【10】ちょっと待ってよ、汐入 〜前編〜
【シリーズ】「ちょっと待ってよ、汐入」として投稿しています。宜しければ他のエピソードもご覧頂けますと嬉しいです!
【シリーズ】ちょっと待ってよ、汐入
【1】猫と指輪 (2023年秋)
【2】事件は密室では起こらない (2023年冬)
【3】エピソードゼロ (2011年春)
【4】アオハル (2011年初夏)
【5】アオハル2 (2011年秋)
【6】ゴーストバスターズ? (2024年夏)
【7】贋作か?真作か? (2024年秋)
【8】非本格ミステリー!?(2024年冬)
【9】探偵になった理由
【10】ちょっと待ってよ、汐入 〜前編〜
【11】ちょっと待ってよ、汐入 〜後編〜
ちょっと待ってよ、汐入 第一章
「なぁ能見、別にいいだろ?減るもんじゃないんだし」
そういう事ではないんだよなぁ、汐入よ。
「まあ、確かに減るもんじゃないよね。だから別にいいとは思っているよ。でもさ」
「でも、なによ?」
「いつものことなんだけど、汐入はさ、人にものを頼む態度ではないんだよね・・・」
「は!なに言ってんの?ワタシと貴様の仲だろ!」
「いやいやいやいや、使い方、間違ってるぞ!それは気のおけない友人が改まって頼み事をしてきた時に、頼まれた側が言う台詞だぞ!例えばだな、映画のワンシーンで帝国海軍の熱い友情を通わせた者同士が交わす類の台詞だ。遠慮はいらん、俺と貴様の仲だろう、的な。わかるか?決してキレ気味に使う台詞ではないと思うぞ!」
「何で帝国海軍なのよ?時代錯誤も甚だしい。わかった。頼んでやる。困ってる。助けろ!教えろ!」
それもだいぶ違うけど、一応、頼んでいるという自覚は芽生えたようだね。
「あとさ、これもずいぶん前から思ってたんだけど。貴様、と言う呼び方はなんとかならないの?」
「えっ、今更?高貴の貴に敬称の様をつけて最大限に敬意をこめているのに!もう十数年そう呼んでいるぞ」
いつの時代の言葉だ。時代錯誤も甚だしいのは汐入の方だろ。思わずため息が出てしまう。
「そうだね。わかった。渋々だけど了解する」
僕、能見鷹士は個人事業主としてコンサルタントを生業としている。元は大手シンクタンクで働いていたが、ブラックな企業風土に嫌気がさし、三十路が見え始めた28歳で退職。一念発起し、中小企業に特化した地域密着のビジネスコンサルタントとして起業した。B級グルメ、クラフトビール、映えスポットやパワースポットの開拓、アニメとのコラボや聖地巡礼のツアー、プロモ動画、SNSの活用など、商店街復興、地域活性化の為にあらゆる企画を地域の人と一緒に伴走するのがモットーだ。
そして会話の相手は汐入悠希。本業は開店休業中の探偵だ。亡き父親の残した探偵事務所を継いでいる。探偵の仕事がない時、つまりはほとんどの時間は探偵事務所の下の階にある喫茶店「大森珈琲」でバイトをしている。
今、僕は仕事の休憩の為に立ち寄った喫茶店で汐入の淹れたコーヒーを飲みながら、カウンター越しに話をしている。汐入が失業者とならないよう、ささやかながら売り上げに貢献していると言うわけだ。これも地域密着を看板に掲げる僕のポリシーだ。
実を言うと汐入とは中学時代の同級生なのだが、当時はあまり親しくはなかった。女子剣道部にいたかな、ぐらいのうっすらした記憶しかない。高校は別だったが通学の電車が同じだったので話すようになり、それから親しくなった。
