注射男の一日(三十と一夜の短篇第33回)
「今日も頼むよ」
そういいながら、加崎がデニムシャツの袖をめくって、かさぶただらけの腕をむき出しにし、中央がくぼんだ台の上にひじを乗せる。
わたしはというと、加崎から受け取ったヘロインのうち、百円分を取り除ける。基本は前払いだ。
受け取るものを受け取ったら、残りのヘロインをスプーンに乗せてスナック『ちえ』の百円ライターで炙って溶かす。
ビニールを破いて、新しい注射器を取り出すと、その熱々のヘロインを注射器で吸い込んで、針を上に向けて、ちょびっと出して、注射器を叩く。なかから空気を取り除く行為だが、このときに飛び散るわずかなヘロインに対してすら、加崎は物凄い目で見てくる。ジャンキーというのはそういうものだ。ヤクに対して、徹底的にいやしくなる。それも切らしてるときなら、なおさらだ。注射を叩くなというやつもいるが、それだと空気が抜けないから、血管が詰まって死ぬぞと脅し返すことにしている。だが、いっそ空気がつまって心臓が止まったほうが、やつらにとっては幸せなのかもしれない。
こういうときはとっとと打つに限る。ジャンキーたちはみな自分の腕を縛って静脈を浮かせるまではできる。だが、注射器が使えない。手が震えて打てないのだ。
そこでわたしの出番だ。千円で売られている一回分のヘロイン注射を一回百円で代行している。人呼んで注射男。英語に訳すとプッシュマンだ。
一回百円とはいうけど、ジャンキーというのはカネが入るとすぐにヘロインに変えてしまう見下げ果てたやつらなので、仕方なく現物での払いも受けつけている。つまり、ヘロインで受け取る。
十回注射したら、それが一回分のヘロインになるので、それをジャンキーに売りつけるわけだ。
そして、そのジャンキーから百円分のヘロインを受け取って、注射を打つ。
連中のたまり場は橋の下か暗渠と決まっている。そこにいつも二十人くらい集まって、ヘロインを打ち、お互いを見失うほどの陶酔感を得て、ゴミの上に寝そべる。正直、足を運びたいとは思わない。使い回しされた注射針を踏んでHIVになりたいなら別だが。
さて、加崎の腕の青黒く残った注射の痕を静脈がこんもり盛り上げる。そこに一発打つ。ちょっと押して、引いて、血液とヘロインがシリンジのなかでまじりあったところで、全部入れてやる。
それで加崎は天にも昇る心地だ。それがどういうものか、わたしは知らない。わたしはジャンキーじゃないのだ。幸運にも。
注射男として、川の土手に掘立小屋を建てて住み始めて、もう四年になるが、一回百円の注射稼業で暮らしていけるのは驚きだ。それだけ客が多いということだし、あるいは人間落ちるとこまで落ちると、驚くほどカネを使う機会がなくなる。注射男を始めてから、酒もたばこもやめたが、カネがないからではない。ジャンキーどもを見れば、何であれ、何かの化学物質に依存して生きることの恐ろしさを目で味わえる。この加崎だって、昔は小さいながらも会社の社長だったのだ。IT系ベンチャーだと本人は言っている。その言葉を本気にするわけではないが、しかしあり得ない話でもない。
その日の昼までに、三人にヤクを打つと、外に出て、飯の支度をする。ここで暮らし始めて、飯盒の使い方が恐ろしくうまくなった。それにグリーンピースが食べられるようにもなった。米に混ぜると恐ろしく腹持ちがいいからだ。注射男にグルメはいない。砂利をバケツに詰めた〈濾過機〉に川の水をかけ、グリーンピース飯を焚く。半分は昼飯に、残りは夕飯に食べる。はじめちょろちょろなかぱっぱ。
飯が出来上がるころになると、コジマがやってきた。コジマはこのあたりのヘロインを一手に仕切る売人だ。この男はこれまでヘロインの過剰摂取を利用してジャンキーを十人くらい殺している。つまり、こういうことだ。コジマはときどきジャンキーの一人に一回分のヤクだと言って、十回分に相当する高濃度なヤクを渡す。何も知らないおめでたいジャンキーはそれを一度に打ち、過剰摂取でくたばってしまう。すると、ジャンキーたちはコジマに殺到する。なにせ、過剰摂取で死ぬほど高純度のヘロインを売るのだ。ジャンキーたちはぜひとも自分も高純度のヘロインでぶっ飛びたいと考える。コジマはこのやり方で生存競争を勝ち抜き、商売敵をみな撤退させた。
ヤクの売人というとサングラスにキンキラのネックレスなんてして、手を純金の指輪だらけにしているチンピラだと思うだろう? ところが、コジマはどこかの学校用のブレザーにスラックス、ダッフルコートで高校生みたいな恰好をしている。二十七歳だが、すごい童顔のチビなので中三で通る。そして、中学生というのはヤクの売人にとって、非常にいい目くらましになる。中学生のヘロイン・ディーラー。誰が想像する?
