姫君からの手紙
夕闇がせまる...
ブラストが今日最後の患者の記録を書き終えたところで、ヴァイデが燭台を持って歩み寄ってきた。
周囲が明るく照らされる...窓の外はすでに幻想的な空色に彩られていた。
「まるで宝石のようだね...」
ヴァイデが言った。
「本当に美しい。」
ブラストも、顔を上げて窓越しに視線を移す...
「...なるほど」
紫水晶の夕闇に、沢山の星が煌めいていた。宝石と表現するに相応しい光景だ。
「行こうか。」
ブラストは治療の記録を手にして立ち上がり、ヴァイデとともに診療室を後にした。患者で溢れていた廊下も今は誰の姿もなく、闇と静寂に包まれている。
隣室を覗くと、パルシャとアイリが並んで退室するところだった。
「そちらも終わりか?」
ブラスト達に気づくと、パルシャが尋ねた。
「ようやくね。」
「今日は患者が多かった...数は圧倒的に君のほうが上だが、俺も相当数、貰い受けたぞ。」
「貰われた者は戦々恐々だったけどね。」
「戦々恐々とはなんだ...口を慎め。」
ヴァイデの揶揄に、パルシャは眉を寄せつつ文句を言った。アイリが隣で瞼を瞬かせている...ボルドー語の会話が理解できず、喧嘩かと危惧しているようだった。
「いつもすまない…感謝しているよ...奥方にも。」
ブラストはルポワド語で伝えた。パルシャもヴァイデもルポワド語を理解しているので、そこは問題ない。
「お役に立てて光栄です、オーガナイト先生」
アイリはたどたどしいボルドー語で答え、微笑んだ。
愛らしさに、パルシャが思わず表情を綻ばせる...華奢な肩を抱き寄せると、寄り添いながら歩き出した。
研究棟の一室に入ると、騎士達が揃っていた。
エルナドもおり、キロプスと意見を交わしている。シムトがそれを聴きながら、筆記をしている最中だった。
「アイリ...」
アイリの姿を見ると、シュナーベルに笑顔が浮かんだ。
ヨルムドが一緒とはいえ同性はアイリのみで、やはり友人がいるのは嬉しい様子だった。
「二人で話して来るといい。」
ヨルムドに促されたので、シュナーベルは頷き、離席してアイリのそばに歩み寄った。
「お疲れ様、今日も大忙しだったわね。」
「シュナーベル様…」
アイリも嬉しそうに微笑み、二人は騎士達から少し離れた場所で並んで座った。
「“様“だなんて…シュノーと呼んでちょうだい。私たちはもう親族なのだから…」
「…すみません。まだいろいろ慣れてなくて…」
「解るわ…」
シュナーベルは頷いた。ゴドーの妹という理由でマティスの森の掃討作戦に参戦したアイリ…まさか、異国の騎士と恋に堕ち、そのままボルドーに嫁ぐなど夢にも思っていなかったに違いない。
「困ったことがあれば言ってね…幼い頃、ゴドーには随分、助けて貰ったの。だから遠慮しなくてもいいのよ。」
「…シュノー」
アイリは瞳を潤ませた。シュナーベルがそっと手を握ると、アイリも握り返す…
「あの…ご懐妊されたとお聞きしました。おめでとうございます。」
「ありがとう…私もさっき知ったばかりで、実感がないけれど…」
「オーガナイト先生の触診は的確だと、パルシャはいつも褒めているのです…新しい命が宿っているなんて…本当に素敵。」
…近い未来、きっとあなたにもその日が訪れるわ。
シュナーベルは声を出さずに呟いた。
なにしろパルシャも、それを望んでいるのだから。
パルシャとヴァイデが席に付き、ブラストがヨルムドと対面する形で席に着く…オルデラも作業の手を止め、シムトが最後に扉の前に立った。
「皆、ご苦労であった。任務はここまでとしよう。」
その言葉に、皆が表情をほころばせた。早朝からの感情抑制から解放され、ようやく場の空気が和む。
「診療室は今日も多忙であったようだが、問題はなかったか?」
「はい、私のほうは軽傷者の治療ばかりでした。病を患っている者のほうが多く、大分引き受けましたが、ブラストは私の倍の人数を診たはずです。」
パルシャが報告すると、エルナドは頷きつつ、ブラストに視線を移した。いつもの事ながら、ブラストは穏やかな表情であり、疲労は感じられなかった。
「シュナーベルの診断もしてくれたそうだな…礼を言うぞ。」
ブラストはわずかに目を見開いた。
「礼を申されるなど…当然のことです。」
「告げられたのはつい今しがただが、嬉しい報告だった…陛下にはこれから申し上げるが、きっとお喜びになるだろう。」
小さく頷くヨルムドに、皆が口角を上げた。シュナーベルと話していたアイリも、こちらに目を向けている。
「祖父になられるのですね、先生。」
オルデラが悪戯っぽく言った。
「“おじいさま“とは、しっくりきませんが…」
「それなりの歳だ…祖父にもなろう。」
「そうですね、私にはヨルムドが親になる方がしっくりこない…」
キロプスが笑いながら首を傾げる…
「『月光の騎士』が子供に甘々の父になるのは…」
「…甘々?」
ヨルムドが反問する。
「もう十分過ぎるほど妻に甘々だからな。」
パルシャが口を曲げて断言すると
「君もだよ、パルシャ…」
と、ヴァイデがすかさず横やりを入れるのだった。
…妻?
