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僕が幼い頃——誰しもに幼い頃があったようにもちろん僕にもその頃があった——、僕は両親に何度か地元の遊園地に連れて行ってもらった。母と一緒にメリーゴーラウンドに乗ったり、父も一緒なってコーヒーカップを回したり、高所がダメな父を置いて母と観覧車に三回乗ったこともあった。それくらい観覧車が好きだった。
小学三年生の夏、その遊園地で僕はその人と出会った。僕が両親とはぐれて——きっかけは確か、父が仕事の連絡か何かで、母がトイレに行っていたときの少しの隙だった——、四方八方から絶えず聞こえる園内ミュージックや園内を行き交う多くの人の中を混乱しながら彷徨っていると、誰かがトントンと肩を叩き声をかけてきた。
「君、まいごでしょ?」
それは女性の声だった。少し他人行儀な高音だったため母親でないことはわかっていたが、自身が迷子だと自覚し始めていた僕は拒むことなく振り返った。僕は驚いた。そこにいた女性は、僕が思い描いていた女性より数段鼻が丸く赤く、口紅が誇張されすぎており、真っ赤な髪に埋まった顔は真っ白で、首にはシャンプーハットのようなギザギザのひだ襟があり、白い水玉が散りばめられた上下一体の真っ赤な服と丸く大きい黄色の靴。派手という二文字で片付けてしまうのは失礼なほど派手すぎる格好をしていた。そう、その人とは道化師だった。片手には沢山の糸が握られており、それは彼女の後ろで揺蕩たゆたう風船につながっていた。風船は赤、青、紫、白、緑、……と色とりどりだった。
そのとき初めて道化師と対峙することとなったが、僕は一般的な子供のように彼女の不気味な様相に恐怖し涙を流したのではなく、彼女に自身が迷子である事実を決めつけられたことによる孤独の気づきにより涙を流した。だから僕はそのとき「いやだぁ。こわいいぃ」ではなく、「パパァ、ママァ」としっかりと迷子らしい台詞を口にしていた。
気づくと道化師の顔は僕の顔の高さと同じになっていた。そして大きくて赤い口を横に広げ、にこりと笑った。
「大丈夫、大丈夫だよ。すぐにパパとママに会えるから。ほら、私に着いてきて」
僕はその道化師に腕を引っ張られた。道化師の彼女は風船につながった糸を持っていない方の手で僕の手を優しく握ってくれていた。道化師の彼女に導かれるように風船も僕もゆらゆらと揺れながら前に進んだ。
観覧車のすぐ近くを通るとき、僕は急に立ち止まった。僕が止まっても色とりどりの風船は急には止まれず、ほとんどが前を行く道化師に当たった。顔が風船に埋もれてしまった道化師の彼女は、潜っていた水の中から息継ぎのため顔を出すように丸く真っ赤な鼻を前に突き出した。漸くそこで僕は素直にそれを少し恐いと思った。しかし泣くことはなかった。僕の意識は観覧車にあった。遊園地に入ってまだ時間が経っていなかったこともあり、大好きな観覧車には乗っていなかった。だから当時、まだ子供だった僕は我慢できず言ってしまった。あれにのりたい。と。
道化師は困った表情を見せたようだったが、メイクのせいで詳細はわからなかった。わかったとしても相手の顔色を窺ったり、相手の気持ちなどうまく考えることができなかった幼い僕は何度もごねた。つないでいた道化師の手を勢いよく払った。道化師は道化師の方で非常に困ったに違いなかった。道化師の彼女は僕の母でなければ、父でもなかったのだ。我が儘を言う僕を親のように怒鳴りつけることなんてできるわけがなかった。だから道化師の彼女はまた顔の位置を低くしてから、丸く赤い鼻の前に人差し指を立てた。「一回だけよ。そしたらおとなしく私に着いてきてくれるかな?」
道化師が遊園地スタッフに話を付けてくれたため、僕は長蛇の列に並ぶことなく観覧車に乗ることができた。ゴンドラに乗る際、道化師の彼女は手に持っていた無数の風船を近くにいたスタッフに渡そうとしていた。なぜだか僕はそれを拒んだ。風船も一緒がいい。そう頼んだ。この我が儘にも道化師は怒るわけにはいかず、承諾した。スタッフに懇願してなんとか許可を得ると、道化師に引っ張られて僕と風船たちはやっとゴンドラに乗り込んだ。予想通りゴンドラ内は風船でパンパンになった。頼んどいて失礼だが、暑苦しかった。それでも並んで座った道化師の彼女は風船の糸も、僕の手も離すことはせずにぎゅっと握ってくれていた。いつも母がしてくれていたように。
「君は観覧車が好きなんだね」
風船に埋もれた道化師は、顔だけを出して僕に聞いてきた。出会ってから今までで一番恐ろしいシチュエーションだったに違いなかったが、僕は平生通りだった。しかし、なんだか恥ずかしくて「うん」としか言えず、逃げるようにひしめき合う風船の隙間から窓の外を覗いた。彼女も僕を斟酌して多くは尋ねてこなかった。「うん。そうだよね。眺めがいいもんね。鳥みたいに空を飛んでるみたいで気持ちいいし、自由って感じよね。ハハハ」と僕の気持ちを汲み取ってくれた。それが僕の気持ちだったのか、本当のところは当の本人もわからなかった。しかし、彼女がそう言うとなんだかそんな気がした。じゆう。
