17 最推し【Side グレイ】
僕の妻は、時々おかしな事を言う。
「最推しが尊すぎる」とか「最高オブ最高」とか「存在が神」とか「ここが天国か」とか。
少し気になったので、最推しの意味を聞いてみると、恥ずかしそうに「それは…その、世界で一番大切な人って意味です」と教えてくれた。
「それなら、僕の最推しは貴女です」と返すと、顔を真っ赤にして「ダメ! 耳元でそんな事を言われたら、耳が孕んじゃう!」と激しく動揺していた。
いつも冷静で落ち着いているクラウディアが慌てふためく姿は、とてつもなく可愛い。
だからつい意地悪をしたくなってしまうのだ。
今日も彼女を抱きしめて、耳元で愛を囁く。
重すぎる愛も、稚拙なお願いも、嫉妬や執着心も。
吐息のように甘く囁けば、全てを受け入れてくれる。
そして、残念な事だけど耳は孕まない。
アークとマリアがいなくなってから、クラウディアの心労はずいぶん減ったように見える。
笑顔でいる事が増えて口調も柔らかくなった。
改めて考えてみても、どうしてあのような者達を屋敷に住まわせていたのか分からない。
もしかするとアークに騙されていたのかもしれない。
クラウディアは純粋でお人好しだからあり得る話だ。
とにかく、アークの態度は目に余るものがあった。
美しくて聡明で女神のような女性に婚約してもらえたというのに、あろう事かメイドに手を出していたのだ。
それはもう万死に値するだろう。
あのメイドだって、だいぶ問題のある人物だった。
帳簿を確認して気付いた事だが、マリアがメイドとして働いている期間に異様な枚数の皿が割れているのだ。
皿を割る度に「私、ドジなんです」と悪意がない事をアピールしていたそうだが、ドジという理由だけで納得できる枚数ではなかった。
クラウディアの私物もいくつか壊されていたらしい。
損害額はかなりのものだ。
二人が屋敷を去ってから、クラウディアと使用人達の関係は良好なものに変わっていった。
そもそも今までの状況が間違っていたのだ。
あんなに素晴らしい女性が悪く言われるなんて、絶対にあってはならない事なのだから。
先ほど、クラウディアは急にアークの名を口にした。
そんな男の名を呼ばないで欲しい。
もしかしたら、まだ心残りがあるのではないかと想像するだけで、胸が苦しくなって吐き気がした。
「み、未練なんて全然なくて、ただ、今どうしているのかなって少し気になっただけなのよ。だって、また領地に戻ってきたりしたら、厄介だなって思ったの……」
クラウディアは慌てた様子でそう言っていたが、ほんのわずかでも彼女の脳裏に、あの男の顔が浮かんだのかと思うと、耐え難いほどの不快感に襲われた。
領地を出てから、あの二人は小さな町で飲食店を始めたそうだが、たったの数ヶ月で店を閉めている。
マリアはそのまま町に残り、父親ほど歳の離れた陶芸家と結婚したらしい。
アークは一人で最東に向かい、始まりの村と呼ばれる寂れた村で便利屋のような仕事をしているそうだ。
あの男の行動は謎すぎて不気味だ。
あっさりと子爵家の地位を捨て、美しく聡明で女神のように完璧なクラウディアを裏切った。
それなのに、そこまでして手に入れた元メイドの娘とあまりにも容易に別れているのだ。
一体、何がしたかったのか全く分からないが、クズ男の思考なんて理解したいとも思わない。
アークとマリアには、現在も見張りを付けている。
万が一にも、この領地に侵入する事がないようにと、いくつか手は打っているが油断は禁物だろう。
最近、領地経営も軌道に乗ってきたし、新しく始めた事業も上手くいっている。
そろそろ跡継ぎの事を考える頃合いかもしれない。
クラウディアの子なら、男の子だろうが女の子だろうが目に入れても痛くないくらいに可愛いだろう。
もう少し夫婦だけの時間を楽しみたい気持ちもあるけれど、彼女は子供が大好きだから。
きっと張り切って子育てをするのだろうと思う。
子供に夢中になりすぎて、僕に対する関心が薄くなってしまのではないか…というのが目下の悩みだ。
彼女に血を与えてもらうようになってから、僕は力も頭脳も人並外れて優秀になった。
愛の力で色の無い世界が変わったのだ。
心にまとわりつくヘドロのような劣等感から救い出してくれた愛しい人。
貴女のくれた世界は、美しくて尊くて儚くて切ない。
「ねぇ、 グレイ? まだ怒っているの?」
「いえ……怒っては…いませんよ」
「本当に? じゃあ、仲直りしてくれる?」
「はい。……………できれば、もう二度とあの男の名を口にしないと約束していただけますか?」
「分かったわ。約束するわ」
柔らかに微笑むクラウディアを抱きしめると、ほのかに甘い匂いがした。
これは、今朝方作ったマカロンの香りだ。
さっそく食べてくれたのかと嬉しくて感情が昂ぶる。
「……少しだけ、血を頂いてもよろしいですか?」
「えぇ、いいわよ。お好きなだけどうぞ?」
彼女は可笑しそうに「ふふふ」っと笑うと、惜しげもなく白くて美しい首を差し出す。
マカロンなんかよりも、遥かに甘美なそれを。
柔らかな首筋に舌を這わせ牙を立てると、クラウディアの身体がわずかに震えた。
独占欲と支配欲と性欲と切なさ。
自分勝手なこの感情を愛と呼べるのだろうか?
誰よりも大切に守りたいと思う気持ちと同じぐらい、彼女の心に傷を付けたい衝動に駆られる。
何があっても消えないほど深く強く、彼女の柔らかな部分に想いを刻み付けたい。
貴女はこんな僕でも受け入れてくれるのだろうか?
もし、無理だと言われても、嫌われても泣かれても、今さら離れる事なんて到底できそうにないけれど。
どうか、願わくば永遠に。
これからも貴女の『最推し』でいられますように。
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回は、短編ではなく連載に挑戦してみました。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
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