「センセイ、例の件、考えてくれました?」
こいつはわたしのことをセンセイと呼ぶ。中学生みたいななりをして。こいつなりのユーモアだろうか?
くそユーモア。
「言ったはずだ。オーバードーズで死ぬと分かってて、ヘロインは打てない」
どうも商売敵が息を吹き返しそうになっているらしくて、コジマはまたぶっ飛びヘロインを売るつもりでいるらしい。それでそのヘロインだが、SBという通り名のシャブ山シャブ子がいて(SBはSHINUHODO・BAKAの略だ)、その女ジャンキーにオーバードーズ間違いなしのヘロインを打てと話を持ちかけられてるのだ。
「十万払いますよ」
「そりゃ大枚だな。一回千円のパケをいくつ売ったら、そんなカネつくれるのやら」
「千パケ」
「今のは修辞疑問文だ。たった十万で殺人の片棒を担げとか、どれだけ無茶か分かってんのか?」
とは言うが、殺人の罪で刑務所に入っている自分と注射男な自分とのあいだに大した差があるわけではない。それどころか、刑務所では図書館に行ける。そもそも警察がこの掃き溜めのジャンキーの死を真面目に捜査するとは思わないし、もし警察が捜査のために、橋の下や暗渠を封鎖すれば、地下でヤクを打っていた連中が閑静な住宅街にあふれ出し、善良な市民に向かって「ヤク打つんでトイレ貸してください」とか言うのは目に見えている。
だから、捜査はしないのだ。ジャンキーどもをマトモな世界へ散らさないために。
だから、SBにヤクを打つのはそれほどリスキーでもないのだ。死んで当然とみなされているから。
SBに致死量のヘロインを打って、それで十万もらえるなら、むしろいいではないかと思う。失うものがホントにないのだ。わたしがしょっぴかれても、新しい注射男が現れる。
だが、ここまで落ちぶれて倫理もヘチマもなくなった今でさえ、ときどきだが、ヒーローを気取りたくなるときがある。
「とにかくやらない。他を当たってくれよ」
「他って……他に注射男なんていないでしょ?」
今のおれはSBのヒーローだ。なんたってコジマの魔の手から守ってやったのだ。もっとも過剰摂取で死ぬくらいの高純度ヘロインを打たれるチャンスを潰されたと知れば、SBは牙を剥いて、わたしに襲いかかってくるだろう。死ぬほど馬鹿だから。
飯盒を開いていっぱいのグリーンピースがほかほかしている。コジマはわたしを変心させることをあきらめ、もったいないとは思うが、自分で自分に注射を打てる上客ジャンキーを犠牲にするしかないと覚悟を決めたらしい。どっちみちジャンキーが死ぬことは変えられない。
食事を終えると、腹を休めるつもりで、土手を上る。その中腹で腰を下ろし、多摩川を見下ろすと、スレート色の川面に白く乾いた中洲や枯れた葦が姿を見せていて、ジャンキーどもがたまっている橋からほんの数百メートルの河川敷にソフトボール球場があって、本物の女子中学生たちが青春を謳歌している。彼岸にあるのは生垣で区切った芝生だけであり、ヤク中と非ヤク中の世界がこんなに近づくなんて、世の中はどうかしているなと思いつつ、水筒に入れた川の水を飲んだ。いや、ホントはこのうち何人が地獄へ堕ちるだろうと思いながら飲んだのだ。