今は共に個人事業主ということもあり、たまに困り事を相談し合っている。今回もごく普通に頼まれれば(俺と貴様の仲だろう、と言うかどうかはさておき)快諾する間柄ではあるのだけれど。
「で?汐入はなんで会社の金勘定の知識が必要なの?」
「まぁ話せば長くなるけど、うちの爺さんがかつてYSK商事って会社の顧問弁護士でさ。メールもSNSも知らない堅物なんだが、せめて電話を寄越せばいいのに、この間、いきなり事務所に現れた。見た目、ほとんどマフィアのボスみたいだから一瞬、ビビったよ。黒のスーツにお揃いの生地であつらえた帽子だぞ。いつぞやの日本国の総理大臣みたいだな。92代目だったかな、名前は忘れたけど」
日本にマフィアはいないだろうし、汐入は総理大臣を数字で覚えてるの?とツッコミたくなったが話が横道に逸れそうなので聞き流すことにした。
「でね、その爺さんが、この間、YSK商事の会長さんに会ってな、と話し始めた。こっちは老人の長話に付き合うほど暇じゃないんだけど。(云々・・・長いので省略)」
僕だって暇ではないのだが、コーヒーをおかわりしながら汐入の長話に付き合ってやった。要約すると、何のことはない。かつて弁護士をしていた汐入の祖父に、YSK商事の会長から、社長の周囲のお金の流れが怪しげなので内偵調査をして欲しいと依頼があった。経理部に入り込み調査できないだろうか、と。
「断らなかったの?経理の知識もないのに?」
「ワタシもね、そう言ったよ。そしたらもう会長とはそれで話がついている、ワシの顔に泥を塗る気か、とかなんとか。ま、今はたまたま、スケジュール空いててさ。ホント、たまたまね。クライアントからの依頼もなかったし。うん。だから爺さんの顔とやらに免じて引き受けてあげた。ま、爺さんの頼みを無下にはできない事情もあるが」
やれやれ、相変わらず仕事がなくて懐事情が厳しいのだね。
「秘書ではなく経理なんだね」
「さすがに秘書は露骨過ぎるよ。勘ぐられる。まぁいい距離なんじゃないかな」
「そうかもね。よし、事情はわかった。で具体的に僕は何を教えれば?」
「怪しい金の流れって何だと思う?で、その証拠って何を押えればいいんだ?あと内偵期間中は経理部で働くから経理の実務の知識も必要だ」
なるほど。全部か。せめて経理の実務はYSK商事に迷惑がかからないレベルに仕上げてから送り出してやらないと証拠をつかむ前にお払い箱にされそうだ。
「基本的なことを聞くけど、汐入、数字は読めるの?」
「馬鹿にしてんの?無限にある数も漢字と違って0~9の十種類の組み合わせなんだから、読めないわけないだろ!」
「そーじゃなくて!会社のお金に関する数字の意味がわかるのかってこと!営業利益と純利益の違いとか、減価償却のしくみとか税金のこととか知ってるの?って聞いてるんだよ」
「ははは、冗談が通じないなぁ。もちろんわかるさ!」
嘘だ。マジに言ってたぞ。よくわかった。知識はゼロだ。あまり時間がない。初心者向きの参考書を見繕って、基礎は自習してもらおう。僕からのレクチャーは実務的な部分にフォーカスしよう。僕は専門家ではないが多少の心得はある。せめて専門用語だらけの会話についていける様にしてやらないと、即刻お払い箱だ。
「じゃあ後で初心者向きの参考書を何冊か探偵事務所に持っていくから知識はそれで叩き込んでくれ。実務はそれを補足する形で講義をしてやる。心して励めよ」
「いいか、設定は仕事のできるスーパーでグレートな経理部員だぞ。それを満たすようにしっかり講義を頼むぞ!」
なんで僕が追い込まれるんだろう?コンサル料、請求するぞ!
