10 割れた皿【Side アーク】
「キスは口にしないでね。それから、痛い事と体に痕が残る事もしちゃダメよ?」
女は、俺の手を引いて路地の奥へと連れていく。
大きな胸も金色の髪もクラウディアに似ている。
背丈や骨格も似ているかもしれない。
クラウディアはもっと、上品で気高くて言葉も所作も優雅だったけれど。
女の髪は、よく見ると痛んでパサパサで根元の部分が少しだけ茶色だった。
「髪を染めているのか?」
「そうよ。この髪色いいでしょ? 貴族のお嬢様みたいに見えるって評判いいのよ」
「確かに、その色は貴族のお嬢様の色だな」
俺は、女の胸にそっと顔をうずめた。
柔らかくてボリュームはあるが、肌はカサカサで安い香水の匂いがする。
たぶん、クラウディアの肌はプルプルのツヤツヤで、ほんのり高貴な香りがするのだろう。
最近は、マリアとギクシャクしているから、こういう事はご無沙汰だった。
そもそもマリアは小柄で華奢で胸も小さくて、性欲の対象というよりも守ってあげたくなるような存在だ。
とにかく今は、嫌な事を全部忘れたい。
俺は、スカートの中に手を滑らせて、もう片方の手で女の腰を引き寄せた。
生温かい乱れた吐息が首にかかり、体が熱くなる。
そう言えば、この女の名前を聞いてなかったな。
ぼんやりとそんな事を考えていたら、カサリと頭に何かがぶつかる音がした。
ん? 何だ?
ふと目線を向けると、そこにはマリアが立っていた。
ボロボロと涙をこぼしながら、細い肩を震わせて。
「マ、マリア………」
頭が真っ白になって、何も言葉が出てこない。
こ、これは違うんだ……
浮気とかじゃなくて、ただのお礼で……
感情の入ってない身体だけのアレで……
たくさんの言い訳を頭の中で繰り返す。
マリアは服の袖で涙を拭うと、小走りでどこかへ行ってしまった。
追いかけたいのに、足がすくんで動けない。
「何だか、悪い事をしちゃったわね…」
女は服の乱れを直すと、落ちている紙を拾った。
さっき、マリアが俺の頭に投げつけた紙だ。
グチャグチャに丸められた紙には、何か文字が書いてあった。
『セロリ、ニンニク、もし売っていたらクミンも』
これは……追加の買い物リストだろうか?
もしかしたら、マリアはこれを渡そうとして俺を追って来たのか?
「花と菓子でも買って彼女に謝りなさい。とにかく言い訳をしないで、ひたすら謝るのよ? もし、それで許してくれたら、少しお高めのアクセサリーでもプレゼントするといいわ。それじゃ、私は店に戻るから、あとは上手くやりなさいよ? 彼女と仲良くね!」
女はヒラヒラと手を振りながら帰っていった。
花と菓子……あと、セロリとニンニクとクミン。
それから、レモンとトマトと鶏肉と卵とコーヒー豆とパプリカも。
全部買ったら家に帰って、ただひたすら謝ろう。
とにかく言い訳をしないで謝ろう。
もし許してくれたら……許してくれる…だろうか?
買い物を終えて帰ると、マリアは先に帰っていた。
良かった。とにかく家には帰ってきてくれたんだ。
俺はホッとして、荷物を一旦テーブルに置いた。
マリアは二階で黙々と荷物を整理している。
「マリア………あの、本当にごめん………」
「謝らないで下さい。もう、いいんです」
「ゆ、許してくれる……のか?」
「いいえ。私は出て行きます」
「で、出てくって…どうするんだ? 金もないのに…」
「私、ロージさんの所でお世話になります」
「ロージさんって……あの、髭面の爺さんか?」
「ロージさんは爺さんじゃありません!」
「爺さんだろ? いつも汚れた服でメシを食いに来るし、仕事だって何をやってるか分からない怪しいヤツだ!」
「ロージさんは有名な陶芸家です! 王族や貴族の方にも仕事を頼まれるような立派な職人さんなんです! それに、私の料理を美味しい美味しいっていつも褒めてくれますし、悩みだってたくさん聞いてくれて、優しい言葉だってたくさんたくさん掛けてくれるんです!」
「そ、そんなの、俺だって…」
「皿なんていくらでも割っていいって言ってくれました。皿なら俺が何枚でも作ってやるって。だから元気を出せって。私の笑った顔が好きだって。私が落ち込んでいると、自分まで悲しくなってしまうって。私の気持ちに寄り添って励ましてくれたんです!」
「お、俺だって……そんなの……」
「私は貴方が好きでした。貴方は強くて優しくてキラキラしていて、ずっと私の憧れでした。でも、もう無理なんです。貴方の側にいると苦しい。私もう嫌なんです。貴方の側にいると自己嫌悪に陥って、どんどん自分の事が嫌いになってしまう。だから、もう無理なんです。今までお世話になりました。さようなら、アーク様。素敵な夢をありがとう。どうぞ素晴らしい冒険者になって下さい」
マリアは小さなカバンを両手で抱えると、ペコリと頭を下げて、振り向きもせずに部屋を出て行った。
次回11話も、アーク視点が続きます。