死惑
案内看板、というらしい。
葬式が執り行われる際に、駅前や道路際の電柱に立てかけられる、真っ黒な墨で家名が印刷された、あの看板のことだ。
近頃、その手の代物を目にする機会が多くなった。
ここ二ヶ月の間。きまって一週間毎に、新しい案内看板が最寄りの駅前に立てられている。この街で生まれ育ってもう三十年近く経つが、それだけ頻繁に案内看板が立つことなど、これまでにないことだった。
そんな、ある日の朝のことだ。
私はいつものように仕事場へ向かうために、最寄り駅の券売機に向かい合っていた。
ちらりと視線を動かすと、また今日も新しい案内看板が駅構内に立てられているのが目についた。
亡くなったのは『高沢家』の誰か、らしい。
言い知れぬ不安を覚えて、私は逃げるように改札口を潜った。
駅のホームは多くのサラリーマンたちでごった返していた。
人込みをすり抜けて、私は乗り場の列に並んだ。
アナウンスが響いて、駅の階段を駆け出す人たちの数が一気に増えた。
ホームに滑り込んできた急行電車には、色々な年代の男や女が、すでに疲れきった表情で詰め込まれていた。
先に並んでいた人たちが乗り込むと、もうそれだけで電車は一杯になって、とても私が足を踏み入れる余地なんてなかった。
乗り場の先頭に来た私は、仕方なく諦めて、次の電車が来るのを待つことにした。
まもなくアナウンスが鳴り響いて、猛烈な速度で電車がホームに入ってくるのを知らせた。
その時だった。
不意に、ヒールに包まれた両足が、軽く浮かんだような気がした。
「え?」と思わず声に出した時にはすでに、私は足の感覚をなくしていた。
驚いて下半身を見ると、そこにちゃんと足はあった。ストッキングで覆われた足。けれどもどうしたことか、それが自分のものではないように思えてしまった。
そんな馬鹿げたことを意識した次の瞬間には、足がひとりでにツカツカと小気味よい音を立てて、黄色い線の内側をあっという間に越えていき――全身が、見えない糸で引っ張られるようにして、線路内に頭から飛び込みそうになった。
あ、まずいな。
死の気配が迫っている割には、あまりにも間抜けな感想が脳裡に浮かぶ。電車の車輪が線路と噛み合う。すぐ耳元に、凄まじい音が迫ってくる。
「清橋さん!」
怒鳴り声が聞こえたと同時、私の細い腕を誰かの手が掴んで、物凄い勢いで後ろに引っ張った。
されるがままで、踏ん張る気力もなかった。みっともなくその場に尻餅をついた私の眼の前を、連なる鉄の箱が一切の躊躇なく通り過ぎていく。
電車から降りる人。電車に乗り込む人。揃いも揃って、少しばかり奇異な視線をこちらに向けてくる。
恥ずかしさのあまり急いで立ち上がろうとしても、さっき体感した得体の知れぬ恐ろしさが思い出されて、両足が小鹿のように震えるのを止められなかった。
「清橋さん! 大丈夫ですか!?」
聞き覚えのある声。誰かが私の両肩を強く掴んだ。
振り返ってみると、見慣れた男の子の顔があった。
「若槻君……」
同じ街に住んでいる、会社の後輩だった。
「びっくりしましたよ。立てますか?」
「え、ええ……ありがとう」
私は彼に補助されるかたちで立ち上がると、スカートについた埃を震える手でなんとか払った。その手をぴたりと止めて、私は恐る恐る己の下半身を見た。そこにはちゃんと、私の足があった。
コツコツとヒールの先で地面を叩く。大丈夫。感覚はある。
「具合、悪いんですか? ちょっと休んだほうがいいんじゃ……」
心配そうにこちらを見る若槻君に向かって、私は無理やりにでも笑みを作った。
「なんでもないの。少し立ち眩みしただけだから、平気よ」
言い訳というよりも、自分がそう思い込みたいから口にしたような台詞だというのは、分かっていた。
私と若槻君は、その後やってきた電車に乗り込み、時間ぎりぎりになって会社に到着した。
気持ちを切り替えて仕事に打ち込もうとするも、今朝の出来事が尾を引いて、その日はぜんぜん集中できなかった。
あれはいったい何だったのだろう――定時が近づくにつれ、そんなとりとめもないことを考えてしまう。
