承認欲求が日本人の民族性だって? ソレどこ情報よ
「承認欲求の強さこそ、日本人の民族性」という説が怪しい。
根本的に、日本人はこう、という事例を挙げるだけでなく、他国・他民族はそうではない、ということも挙げないと、日本人固有の民族性とは言えない。事例も怪しい。
「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」で、中国皇帝に承認された属国国王であることは否定したと思うけど?
高校教科書が1192つくろう鎌倉幕府じゃなくなった、つまり朝廷が承認したから幕府ができたんじゃなくて、先に幕府ができて朝廷は追認しただけ、ということになったと思うけど?
承認欲求の強さこそ、日本人の民族性
https://ncode.syosetu.com/n4031fz/
というエッセイを読んで。
まず根本的に、日本人はこう、という事例を挙げるだけでなく、他国・他民族はそうではない、ということも挙げないと、日本人固有の民族性とは言えない。
次に、その日本人はこう、と挙げている例も怪しい。
日本人の承認欲求の起源を、卑弥呼が魏に使者を送って、中国の皇帝の承認を受けたこと、あるいは漢委奴国王としている。
しかし魏志倭人伝(正式名称は異なるがここでは通称)には、倭人は漢の時代から来てた、とある。魏志より後に成立した後漢書倭伝(魏より前の後漢時代に関する書)にも少しある(この辺、俺もニワカだが)。
のちの遣隋使「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」では、中国皇帝に承認された属国の国王(冊封体制)であることを明確に否定して、対等の天子としている。これは有名だろう。
いずれにしても、その後も遣隋使だの遣唐使だの続けたのは、「中国の皇帝の承認を受けるため」ではない。中国皇帝に貢物をすると、大国の面子にかけて返礼の「倍返し」をしたのでお得だそうだから、案外その辺ではないかと思う。もちろん、文化・文明・文物の輸入という面も大きい。
次に、源頼朝が朝廷の承認欲求云々の件。
先に支配権を確立し、それを朝廷が後から追認した、というのが通説になっている。
高校教科書が1192つくろう鎌倉幕府じゃなくなった、というのは当時ニュースにもなったと思う。征夷大将軍任命年、1192年ではなく、支配権確立年、1185年だったかな? (1180年から諸説あり)
その後、源氏は朝廷を滅ぼす寸前までいく。なぜ滅ぼさなかったかといえば、反朝廷の頼朝が急死して、妻の北条政子がそう決めたからである。 なぜ妻の北条政子が源氏の実権を握ったかといえば、大化の改新で律令制(法律)ができた時、時の朝廷が中国の律令(法律)のコピペではなく、わざわざ妻の権利を入れたからである(それを理由に頼朝死後の権力闘争に勝ったともいえる)。鎌倉武士はヒャッハーしてるので、政治とかスルーしてそのまま朝廷を滅ぼしていたとしてもおかしくない。
鎌倉時代当時は、「幕府」とは武家政権のことではなく、頼朝の居館のことを指したらしい。先に幕府つまり源頼朝軍団ができ、それを朝廷が追認し、さらに江戸時代に武家政権のことを「幕府」と呼ぶようになる。「征夷大将軍が幕府の条件」というのも、同じく江戸以降の話らしい。征夷大将軍は位としては、ぶっちゃけしょっぱい。徳川が自分ageのため征夷大将軍ageしたんじゃないかな。
ちなみに信長は朝廷に「お願い、なんか偉い位になって」と言われたが「イラね」とかいって蹴ってる。
まあ細かいことはともかく、鎌倉幕府が「朝廷に承認(征夷大将軍に任命)されたから」成立したというのは、学校でそう習った世代、かつ知識を更新してない人だけではなかろうか。
あとは面倒なので説明しない。前提がこんななので、そこから導かれる結論もお察しだと思う。
再度、根本的に「他国がそうでない」根拠を挙げてないので、「日本人の民族性」である説明になってないと思う。
感想欄でいちゃもんつけるより、書きたきゃ自分で書け、というのが一般的ラシイので、別に書くことにした。