仕事の合間を見繕い何回かレクチャーに出向いた。基本的な知識を確認しつつ(一応、参考書は読んでいたようだ)実務を解説してやって、ある程度は周囲の話しがわかるレベルにはなっただろう。今日が最後のレクチャーになるので、不正について幾つかあり得そうなパターンを汐入に教える。
例えば不正に会社の資産を金に換えていたとする。その場合、帳簿上、資産はあるけど、現物はない。帳簿と現物の齟齬は根性で擦り合わせていけば必ずわかるが、それは帳簿と現物に齟齬があることを示しているだけであって、転売の証拠にはならない。現物を廃棄した際に経理的な書類の処理が漏れた、と言われればそれまでだ(あってはならないミスだが)。また例えば、取引先に水増し請求させて、水増し分をキックバックして貰っていたとする。そんな場合も会社のお金の収支は請求書と辻褄が合っていて、そこからはキックバックの事実にはたどり着けない。
「じゃあ、どーすんの?これまでの講義は無駄じゃん!」
「無駄とはなんだ!実務ができないと証拠を掴む前にクビになるぞ」
「むぅ!ワタシがクビになるとでも?証拠なんか直ぐ掴んでやるさ。何を押さえればいいか、早く教えろ」
「まあ、待て。今から言うから。実のところ、不正の証拠を押さえるのは結構難しい。銀行員が倍返しで反撃するような世界では金の流れを銀行口座から紐解いているけど、個人探偵ごときにそんなことはできない」
「だから、どーするのよ?ワタシは経理の仕事を手伝いに行くわけじゃないからね」
「わかってるよ。相手だって馬鹿ではないのだから不正の証拠を通常の業務で見える範囲には残さない。だからチャンスは少ないと思うけど、不正を指示した証拠を押さえるのがいいだろうね。例えば、手っ取り早い方法としては、社長が部下に不正を指示する音声を録音するとか。それを会長に報告して後は会社に任せる」
「ふーん。要するに盗聴か。いいだろう。それこそ探偵の腕の見せどころってわけだな」
証拠などすぐに掴んでやるさ、と息巻いて汐入はYSK商事で働き始めた。
ちょっと待ってよ、汐入 第二章
証拠など直ぐに、と息巻いていた汐入が働き始めて2ヶ月が経過したある日、僕は汐入探偵事務所に呼ばれた。本来なら汐入が僕の事務所に来るべきだと思うんだけどな。徒歩3分圏内だからまあいいけど。
事務所に着くなり、開口一番、
「能見、貴様にワタシのフィアンセになって欲しい」
と突拍子もないことを言われた。
「・・・フィアンセって?文字通りフィアンセのこと?きみとは腐れ縁だけど許嫁ではないし、そーゆー将来を誓い合った覚えもないけど」
「わかってる。ワタシはこれからの話をしている。二週間後の週末、YSK商事の取締役会がある。YSKの経営陣はほぼ血縁関係で、株式は全て役員が握っている。だから取締役会といっても一族の晩餐会と親族会議がセットになったようなもんだ。例年は無風状態で特にホットな議題もないけど、今年はそこで次期社長を決めるんだ」
話が見えてこないな。
「で、それがなんでフィアンセの話になるの?」
と、僕は至極全うな疑問を口にする。
「小金持ちの贅沢晩餐会だぞ。皆、同伴者がいる。一人で行くと浮く」
だいぶ話を端折ってるな。
「まず聞くが、汐入はそれに行くってこと?」
「そう」
「それに一緒に来いってこと?」
「そう」
「その時、僕は汐入のフィアンセってこと?」
「そう」
「つまりフィアンセを偽装するってこと?もしかして途轍もなく面倒なことに僕を巻き込もうとしてる?」
「違うって。一緒に来てもらって貴様に旨い飯を食べて貰おうっていうワタシの優しさだよ。これまでの協力への感謝の気持ちさ」
いや、騙されないぞ。基本的に汐入は面倒なことしか持ってこない。気が乗らないニュアンスを出してみる。
「そんな呑気に贅沢晩餐会を満喫できるのかな?今年は次期社長を決めるって言ってたけど、社長の椅子を巡り一悶着あるんじゃないの?」
「お!察しが良いね。わかってるなら清濁併せ呑め。もしワタシが一人で行ったら男どもがわんさかとワタシに群がってくるだろ?男どもに囲まれていたら一悶着あった際に自由に動けない。だからフィアンセ同伴の方が自由度が高く動けるってことさ」
一悶着あった際に動くって何だよ?やっぱり、絶対、面倒なことに巻き込もうとしてるだろ。こちらの行間も全く読んでくれてないようだ。それはさておき、
「わんさかと群がってくるかな?」
「そりゃ吸い寄せられる様に来るさ。まるでブラックホールの特異点の如くな、ハハハ」
「冗談がよくわからない。というか、冗談なのかどうかもわからない」
汐入が笑うから冗談のつもりらしいと察したまでだ。いつも冗談のポイントがズレてるんだよね。理系の人には通じるのだろうか?