錯覚ではなかった。あの時、たしかに私の足は地面を踏む感覚を失くして、そのまま宙に浮かぶように全身を引っ張られ、あやうく電車と激突するところだった。
後ろから誰かに押されたという感じではない。むしろその逆で、透明な誰かが私の前に立ち、ぐっと体を引っ張ってきたという表現のほうが、しっくりときた。
死に引き寄せられた、とでも言えばいいのか。
大袈裟な表現かもしれない。でもそうとしか例えようがない。
案内看板――なぜだか反射的にそのことが浮かんだ。どうしてかは分からない。けれども、一度浮かんだイメージは中々消えてはくれなかった。
血の色に染まる夕陽を背中に浴びて会社から帰る道すがら、私は生まれて初めて、睡眠導入剤を買った。あのホームでの一件を考えると、なんだか不眠症に陥りそうな不安があったからだ。
六日間続けて睡眠薬を使ってみた。薬の効果はてきめんで、ベッドの上で、下半身が消えてしまいそうになる、あの独特の感覚が蘇ることはなかった。
私は気分を良くした。このままいけば、駅のホームで経験したあの恐ろしい出来事を『ただの悪い夢』として葬り去れるのではないかと期待した。
だがしかし、電車に飛び込みそうになった体験から一週間が経過した、ある日のこと。
それをただの悪夢として済ますことなど到底できない、決定的な出来事があった。
▲
大事な後輩が悲惨な最後を遂げても、社員たちはいつも通りの日々を送る。
皆が心の奥底に言い知れぬ哀しみを封じ込めて、何事もないかのように平然と過ごす。
私も例に洩れず、会社に顔を出していた。
けれども断言できる。きっとこの会社の中で、一番精神が擦り減っているのは、この私だろうと。
一週間前。駅のホームで図らずとも自殺しかけたところを、若槻君に助けられた。その若槻君が、自宅で首を吊って亡くなったのだ。
状況証拠から警察は自殺と判断した。遺書はなかった。
まるで私の代わりを務めたかのように。若槻君は死んでしまった。本来なら私が死ぬべきところを代替わりしてくれたようなものだと、彼の死の一報を耳にした時、そう直感した。
若槻君の死後、私のなかでも確かな変化が訪れていた。具体的に何がどう変化したのか説明するのは難しいが、とにかく、どうしようもなく。
死にたい、という気分に苛まれるようになった。
それは浜辺に押し寄せる波のように、一定の感覚で襲い掛かってくるものだった。
朝、出社のために道を歩いている時に、すぐ脇をワゴン車が通った時などは『ぶつかってみようか』と、ふらふらと足が道路に飛び出しかける。が、すぐに我に返って先を急ぐ。
会社に到着して仕事にとりかかろうと、デスクの引き出しを開けてボールペンが目に留まった瞬間、『このボールペンの先を、思い切り首に突き刺したらどうなるだろうか』と考え、実際に行動に出そうになって、慌てて手を引っ込める。
そんな毎日が続いた。
死に向かう本能と、生きようとする理性がせめぎ合っているようだった。
不安から逃れようとした結果、睡眠導入剤の量が日に日に増えていった。朝起きると、頭の中に霞がかかったようにぼうっとする。依存症になるには日が浅いように思えたが、とにかく思考力が格段に下がったのは事実だ。
半ば朦朧としかけた意識のまま無理を通して出社しても、仕事はまったく手に付かない。
仕事用のハサミやカッターといった小道具が目につく度に、全身の肌が粟立って、鋭い刃先を自分に向けて、体のあちこちを刺してやりたくなる。
鮮やかなピンク色をしているであろう内臓の数々をぶちまけて、会社の皆を驚かしてやりたい。そんな残虐な悪戯心に踊らされつつも、わずかに残る理性がなんとかブレーキをかける。
私が、私の身に降りかかっているおぞましさの元凶に偶然にも気づいたのは、そんな死と生の夢幻に満ちた日々を送っている最中だった。
最寄り駅の構内。通夜のために立てられた『若槻家』の案内看板。
会社からの帰りに何気なくそれを見つめていた時、予兆も何もなく、急に稲妻を落とされたような衝撃があった。その時だけは、驚くほどに思考が澄み渡っていた。
「若槻……わかつき……たしかその前は、たかさわ……たかさ、わ」
ゆっくりとした足取りで帰路につきながら、私は一連の流れを整理しはじめた。