いきなり背中を蹴飛ばされ、水筒が手から飛び、わたしは土手の芝生に腹から倒れた。蹴りが次々と繰り出され、わたしは頭と腹を守るように身を丸くしながら河川敷まで蹴り落とされて、うつ伏せに倒れて、ウレタン樹脂を張ったジョギングコースにキスをした。
そこを蹴飛ばされ体を裏返しにされると、所轄の刑事、波多野と嵯峨野のガーゴイル面が飛び込んできた。
「もっと運動したほうがいいぞ、センセイ」
「注射なんて運動のうちに入らないからな? ソフトボールはどうだ?」
「そりゃだめだ、波多野。こんなヤク中の腐れジャンキーを純朴な女子中学生の群れに放り込む? そりゃ絶対なしだ」
「じゃあ、水泳はどうだろう?」
「そりゃいいな、波多野。何せここは川のそばだし、こいつときたら、くせー。川の水の臭いがするぜ。多摩川の臭いがな」
真冬の多摩川に放り込まれた。これでも軽く済んだほうだ。
「なあ、何を言わせたいんだよ?」と、わたし。「言ってくれ。何でも言うから」
「それじゃ、おれたちがお前に証言を強制したみたいじゃないか」と波多野。
「そんなの、おれたちの流儀じゃない。おれたちは市民の皆さんのご協力が欲しいだけだ」と嵯峨野。
「もっとも、お前が市民なんて立派なものかどうかは怪しいがな」波多野はわたしを叩くフリをした。「たぶんこいつは税金を払ったことがねえ。ヘロの売人どもがヤク中から消費税を取ったなんて話はきいたことがない」
「わたしは売人じゃないよ」
「そうだった、注射屋だった」
「ご立派な職業だな、クソ野郎」
「分かった。わたしは虫けらだよ。何を言ったらいいのか教えてくれ。ほら、そこのソフトボールやってる子たちがこっちを見てるぞ」
「じゃあ、あのメスガキどもがおれたちをスマホで撮ってユーチューブにアップする前に売人の名前を三人ゲロしろ。三人だ」
「知らないよ」
バシッ! びんたが飛ぶ。波多野の手はタウンページみたいにでかい。
「ふざけんなよ、こら。コジマのヤローがパケに十人分のヤクを詰めてるのは知れてるんだ。戻ってきたんだろ、売人どもが」
「そこまで分かってるなら、コジマをいじれよ。わたしじゃなく」
「まるで大学教授みたいな口ぶりだな。刑事部長が自分を『わたし』と呼ぶなら分かる。おれのおふくろが自分を『わたし』と言うなら分かる。お前みたいな人間のクズがいっちょまえに『わたし』だなんて言葉を使いながら、おれたちに口を利くことが許さねえ。むかつくんだよ」
「でも、わたしは――」
バシッ! タウンページが顔面へ吹っ飛んできた。
「おいら」嵯峨野が訂正する。
「……おいらは知らないんだ。何にも」
ついにわたしはすすり泣きを始めた。コジマが詰めた十人分のパケのためにこんな目に遭う理由などないのだ。しかも、女子中学生たちが見てる前で、この二人の野蛮人は子どもにヤクを売る売人を懲らしめるタフなヒーローを気取っている。でも、こいつらのしていることなんて、ただの弱いものいじめじゃないか。
「明日、また来る」
「それまでに三人。名前を言えるようにしておけ」
「それとな、センセイ。もう川の水は飲むな」
「くせーんだよ」
