった上に覆い被さり、身体を重ねる...
「ローゼ.,,」
オーガはローゼの瞳を見つめた。麗しい眼差しが悩ましい...その誘惑に、オーガは抗う術を知らなかった。
「愛しい者よ...」
ローゼの指先が背を滑り「影」の名残りに優しく触れる...
「我らは悠久の時を経て、この世界を創造し、生命を生み、育んできたな...」
「うむ、エーガとマージもだ...」
「あの子らは他の生き物とは違う...」
「...違う?」
「私とそなたの愛なしに、二人が世に生まれ出ることはなかった。エーガとマージは我らの愛の証...“希望の光”だ。」
「希望の光..」
「この城は、そなたとあの子たちのために築いた。光の加護──その力を未来永劫、宿し続ける依代として。」
「よりしろ?」
オーガはローゼの瞳を覗いた。憂いを帯びた眼差しに、胸騒ぎを覚える...
「オーガ、世界の創造者、全生命を統べる者よ。この城の名はサンザス...王が鎮座すべき聖なる城だ。」
「サンザス?」
「よくお聞き。永く夜が続いたが、ついに夜明けを迎える時が来たようだ。まもなく我が身の母体である光が地上に降り注ぐ…絶対的な力の支配が始まるのだ。」
「どういう意味だ?」
オーガは不安を覚え、上体を起こして問いかけた。
「私に理解できるように説明してくれ。」
ローゼは口を結んだまま、寂しげに微笑んだ。
来るべき日はまだ少し先...まだやり残したことがある。
「世界の夜が明けるとき、サンザスの王、オーガナイトが誕生するという意味だ…」
現───
「サンザス?」
エレネーゼは問いかけた。
「ブラストはボルドーの生まれではなかったの?」
「表向きはボルドー人です。12歳になったのを機に、騎士修行と医学を学ぶため、この国に帰属しました。」
「じゃあ、オーガナイトの名はサンザスが由来なのね?」
「そうです。とても古い名で、代々その名を子孫が継承してきました。」
「お父様とお母様もそちらに?」
「ええ、両親ともに健在です。」
「家柄は貴族なの?」
「まあ、そうだと言えますね...」
ブラストが明言を避けたので、エレネーゼは不思議に思った。
サンザスという国名を耳にしたのも初めてだったし、その国の貴族がメルトワに訪れたという記憶もなかったからだ。
「あなたは言ったわ…私達の結婚について方法があると。どうすればいいの?」
「一度サンザスに戻り、禊ぎを行う必要があります…それを終えれば、正式に結婚の申し入れが可能になります。」
「そのために、サンザスに帰るの?」
「必要なことですので...」
ブラストの言葉を聞き、エレネーゼは不安に陥った。ボルドーならいざ知らず、さらに遠い地にブラストが行ってしまう...
「...その前に、打ち明けねばならない事実もあります。」
「...事実?」
「とても大切な話です。」
ブラストは告げると、上着の袖の釦を外した。そのまま袖を肘まで引き上げる...皮膚の痣が見え、手首から肘へとうっすら黒い模様が広がっていた。
「驚かせてしまった様ですね...」
エレネーゼの表情を見て、ブラストは言った。
「これが私の正体です。肩にも同じものがあります。オーガナイトの継承者にのみ現れる証です。」
「...証?」
エレネーゼはブラストを見つめた。
「ねえ、ブラスト...オーガナイトって何?「怪物騎士」の姓に深い意味があるの?」
疑問はもっともだと思う。醜い痣まで見せられて、忌み嫌わない筈がない...
「古の伝承にはこうあります。かつてサンザスの王は全ての生命の長であった。しかし、愚かにも自らの手で世界を滅ぼそうとした…全能の支配者に抗い、忌まわしき影の力を解放した...」
「忌まわしい力?」
「オーガナイトは「影の力」を受け継ぐ「王」の末裔..,私は、その「継承者」なのです。」
「王の末裔?」
エレネーゼの頭は混乱していた。
呆然と、ブラストを見つめるしかなかった。
つづく