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(3)――「中学生の女の子が行方不明になってるって、村で噂になってきてる」

「腹式呼吸も発声練習も、だいぶ慣れてきたようだな」

「そうかな」

 基礎練習を終え、水分補給のために水筒からお茶を注いでいると、そんなことを言われた。

 まだ練習を始めて数日しか経っていないから、僕自身の感覚としては曖昧だ。これで慣れてきていると言えるのだろうか、甚だ疑問である。

「うむ、アキは日々成長している」

 満足そうに頷き、少女は言う。

「実はこれ、おざなりにしてしまおうとすれば、簡単にできてしまうことだからな。とはいえ、そんなことをしていれば、そのぶん結果は見事なブーメランとなって返ってくるわけだが」

「お前が真面目に教えてくれてるのに、おざなりになんてするわけないだろ」

「ヤー! その意気だぞっ!」

「ちなみに、コマ先生。ひとつ訊きたいんだけど」

 小さく右手を上げた僕に、少女は芝居かかった様子で、

「うむ、言ってみなさい、アキ君」

と腕を組んだ。

「たまに言う『ヤー』って、どういう意味なんだ?」

「ああ、そっちか。これは英語で言うところの『イエス』にあたるドイツ語だ」

 お茶の入ったカップを受け取り、一口飲んでから、少女は続ける。

「家では、ドイツ語を使うのを禁じられていたのだ。お母さんから『あの男のことを思い出すから、その言葉を使うな』って言われていてな。だけど、アキの前だとついつい気が緩んで使ってしまうのだ。……気を悪くしたか?」

「別に、僕は気にしないけど。ていうか、聞いてて格好良いなって思うから、むしろもっと使ってよ」

「おお、アキもそう思うか。イッヒビンゼアグリュックリッヒ! ワタシは嬉しいぞ、アキっ!」

「うん」

 はしゃぐ少女の姿を微笑ましく思いながら、僕は頷く。

「それにしても、よくすらすらとドイツ語が出てくるよな。どれくらい話せるんだ?」

「たぶん、日常会話くらいなら普通に話せると思うぞ」

「マジか。すごいなお前」

「そうであろう、そうであろう! ワタシは優秀な狛犬なのだっ!」

「その設定はもう要らないだろ」

「おっと、そうだった。つい癖で」

 こうして話していると、ほんの数日前まで、僕らの間には大きな隔たりがあったのだと思わせられる。互いが互いに興味を持ちながら、牽制と遠慮を続けてきたのだ。

 僕と少女の、それぞれの過去のこと。

 この神社に至るまでのこと。

 お互いの事情を話してもなお、こうして気楽に話ができるとは思ってもみなかった。だけどこれは、この神社の中でしか成立しなかったのだろう。だからこそ、この場所が特別に思えて仕方がない。この場所とこの時間が、ずっと続けば良いのに。

「――……っ」

 そこまで考えて、僕は小さく息を飲んだ。

 僕は今、一体なにを願った?

「さて、それでは練習に戻ろう」

 と。

 少女は、僕の挙動不審には気づいていない様子で、こちらにコップを返す。

「とにもかくにも音程だな。アキは覚えが良いから、たぶん今日で全体の流れは覚えられると思うぞ」

「コマにそう言ってもらえると、心強いな」

 コップを受け取りながら、僕は平静を装い返事をした。

 小さく深呼吸をして、動揺していた心を落ち着けようとする。

 この場所とこの時間が、ずっと続けば良いのに――だなんて。

 無意識に思考を巡らせていたそれは、少女の事情を一切無視した完全なる僕のエゴだ。それは『家族を亡くしたかわいそうな美秋君に、みんな気を配りましょうね』と言う彼らの身勝手な配慮と、なにも変わらない。あれが堪らなく嫌いだというのに、それをこの少女にも押しつけようとしていたのか。そう思うと、血の気の引く思いがする。

 少女は少しずつ、前に進もうとしているのだ。それを僕が妨害するようなことがあってはならないというのに。ああくそ、なんて気持ちの悪い感情なのだろう。

「アキ、どうかしたか?」

 ふいに声をかけられ、僕は我に返った。

「な、なんでもない」

「なんでもないって顔じゃないぞ、それ」

 そんなことを言われても、僕に僕の顔は見えない。

 一体僕は今、どんな顔をしているんだ?