ここ二ヶ月の間に、一週間ごとに設置されていた案内看板。そこに書かれていた家名。
意識の隅の隅に寄せていた記憶を、丹念にほじくりかえして結論に至った時、思わずその場にへたり込みそうになるほどの、ある事実に気が付いた。
「しりとりになってる……」
仲谷――八千草――坂見――水雲――百田――高沢――若槻。
その次は、きっと清橋。
血の色に染まる夕陽が沈み、暗黒の夜が訪れる。
私は、呆然とその場に立ち尽くしかなかった。
思い過ごしだと、せせら笑うことはできなかった。
実際、身に降りかかっているこの異常事態を考えれば、ふざけているかもしれないが、理由づけとしてはしっくりくる。
その時ふと、今と似たような状況を描いた映画を、むかし観たことがあるのを思い出した。
飛行機事故をまぬがれた少年少女たちが、次々に不可解な事故で死んでいくというホラー映画。彼らの死ぬ順番は、予約していた飛行機の座席番号順になっていた。
けれども、あれはあくまで映画。架空の出来事だ。なにより、あれは死の運命が無慈悲にも人に襲い掛かってくるというテイストの話だ。
私がいま直面しているのは、それとはまったく異なる。
死に追いかけられているというより、誘われている。死に誘惑されているような感覚が近い。
それも日が経つにつれて、死に対する抵抗力が少しずつ弱まっているのが、はっきりと意識できた。
しまいには、誘いに乗ってやってもいいと、思えるようになってきていた。
死に向かって歩いているはずなのに、張り裂けそうなほどの焦燥感が、徐々に冷めていった。
恐怖やおぞましさがヤスリとなって精神のかたちを削り取り、辛うじて残る僅かな理性すらも、丁寧に、丁寧に、剥がしていく。
死ねばあらゆることから解放されるという、強烈にして鮮烈な『救い』のイメージが、朝日を迎えるたびに、しっかりとかたちを整えて私の中で根付いていく。
生きる事の苦しみから逃れられるのであれば、これ以上の幸福はないのだと、死が囁きはじめた。
その囁きが示す道を歩かなければいけなかった。すべては安心感を得るためなのだ。
この世の苦しみから一刻も早く解放されたくて、だから私はその日、会社を休んだ。
若槻君が自殺してから、一週間後のことだった。
▲
会社を休んだ私は、囁きに導かれて自宅を飛び出した。
小雨降りしきる中、傘も差さずに、駅前のスクランブル交差点に立つ。
平日の午前中でも、人の数は呆れるくらいに多かった。
私は人込みを縫うと、交差点の最前列を確保し、じっとその場に立ち尽くした。
悪寒にも近い快楽の波動が、背筋を鋭敏に駆け上がる。
飛び込むタイミングを、今か今かと待つ私の体中に、冷たい雨が、心をとろかそうと沁み込んでくる。
歩行者のランプが青から赤へ切り替わるのを、心を躍らせて待っている時だった。
またあの時の感覚が、唐突に蘇ってきた。
下半身が消失するような、自分の足が見えない何かに支配されて、自由に操られそうになる感覚。
それが合図だった。
さぁ、飛び込もう。そして楽になろう――そう意識した直後。
私の隣に立っていた中年のサラリーマンが、私よりも先に道路に飛び出していた。
あまりにも突然のことだったが、死ぬには完璧すぎるタイミングだった。
男性の身体は、獰猛なエンジン音を響かせる車という車に撥ねられ、推し潰され、最終的にトラックの下敷きとなった。
あたりから悲鳴や怒号が沸き起こった。
「キヨタさん!」
飛び込んだ男性の連れと思しき女性が、唇を震わせて何事かを叫んだ。
キヨタさん――キヨタ、さん。
そうか。そうだったのか。
しりとりだから、そういうこともあるのか。
だとするなら、すでにかたちを整え終えたこの心を、どこにぶつければいいのだろう。
きっと、以前のような生活には戻れない。
そんな確信があった。
だから私は、トラックの下から夥しく流れる赤い線を――私が救われる絶好の機会を奪った相手を――燃え滾るほどの憎悪を込めて、睨み続けるしかなかったのだ。
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