「まあ、いいや。わざわざ冗談を解説するほど野暮じゃない。ちなみに晩餐会の次の週末はワタシの誕生日。ついでに誕生日の前祝いとして高いワインで乾杯といこうじゃないか」
汐入の誕生日は関係ないだろ。ここに関してはスルーして、話を戻そう。
「どう考えても僕にとっては面倒ごとにしかならない気がする」
「何言ってるの?贅沢晩餐会だぞ!ワタシの優しさだぞ!素直に受け取れ!」
その後、休日だから暇だろ、休日なのに暇なんだろ、三十路なのに暇なのか、三十路なのに暇なんてヤバいだろ、ついでにコンサルを売り込めばいいだろ、売り込めたら仲介料はもらうぞ、車の運転ぐらいできるだろ、運転ぐらいしかできないんだし、誕生日は忘れるなよ、などなど、しつこく口撃され
「わかったからもうやめてくれ。フィアンセになるよ。車も運転してやる。晩餐会に行ってやる」
と仕方なく折れた。止せばいいのに、いつも巻き込まれてしまう。
ちょっと待ってよ、汐入 第三章
次の週末、大森珈琲。お客さんがいないのでテーブル席に座り、取締役会の面々について汐入から説明を受けた。
取締役会のメンバーは議長を含めた6名。
会長 横須賀一成 78歳
創業者。取締役会では議長をする。会長の息子、
娘は役員に名を連ねる。
少々訳ありなので、以降それぞれの人物についての
説明に譲る。
社長 横須賀誠 55歳
会長の息子だ、と言っても会長の再婚相手の連れ子
であり血は繋がってない。
会長とは反目しあっておりあまり上手くいっていな
い。
副社長 横須賀克成 51歳
会長と再婚相手との間の実子である。
専務 津久井昭雄 74歳
会長が起業した時分からの創業メンバー。
津久井の娘は社長の横須賀誠と結婚している。つま
り社長の義理の父である。
常務 逸見義史 54歳
社長が現場にいた頃の同僚であり現在も社長の懐刀
だ。唯一、血縁関係がない。
執行役員 野比雅子 49歳
会長と再婚相手との間の実子、旧姓横須賀雅子。副
社長の妹である。
次期社長の候補は二名。現社長の横須賀誠と副社長の横須賀克成である。続投か交代か、である。
案件の決議は、議長を除く5名の多数決になる。取締役会は3名以上の参加があれば会は成立。決議は過半数を取れば決まりだ。棄権や欠席で票が同数に割れた場合のみ議長である会長が一票を投じ決議する。
汐入は自分で説明しながら、このルールでは3名が取締役会に出席し最低2名の賛同で案件が可決してしまうな。ボードメンバーは5名なのにそれでいいのか?かなりゲーム性の高いルールだな、などとぶつぶつ言っている。
それぞれの取り巻きと思惑はこうだ。
会長派 創業家が再び実権を握る目論見 副社長を支持
会長 横須賀一成 同数の時のみ投票
副社長 横須賀克成 次期社長候補(新任)
執行役員 野比雅子 克成の妹
社長派 会長派閥を一掃し将来的には一族経営から脱却
したい思惑で一致
社長 横須賀誠 会長の再婚相手の連子
次期社長候補(続投)
専務 津久井昭雄 創業メンバー 社長の義父
常務 逸見義史 社長の右腕
つまり状況を鑑みると票読みはこうなるようだ。
副社長の票は自身と執行役員の野比雅子の二票。会長は決選投票まで投票できない。一方、社長の票は自身と義理の父である津久井、右腕である逸見を合わせ三票。状況としては二票の会長派としてはなんとか津久井か逸見を味方に着けたいところだろう。
「会長派はなんか切り崩し工作を仕掛けてこないの?津久井か逸見を説得するとか」
「仕掛けるだろうね。それが真っ当に行われれば、なんら問題はないけど」
「と、言うと?」