「……あのさ」

 正常に動いていない自覚のある頭を必死に働かせて、僕は言葉を紡ぐ。

 まだ少女に伝えていない事実がある。

 少女は、自分のタイミングで家に帰ろうとしているのだ。

 それを邪魔しようとしている存在があることを、ひた隠しにはできない。

「お前、捜索願が出されてるみたいだぞ」

「え?」

 少女が発したのはその一音だけだったが、そこには途轍もない緊張感が混じっていた。

 そこに追い打ちをかけるようで、胃の辺りがきゅうきゅうと痛む気がしたが、僕は続ける。

「それに、中学生の女の子が行方不明になってるって、村で噂になってきてる」

「……そうか」

 僕の言葉を受け、少女は呟くように言う。

 その声音は、悲壮感よりも悲痛そうなそれだ。

「きっと、叔父さんが出したのだろうな。叔父さんは隣町に住んでいて、よくうちに様子を見に来てくれているのだ。そうでなければ、捜索願など出るはずがない。お母さんもおばあちゃんも、ワタシのことなんて気にかけていないだろうから。……しかし、そうか、思ったよりも早かったなあ」

「コマ……」

 ゆっくりと空を仰いだ少女に、僕は呼びかける。

「何度も言ってるけど、僕はお前と一緒に居るのが楽しい。楽しいから、この時間がずっと続けば良いとさえ思ってる」

 だけど、そうじゃない。

 僕が望むのは、切り取った時間の繰り返しじゃないんだ。

「お前がこの神社に居ることも、家に帰ることも、否定しようとは思わない。お前の向かいたい方向へ行くことを、僕は応援したいと思う。だけど警察に見つかったら、そうはいかないだろ?」

 家出をした未成年は、遅かれ早かれ、大人によって連れ戻される。どうしたってこの時間を永遠に続けることは不可能だ。

「だからひとつだけ、訊いておきたいことがあって」

「訊いておきたいこと?」

 うん、と頷いて、僕は続ける。

 何度も喉から出ることを拒否し続けていた言葉を、それでも押し出す。

 怖いのなら、言わなければ良いだけの話だ。だけど僕は、言葉を続ける。言わなかったら絶対にあとで後悔すると、僕は痛いくらいわかっているから。当たり前の時間なんて、どこにもないんだ。

「コマがこの神社を出たあとも、またこうして会えるか?」

 少女の顔を見て言うことは、できなかった。

 こうして言葉にするだけで精一杯だった。

「――アキ」

 やや間があってから、少女は口を開いた。

 その声音はいつもどおりだったが、だからこそ、僕は返事を聞くのが、少しだけ怖い。冷や汗が一筋、ゆっくりと僕の首筋を伝っていく。

「もちろんだ」

 少女はにいっと歯を見せて笑い、言う。

 たったそれだけの言葉に、僕は目頭が熱くなるような思いがした。

「ワタシだって、アキとの友情をここで終わらせるつもりは毛頭ない。捜索願が出されている以上、ここにもあまり長居はできないだろうが、アキに一言もなくここから出て行きはしない。それに今度は、ワタシからアキに会いに行きたい――いや、会いに行く。約束しよう」

 言って、少女は僕に小指を差し出してきた。

 その色白で細長い指に、僕は恐る恐る指を絡める。

「ゆーびきーりげーんまん、うそついたーら、はりせんぼーん、のーます」

 そうしていつかの日のように、約束の歌を歌う。

 あの日と違うことと言えば、僕も最初から、少女と同じように歌っているということか。

「ゆーびきった!」

 歌に合わせて上下させた指を、そうして今一度、強くつよく結ぶ。

「えへへ。約束したぞ。アキ、待っててね」

 小指を絡めたまま、少女はそう言って照れくさそうに笑った。

「うん。待ってる」

 それに僕は、一体どんな表情を浮かべて返したのだろう。

 わかるのは、目の前にいる少女ただ一人だ。

「よし、それでは練習を再開しようではないか」

 コップを僕に返しながら、少女は言った。

「うん」

 それを受け取りながら、僕は頷いた。

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