女子ソフトボール部たちが訝しげに眺める。「なに、あのオヤジ?」「こじきじゃね?」「マジきもい」わたしはずぶ濡れの体のまま、橋の下へつながる河川敷を歩いた。靴のなかでかかとが水をぐっちゃぐっちゃと噛む音をききながら、わたしの小屋へ戻ると、震えながら濡れた服を脱ぎ、外の物干し竿につるし、毛布をかぶって、それでも寒さをシャットアウトできず震えていた。
明日言わなければいけない名前が一つもないまま、夕暮れ時がやってきた。高層マンションのあいだにすとんと落ちた太陽に引火して燃える住宅街。燃えるヘロイン・ゾーン。燃える本日休診の札。
服は冷たく凍りつき、わたしは震えながら、小屋に息を潜めていた。他人に注射するどころではない。
このまま眠ると死ぬかもしれない。そう思い始めたころに誰かがナマコ板とベニヤ板でつくった扉をガンガン叩いた。
「今日は休みだ!」
それでも外の馬鹿者は扉を叩くのをやめない。
「休みだってば!」
「開けてよ、センセイ。一発打ってほしいんだよ」
なんてことだ。SBの声だ。
毛布を頭からかぶったまま、ドアを開ける。
人間震源地。ヤクの切れたSBは相変わらず体の震えが止まらない。
「なによ、センセイ」
「寒中水泳してたんだ」
「そんなことよりヤク打ってよ」
「今日はそんな元気ないよ」
「打ってくれるまで、ここで騒いでやる。あんたの洗濯物にションベンひっかけてやる」
SB。SUGOKU・BITCH。
「分かった。分かったからパケをよこせ」
ここでおれに注射を頼むジャンキーたちが必ず繰り広げる葛藤劇が起こる。手に入れたヘロインはたとえコンマ一秒でも他人の手に渡したくない。でも、渡さないとヤクが血管を流れない。血管を流れない限り、ヤクは片栗粉と変わりはない。しばらく逡巡した挙句、結局渡す。
黄色いパケ。
「おい、これ、どこから買った?」
「そんなことどうでもいいだろ。ヤク打ってくれよ」
「コジマ以外の売人だな?」
「そんなのあんたに関係ないだろ」
「教えろ」
「ヤクを返せよ」
「面白いこと言うね。おれ以外にお前に注射を打つやつがいるのか? どこかの病院にいって、頼むか? ヤク打ってくださいって」
「ふざけんな、このヤロー!」
「比較的手元がまともなジャンキーに頼むか? 馬鹿なビッチめ。ヤク全部取られて終わりだ。いいか、この世にはな、お前の静脈にヘロイン打ってくれるやつはわたししかいないんだ。さあ、言え。帰ってきた売人の名前を三人だ。言わなきゃ、このヤクを全部川に捨ててやる」
SBはすすり泣きを始めた。震えが大きくなり小屋が揺れ出した。数時間前、わたしは彼女のヒーローになった気でいたのだ。とんだ思い違いだったが。
「なあ、SB」わたしは優しい声で話しかけた。「わたしも困ってるんだ。三人の名前を言わないと、波多野と嵯峨野にいたぶられる。お願いだ。三人、教えてくれ。教えてくれたら、ただでヤクを打つから」
「エースと新田。それにカブさん」
わたしは千円分のヘロインを打ってやった。これでわたしは彼女のヒーローだ。
SBを外に追い出し、ヒーロー願望に見切りをつけると、わたしは毛布をかぶった。寒くて震えが止まらなかったが、気分は悪くなかった。
差し出せる名前が三つもある。だから、もう川に叩き込まれることはないだろう。
明日は今日よりよい日になる。
それは間違いない。
それはクソッタレな世界で生きる注射男が望みうる最大の褒賞なのだ。