一番下の六時の位置から始まって十一時、頂上にいく手前で僕は少し気になっていたことを道化師の彼女に尋ねた。「こんなたくさんのふうせん、どうやってふくらませてるの?」
それを聞いた彼女はくいっと口角を上げて道化師らしい笑みを浮かべた。彼女を包む風船がより彼女を道化師たらしめていた。
「君、いいこと聞くね。これはね、全部私が膨らませたものよ。毎日毎日膨らましてるのよ」
えー、と感嘆の声を漏らしていると、道化師は丸く赤い鼻の前に人差し指を立てて「みんなには内緒よ」と僕に囁いた。そして続けた。「だからね、この風船一つ一つにはね私の一日一日の思い出がパンパンに詰まっているのよ。わかる? 思い出。私の昔の出来事」
子供らしく僕はそれに興味津々になり、ゴンドラが頂上にさしかかっていても景色には一切目も向けなかった。「このふうせんにはなにが入ってるの?」「あのむらさきにのにはなにが入ってるの?」と次々聞いてみた。すると道化師は僕に注文された風船を手に取り、一つ一つ丁寧に中を満たしていた思い出について楽しそうに話してくれた。「これは……」と道化師が風船を手に取り、中身を覗くためにそれを太陽の方に透かす度、白い顔が風船の色に淡く染まった。赤ならピンク。青なら水色。……とそれだけでも見ていて充分楽しかった。
「これには昨日の思い出、私が王様や王女様、みんなの前で歌って、踊って、おどけて、拍手喝采をもらった思い出。こう見えて私、お手玉七つできるのよ。すごいでしょ。——これには三日前の思い出、私が仕えている城に襲ってきた大きなドラゴンを勇敢な勇者と一緒に倒した思い出。私はドラゴンの後ろ足の小指をハンマーで何度も叩いて爪を粉々にしたわ。小指ってタンスにぶつけると痛いでしょ? ドラゴンもものすごく痛がってたわ。——これには一週間前の思い出、家までの帰り道でケンタウロスのくっさいうんちを踏んじゃった思い出。風船にもにおいが残っちゃってるのよ。ほら嗅いでこ。ここよ、臭いでしょ。ハハハ」
道化師の彼女が風船を手に取る度きゅ、きゅきゅ、とそんな音がして僕は愉快な気持ちとは明らかに異なるなんとも名状しがたい心地になった。きっと中を満たしていた思い出のせいだった。道化師としての彼女の思い出はなく、人間としての彼女の思い出のせい。当時の僕はほんの少しだけそれを感じ取ることができた。しかし子供だったため、完璧にはわからなかった。だから彼女の笑いに引っ張られるように僕は気にせず何度も笑った。
「これは君と私のここまでの思い出、観覧車での思い出が詰まった風船よ。はい、どうぞ」
ゴンドラを下りて絶えず長蛇の列が残る観覧車を少し離れたところで、道化師がそう言って僕に赤い風船をくれた。僕はそれにつながった糸をしっかり握った。彼女が握ってくれていない方の手で。
「じゃあ、いくよ」と彼女が色とりどりの風船と僕を引っ張ってくれた。そして僕はつないでない方の手で赤い風船を引っ張っていた。彼女の僕との思い出。それは僕の思い出でもあった。風船は一つだとよく揺れた。下になった縛り口の方が大きく揺れて風船はまるでダンスをしているようだった。見てる方も踊りたくなるほど軽快だった。
しかし、迷子センターまで後少しのところでその風船は僕の手から離れてしまった。道化師より恐ろしい顔をしたおじさんにぶつかった拍子に思わず手を開いてしまったのだ。風船は風に吹かれて右へ左へ流されながら、上へ上へと飛んで行ってしまった。僕は茫然とそれを見上げていた。普段だったら立ち止まってしまうところだったが、迷子を届けることで頭がいっぱいの道化師に手を引かれていたため、僕の足は自然と前へ進んでいた。風船はほうきで掃いたような薄い雲が所々にある青空の中で赤い点となり、いつしか空色の中に消えた。
このとき僕は心の中でこう呟いた。じゆう。と。
風船を手放してしまったことを正直に言えたのは迷子センターに到着したときだった。言えたというより、聞かれて言わざるを得なかったと説明した方が正しかった。僕はごめんなさい、と泣きっ面で謝った。道化師の彼女はやはり怒らなかった。「風船だし、飛んでいっちゃうのは仕方ないわ。なくしたらまた膨らませばいいのよ」と傍でふーっと風船を膨らませる素振りを見せてから新しいのをくれた。「これは君と私との今日の思い出。ここに今日の分、全部が詰まってるわ。はい、どうぞ」風船はオレンジ色だった。
僕は泣きながらそれを受け取った。彼女は「泣かないで、大丈夫だから。またなくしたり、忘れたりしたらその度自分で膨らませばいいのよ。これは私だけじゃなくて君の思い出でもあるんだから。ハハハ」と笑った。大きく赤い口がU字になった。
「ほら、笑って。ハハハ。笑って。ハハハと笑えばいいのよ。世界は初めからおかしいんだから。まいごの君もこんな格好の私もおかしいんだから。ハハハ」