切っても良い?
闇の中に浮かぶ白。
非常口を示す仄かな緑の明かりさえも、真っ白な空間の中で酷く青ざめて見える。
人の気配は全て寝静まって、いびきは聞こえても足音ひとつ聞こえない。
昼間のざわめきとは違う静寂の中に横たわっていると、眠れぬ私だけが取り残された気分になる。
ふと、誰も知らぬ間に不可思議な場所へと連れ去られてしまいそうな心細さに、傍らの携帯に手を伸ばす。
点灯した液晶に目をやれば、時刻は午前2時を回っている。
蒸し暑いはずのない、適温のはずの室内で不意に手のひらが汗ばんで携帯を取り落とさぬように、手のひらをタオルに擦り付けた。
拭っても、拭いきれない汗がにじむ。
ナースコールを探っても、あるはずの場所になぜかないらしく、ボタンが押せずにますます汗が滲んで来る。
そうしてしばらく無言で格闘していると、不意に耳鳴りがした。
秋虫が鳴くような盛大な耳鳴りの向こうから、何かが近づいて来る。
ヒタリ、ヒタリ、ヒタリ。
何とも言えない湿って滑ったものを硬い床に当てる音が、明らかにスリッパやナースサンダルが立てる音とは違う音が聞こえる。
耳を塞いでも、その音は近づいて来る。
「違ーう」
ザラザラとした、老人のようなしゃがれた声が呟く。
「ここも違ーう」
ヒタリヒタリと、足音が少しずつ近づいて来る。
「違ーう」
「違ーう」
「違ーう」
どうやらソレは、何かを探しているらしい。
目にするのもおぞましいようなソレの姿を、私はなぜか思い浮かべ、口に両手を当てて必死に息を殺した。
だから、お願いしたのに。
病室に名前を出さないでって。
訝しげな医者と看護師の顔が脳裏を過って、忌々しさに顔を歪める。
アレのことを知らないから、そんな顔が出来るのに。
周りで眠らされている他の患者たちが、羨ましくてたまらない。
この恐怖を知らない人は、この苦痛を知らない人は、皆自分たちが幸福であることを知らない。
「ねぇ、切っても良い?」
不意に無邪気な幼い声が、耳元でささやく。
温かな小さな手がふわりと肩に触れて、そっとなでていく。
「アレ、切っても良い? もう半分以上駄目だから、良いよね?」
手が離れると、止まらなかった耳鳴りも汗も嘘のように引いていて、声の主を慌てて探す私に、声の主は含み笑いを漏らす。
「駄目だよ、覗いちゃ。ーーがなくなっちゃうから」
チリンと、小さな鈴の音がする。
手に触れた小さな布の感触に、ため息を吐く。
これで大丈夫だと、なぜか思った。
「あ゛ー……いたぁ」
ニタリと音がしそうな声音に、軽やかに弾む声が重なる。
「滅☆」
チョキンと、あっけないような音を立てて何かが切れる。
「あーあ。汚いもの切っちゃったなぁ。生き腐れとか、ないよねぇ。業が深いのも考えものだよ」
「いやだぁ……まだ、足りなぁい……足りないよぉぉ……たりないんだよぉ……」
弱々しいしゃがれ声が、足元の方でモゴモゴ言うのに幼い声が嫌そうに応じる。
「ワガママだなぁ。だからお迎えも寄越してもらえないんじゃない?……まぁ、それもこうやって切っちゃえばオシマイだけどね。わたしに切れないものなんて、な・い・し? テヘッ」
ふふふっと、得意げな笑い声を響かせて温かな気配が消える。
どこからか漂っていた悪臭とアレの気配もいつに間にか消えいて、私は引き込まれるように眠りに落ちた。
「あ、寝てるのかと思ったよ」
人の気配にふと目覚めて、窓から射し込む光にお昼ご飯の後にうたた寝をしていたらしいと、目を擦りながらぼんやりと思う。
見慣れたシルエットに、ホッと息を吐く。
ちょっと不機嫌そうな口ぶりに反して、毎日足繁く通って来るこの子には、感謝しても感謝しきれない。
「あんまり寝てると、夜眠れなくならない? 睡眠薬処方してくれるからって、あんまり寝てちゃダメだと思うんだけど」
気難しげに眉間にしわを寄せる、口煩い妹に何となくこちらも不機嫌になる。
「お薬なんて飲んでないわよ。それに、夜はどうしても眠れないんだからしょうがないじゃない」
「だから!」
高くなる声に、迷惑な子だと思う。
険しい表情に、早く帰ってくれないかと心底思った瞬間。
「ねぇ、切っても良い?」
また、あの幼い声が聞こえた。
思わず周りを見回して、家から持ってきたらしい荷物をゴソゴソと鞄から出しているあの子の背後から伸びる小さな白い手と、その手に握られた糸切り鋏に息を呑む。
「あ、そうそう。厄除けだってあげたあのお守りね、実は間違って買ってきちゃってさ。縁切りのお守りだったみたい。ごめんね」
新しいお守りを手に微笑む姿をじっと見つめて、私はずっと靄がかかっていたような意識が急速に晴れていくのを感じた。
「ダメ、切っちゃダメ。お願い、切らないで」
「えー、これ切ればポイント高いのにー。強い絆ほど、縁切りポイント高いんだよ? だからさぁ。ねぇ、いらないでしょ? だって、いつも口煩いじゃない」
コロコロと、可愛らしい笑い声が酷く虚ろに響く。
「お母さん、大丈夫?」
新しいお守りを手にした娘が、心配そうに顔を近づけて来る。
そうだ。思い出した。
この子は、いつも妹に間違われてばかりの、私の娘だ。
口煩くて愛想の悪い、時々煩わしいけれど大切な私の娘だ。
「この病院、なんか変なの。私、早く家に帰りたいわ。早く、帰りたいの」
ベッドに付いた手が、パッと何かを払う。
チリンと小さな音を立ててベッドから落ちたそれは、確かに縁切のお守りだった。