「ワタシが危惧するのは、会長派が取締役会の当日になんらかの不正な方法で津久井か逸見を欠席させ二票対二票に持ち込み会長が投票する、というシナリオね」
「うーん、不正な方法ってなんだろ?」
「知らないよ。だから社長に監視役を頼まれて"晩餐会"に招待されたんだよ」
「監視役!?やっぱり面倒なことに僕を巻き込もうとしてるんじゃないか!」
「あれ?言わなかった?美味しいディナーのついでに監視だよーって」
聞いてないぞ、汐入よ。
「わざと隠していたね」
「そんなことないよ、忘れてた、テヘッ」
何がテヘッだ。絶対、わざとだ。
「それにしても社長はなかなか人を見る目があるな。数ヶ月の仕事ぶりでワタシの有能さを見抜き監視役に抜てきするとは。ふふっ」
「最近入ってきた外様だからある意味で信頼しただけなのでは。ん?つまりきみはダブルスパイってこと?」
「そうなるね。ワタシは社長の不正な金の流れを暴き、もし会長派が取締役会で不正な工作をするならばそれも防ぐ、と言うミッション:インポッシブルに挑むわけだ。ま、ワタシに言わせればミッション:ポッシブルだけどね。いや、誇張する必要もないな。単にポッシブル ミッションを遂行するだけだな」
今、また汐入は冗談を言ったのか?なんか英語の語法がおかしかったのか?全くわからない。
「この会社、大丈夫?」
「さあ?知らない。潰れそうになったら貴様がコンサルして建て直せばいいんじゃない。だが、いいか、これはチャンスだ。晩餐会では比較的自由に社長の周りをうろつける。社長の不正を指示する音声を録音できるまたとないチャンスだ!」
「そんな都合よく不正の指示が出るわけないだろ。ま、そっちは気長に内偵を続けなよ。晩餐会の監視役は汐入が頼まれたんだろ?僕はご好意に甘えてのんびりと高いワインと美味しい料理を頂くとしよう」
「つれないなぁ。でもそうだね。これはワタシの仕事だ。フィアンセはしっかり、ワタシに寄ってくる男どもを追い払ってくれよ」
翌週末、いよいよ"晩餐会"だ。一同、家族やパートナー同伴で高原の清々しい気候の下、会長の別荘に集まった。会の次第は、自慢と嫌味が飛び交う贅沢な立食形式のパーティーを経て、21時頃からほぼ一族の家族会議である取締役会で次の社長を決める、とのこと。なんて牧歌的な一族経営なんだ。
何が起こるかわからないけど、それは汐入の仕事なので、僕は美味しい夕食を頂くことにする。芳醇な香りのワインやシャンパンも遠慮なく飲んでしまおう。うーん、旨い!このワイン幾らぐらいするんだろ。どうせ自分の味覚では三千円以上のワインはもはや一万円でも百万円でも違いなんてわからないのだけれど。それが分かるのは"一流芸能人"だけであることは某テレビ番組で証明済みだ。
汐入はというと、今日は髪をアップに結ったヘアスタイル、袖がレースのシックな黒のドレスという「らしからぬ」装いで上品にまとめている。社長から勧められ嗜む程度に飲みながら談笑している。
ん?汐入に電話のようだ。汐入は社長に断りを入れて少し席を外す。戻って来て少し社長と話している。なんか緊急の連絡か?まあいいや。僕には関係ないしね。今度は会長に捕まっている。汐入に寄ってくる男は年寄りばっかりじゃん。社長や副社長の息子と思しき若い男性はしっかりパートナーを伴っていて、汐入には興味も示さない。僕が追い払う以前の問題だ。
汐入はそつなく笑顔を振りまいて上手く会長と談笑している。へー、そんな振る舞いもできるんだな。それにしても、なんか凄く眠いな。
「能見様、お疲れのようでしたら少し休憩なさいますか?お二階のお部屋にご案内致しますよ」