皆の笑い声を聞きながら、ブラストはふと、エレネーゼのことを考えた。自室にある姫ぎみからの手紙……果たして、どんな内容なのだろう。
「ここへ来て、仲間が次々に既婚者になる...この次は誰だ?」
オルデラの発言に、キロプスとヴァイデがちらとブラストを垣間見た。シムトもさりげなく視線を送り...パルシャは物憂げに天井を見上げている。
「...私を見たのか?」
ブラストは言った。
「ありえないことだ。」
否定したものの、それには誰も反応を示さなかった。何しろメルトワに滞在していた間、ブラストはエレネーゼ王女と終始一緒にいたし、王も王子も、それを一切阻止しようとはしなかったからだ。
…姫君の婚約を反故にした経緯もある。
ヨルムドはシュナーベルを見やった。シュナーベルもこちらを見ており、心配そうな表情を浮かべていた。
…私の場合、結婚は半ば殿下によって仕組まれたものだった。だがブラストとエレナの場合は違う。
エレネーゼの気持ちは誰が見ても明らかだった。身分も立場も気にせず、露骨に愛の所在を表していた。
…対して、ブラストは?
“誠実”を絵に描いたような騎士…であればこそ、その胸中は複雑に違いない。
ひとしきりの談笑の後、騎士たちはそれぞれの帰途に着いた。
ヨルムドとシュナーベルはごく近い場所にある屋敷へ、そしてパルシャとアイリはロッドバルトの屋敷へと帰って行った。
学徒であるシムトは学舎住まいだが、既婚者ではないキロプス、オルデラ、ヴァイデ、そしてブラストは、城内にある各々の自室に向かった。
ブラストの自室の前に、従者のカルシュが立っている…
カルシュはシムトよりも若い騎士の見習いであり、高地の都サンザス出身の少年だ。
「おかえりなさいませ、サー」
カルシュはきちんと背を伸ばしつつ言った。
「ご苦労だね、カルシュ。」
ブラストは少年に向かって言った。
「ファルガノを用意して貰えるかい?」
「はすぐにご用意します。」
カルシュは答えると、扉を開けてブラストを通してから後に続いた。隊服を脱ぎ、平服に袖を通す間、カルシュネが教えられた配合を混ぜ、慎重にグラスへと注ぐ…
「ありがとう。」
ブラストの優しい言葉に、カルシュが恐縮して片膝を床につけた。
「光栄です、殿下」
「殿下ではないよ。」
「...ですが、私にとっては殿下です。」
「君の立場はわかる...でも、ここでの呼称は『サー』だ。」
「は...仰せのままに。」
従順な少年の姿勢に思わず笑顔を浮かべた。故郷を離れて間もない若人...見守ってやらねばならない存在だ。
幾つかの用事を命じた後、カルシュには下がって休むよう命じた。その際、勉学のための教材と“課題”を与える事も忘れずに。
「...さて」
一人になったブラストは、燭台の置かれた机に向かい、引き出しからエレネーゼの手紙を取り出した。封蝋を剥がし、巻かれた羊皮紙を開くと良い香りが広がる...
「姫君...」
エレネーゼの存在を身近に感じた。思わず目を細め、すぐに文字を読み始めた。
親愛なるブラスト
別れてから半年が過ぎたわ。
貴方と会えない月日
私にとっては長い半年よ。
時がこの切なさを消し去ってくれたらと
願ったりしたけれど、日に日に想いは募るばかり…
手紙を書いている今も、とても胸が苦しいわ。(本当よ)
マティスの森が憎らしい。
あの森が無ければ、あなたにもっと近づけるのに。
ブラスト、あなたに会いたい。
もし背中に翼があったら、今すぐ大空を飛んで行くわ。
そうしたら、いつでも会えるでしょう?
それとも、病気になれば、駆けつけてくださる?
初めて出会ったあの日のように、瞼を開くとあなたがいる...そんな日を夢見ているの。
あなたも同じ気持ちでありますように...
私を「姫君」と呼ぶブラストへ
どうか、この手紙のお返事を書いてね。
それだけで、胸の痛みが少しだけ治るかもしれないから。
あなたを慕う王女
エレネーゼより
「病気になればなど...」
ブラストは眉を寄せた。
一瞬でもそんなことを考えてはならない。病は容赦なく人の命を奪ってしまうのだから。
「...大義なくば、メルトワへの越境も姫君への謁見も叶うまい...」
手紙を読み終えると、さらに複雑な心境に陥った。
エレネーゼの気持ちは痛いほど理解している。そしてどれほど難解な問題であるかも。
「貴女の夢が叶うことはありません...そう伝えるべきですか?」
ブラストは肩を落として呟いた。
「私は医師でありながら、貴女の胸の痛みすら治して差し上げられない。」
…いっそ忘れてしまうほうが良い。
国境も去ることながら、身分差が著しい。ヨルムドに舞い降りた幸運が、二度起きることはないのだ。
「...返事を書かないのは、あまりに不誠実だ。」
抑揚を抑えつつ、ブラストは白紙の羊皮紙とインクを用意した。
机上の羽ペンを握るも、脳裏に浮かぶエレネーゼの顔...愛らしい笑顔も、弾むような仕草も、その全てが愛おしかった。
「私は...どうしたらいいのだろう...」
現実的な答えはすでに出ている…しかし「そうではない」と否定する「声」がブラストの決意を鈍らせていた...
“お前は前を見るべきだ…”
ブラストは手を止め、顔を上げた。
開いた窓から、銀の光が降り注いていた。
───古
「ローゼ...」
その呼び声に、ローゼは微笑みを浮かべた。切り立った険しい崖をものともせず、鎧姿のオーガが歩いて来る。しっかりとした足取りで、腕に「子」を抱いているというのに、少しも姿勢を崩さず、呼吸を乱す様子もなかった。
「マージ..,」
ローゼが動く前に、膝に乗っていた「エーガ」が走り出す...思い切りオーガに抱きつくと、抱いて欲しいとせがんだ。
二人の子を両腕に抱くことになったオーガは、それでも、軽々と抱え上げながらローゼの傍まで歩み寄った。
「髪を引っ張るでない...」
ローゼが叱った。
「父の髪は玩具ではないぞ。」
マージとエーガはオーガの胸まで垂れ下がった髪を弄んでいた。光である母には無い感触が、よほど気にいっているらしい。
「これ、やめと言うに...」
ローゼは立ち上がり、子供達をオーガから引き剥がそうとした。
「私は構わぬ..」
オーガが白い歯を見せて笑う。
ローゼと違い、オーガと子供たちには『肉体』があり、疲労や痛覚があるのだ。
「大丈夫だ、ローゼ。」
父の胸でふざけ合っていた兄妹は、やがて飽きたのか、自ら地面に降りた。無邪気に追いかけっこを始めると、ローゼが崖から落ちないよう、光の輪で囲いを巡らせる。
「ひとときも目が離せぬ…光の庇護なしでは、「器」が幾つあっても足りぬだろう。」
「子供たちにとって、もはやこの場所は狭いのだ…眼下にある広い大地ならば、どんなに走ろうと落ちる心配はないが。」
「そうかも知れぬが、それでは光の庇護が薄れよう?」
その言葉に、オーガはローゼをじっと見つめた。
光を放つその姿は眩いばかりで、銀の瞳は慈しみに満ちている…
長い時をともにしてきたが、美しさは“不変“のものだった。
「光の庇護なくば、ローゼの身体にも障ろうか?」
「多少なりはな...だが、方法がないでもない。」
「方法?」
「マージとエーガは我が身の分身なれば、私の力をもう少し分け与える事ができる…かつてお前に与えた様に。」
「分け与えれば、この子らを守れるか?」
「過分にな…」
「私には何ができる?」
朴訥な質問に、ローゼは笑った。
「お前の存在こそ、我がこの世界に生きる意味だ。ずっと傍に居ておくれ。」
ローゼが両腕を伸ばすと、応じて、オーガがローゼを抱き締めた。
抱き合い求め合うように唇を合わせる…
喜びに、光がいっそう輝きを増した。
メルトワ王城
「…お兄様!」
いきなり回廊の柱の影から飛び出して来た人物に驚き、ブラドルは足を止めてたじろいだ。近衛の騎士達も身構え、一瞬、長剣に手をかける。すぐに王女だと判って警戒を解いたものの、その様子に、周囲も緊張したようだった。
「エレナ...急に飛び出しては危ない。」
ブラドルは注意したが、エレネーゼの顔を見て渋面になる。
「どうしたんだ...」
泣き腫らしたであろう目は真っ赤で、鼻まで紅くなっていた。普段のエレネーゼにあるまじき顔だ。
「あんまりよ...治療のことしか書いてくれないなんて...」
「...なに?」
「私が欲しいのはそんな言葉じゃない...」
「エレナ?」
「彼が来てくれないなら、私が行くわ。」
「いったい何を...」
「お兄様の騎士達を貸して下さい。ボルドーに行きます!」
「...なんだって⁉︎」
エレネーゼの宣言に、ブラドルは呆然となった。
「…少し待て!先ずは理由を話しなさい。相談に乗るのはそのあとだ。」
当該の人物がブラスト・オーガナイトであることは明白だった。
二人の間に、いったい何があったのだろう。
…面倒なことにならねば良いが。
つづく