横須賀家の執事らしき人が声をかけてくれる。そうだな。わんさかと男が寄ってくることはなさそうだし(何がブラックホールだ!ドレスは黒だけど)フィアンセ役は不要のようだ。そうさせてもらうか・・・。
ちょっと待ってよ、汐入 第四章
「気がついたら、寝てた」
と、僕。
「気がついたのは起きたからでしょ。正確には、気がつかないうちに眠ってた。そして起きた時にそれに気がついた、でしょ?」
と、面倒な正論を言う汐入。
「まぁそうかも知れないけど、言わんとしている事はわかるよね?」
「わかるけど、違和感しかない。貴様の台詞は起きて気がついた時に寝ている状態が発生した様に聞こえる。シュレディンガーの猫じゃあるまいし」
「誰の猫だって?」
「相変わらず冗談が通じないな。シュレディンガーさんが飼ってるニャンコじあゃないぞ。量子の世界で現象を観測するとな・・・いや、野暮な説明はやめよう。面倒くさい」
またよくわからない冗談を言ったらしい。
「こんな些細な呟きに、どんだけ突っ込むんだ。探偵もサービス業なんだから、そんなんだとクライアントの受け、悪くなるぞ」
「貴様こそ、大雑把なロジックでよくコンサルタントが務まるな」
「大雑把とは失礼な!ビジネスには俯瞰的な視野で大局を捉えることが必要なんだよ」
「あ、そう。そんなことよりワタシは今、手足を縛られていることが猛烈に気になってるんだけどな」
「そうだ。同感だ。どこぞのニャンコの話ではなく、僕らは真っ先にそれを話し合うべきだったね」
僕と汐入は今、それぞれ手足を縛られ、薄暗い部屋のなかにいる。別荘の離れだろうか?人の気配は感じられない。
「見張りとかは?」
「いないみたいよ」
「わかった。縄はそんなにキツく縛られてないみたい。なんとか手を抜いてみるよ。ちょっと待ってろ・・・ほら!」
と、縄から抜き出し自由になった手を見せる。
「確かに緩いね。でもワタシの縄は解いて。縄をぐりぐりやると擦り傷ができそう。あ、貴様は既にそうなってるね。血が滲んで痛そうだ。ところで、今、何時?」
時間を聞かれ、傍に放置されていたスマホを見る。
「今、21時過ぎだ。仕方ない、解いてやる」
「ありがと。感謝する。トポロジー幾何学的には解かなくても何とかなる筈なんだが・・・実際には二つの輪であること変えずに無限に変形することはできないから難しいな」
何をブツブツ言っているのか全くわからない。きっと僕には見えない何かが見えているんだろう。毎度のことながら無視だ。
自分の足と汐入の縄を解き僕たちは監禁状態から脱却できた。だが、一体なにが起こったのか?取締役会はまだ議論の最中かもしれない。無事に開催されているのだろうか?なにやら会長派の不正とやらが行われているのではないか?いち早くこの状況を社長に伝えなくては。
「汐入、スマホは使えるぞ。社長に連絡するか?」
「能見、先週、ワタシの事務所で票読みをしたね。その時の話は覚えてる?」
もちろん覚えている。
「ああ、もし汐入が危惧してたシナリオが起こったのだとしたら、僕らの監禁は会長派の仕業だね。僕らが不在のうちになにか良からぬ工作を仕掛けて、不正に副社長の克成を勝たせようとしてるんだ、きっと」
僕の言葉を聞くと汐入は満足そうな笑みを浮かべた。
「ふふっ。そう考えちゃうところが、貴様はまだまだなんだよねー。よし!帰ろう。運転よろしくね」
「え?よくわかんないんだけど。っていうか、飲んでるから無理」
「そうだったね。仕方ない。ちょうど今取締役会だな。役員どもはいないから晩餐会に戻って美味しいものを食べようか。で取締役会が終わるまでにはこそっと外に出て車中で一泊して翌朝、帰ろう。種明かしは、明日、運転中の眠気防止に話してあげる」
(ちょっと待ってよ、汐入 後編へ続く)