"時間"と云う概念について
なんか、地味にこんな戯言のコラムが結構な頻度で読まれている事に筆者は驚きっ放しと云うのは前回の冒頭挨拶と一緒で変わり映えせず申し訳ない……
前回はあるいみタイトル詐欺っぽく内容もほぼ無く本当に戯言の駄文垂れ流しだったが、今回は自身の覚え書きも兼ねてと云う事でチョットだけ真面目に時間と云う概念について書いて行きたいと思う。
SFにおいて時間と云う概念は度々取り上げられる事がある。
時間旅行であったりタイムパラドックスであったり、ちょっとソレらとは違うが平行世界の同一時間線上の事だったり。
SFに限らずだが、それらを扱う場合大抵は1日24時間と云う一般常識が主に使用されると思うが、では何故1日が24時間なのかと根本をこれを読まれている方の中で考えた事がある人は居るだろうか?
もし居たのならコメントにでも書き込んで貰いたい。
ってか、こんな事を書くと"1日が24時間なんて当たり前じゃん"と言われるかもしれないが、それは自分達がそう教育されたからであり、時計等が一般化して広く普及しているからの常識として刷り込まれているからに他ならない。
そして筆者は疑問に思った。
時計そのものの歴史は紀元前3000年程から存在しているが何故それが1日24時間であり、その証明はどの様に行われたのか、と。
そして筆者は断片的な知識は有していても、それを詳細に調べて行くとなかなかに面白かった。
時計そのものは紀元前3000年程度には存在しているにも関わらず、その証明が行われたのはたかだか170年程前の出来事なのである。
この約5世紀の間、誰も地球の1日が24時間であると云う証明をしなかったのである。
証明が出来なかったのか、それとも只行われなかったのかは最後までハッキリとした記録を見付ける事は出来なかったが、残っている記録上から推測するに後者であると筆者は推測する。
この詳細を調べている間の筆者の気持ちはまさに時間に関してを扱っているが故に時間旅行そのものであったと言っても過言では無い。
そんな事をしているなら滞っている物語の執筆でもしろよ!と、お叱りを受けるかもしれないが、気になってしまったものは仕方がない。
稚拙な文章故、筆者がその時間旅行していた時のワクワクをどれだけ伝えられるかは分からないがお付き合い願いたい。
日時計と云う時間を観測する為の道具が世の中に顕現する以前、人々の生活の中では昼と夜とその狭間の時間帯しか存在せず、その神秘は神々の営みとされていた。
SFと云うよりファンタジー寄りなお話である。
そして紀元前3000年頃、シュメール文明(古代メソポタミア文明)において日時計が顕現する事となる。
誰がどの様な経緯で時計が開発されかは全く分かってもいないし記録も残ってはいないが、このシュメール文明の数学はその当時で非常に進んだものであり、60進法が用いられていた。
この文明の数学はバビロニア数学と呼ばれるが、これにより星の運行計算などを行う天文学の分野が発展したと言われている。
"60"と云う数が用いられている事から星の観測と時計と云うものに深い繋がりがある事をが見て取れる。
これが今では一般的に使われなくなった60進法が今でも時計の中に残っている所以である。
では1日が24時間と云うのはどこから来たのか。
シュメール文明が60進法を利用していたなら24なんて単位は中途半端じゃないかと思われるだろうが、この文明は天文学が進んでいたと云うのは先の説明の通り。
地球に最も近い星である月に関してもそれは同様で、この月の満ち欠けは30日周期で行われる事も観測によって早い段階で判明していた事は推測出来る。
これが12回繰り返されると観測を開始した季節に戻って来る事から、これらの数字を用いた事も容易に想像が出来るだろう。
それ故"月"は30日と云う単位が用いられ、それを12周期集まったものを"年"と云う単位にした。
人々の生活の時間には昼と夜が存在し、その時間のにこの"年"と云う概念が組み込まれたのだろうと筆者は推測する。
昼と夜の時間を足した数字が24になる故に"日"は24時間になると云う訳だ。
(紀元前2000年頃にはバビロニアで昼間を6等分にした日時計が使われていた記録がある事から元々は1日は12時間だったのかもしれない)
では何故に陽の光が出始める時間帯を起点にせず、12時もしくは24時(0時)が時間の起点になるのかは、ここで日時計の存在である。
日時計において12時と云うのは陽が最も高い位置にある時の状態なので、その観測板に伸びる影は最も短くなる。
何故最も影が長い状態の時で無く、最も影が短くなる状態を起点として採用されたのかは謎ではあるが、そこらはSF的な物語の材料としては非常に美味しい素材と言えなくも無い。
SF作品やファンタジー物だと惑星間旅行だったり、夜空に浮かぶ月が複数個存在していて地球とは異なる世界環境を描写される事が多々あるが、この時間について細かな描写が為される事は皆無というくらいに扱われる事は無い。
それは先に述べた1日が24時間であると云う刷り込みににも似た常識が存在するからだ。
それ故、自身が理解できる道具──例えば地球時間の時計等を基準にしてそれとの対比で語られる事が一般的だ。
SFであれば主人公たちの操る星間船で対象の星を観測して1日の時間を知る事が出来るが、ファンタジー系だとその方法も取れない。
感覚的な時間の概念はあったとしてもその正確性を証明出来ない訳だから当然かと思われる。
──で、ここで1日の時間概念の正確性の話に戻って来る訳である。
先に軽く述べている通り、時計と云う物は存在していてもその正確性を証明するまでには約5世紀の時間の開きが存在している。
この時間の正確性が証明されたのは1851年の事で、同時にこの証明実験でこの地球と云う存在が自転によって成り立っていると証明されるものだった。
概念としては地球と云う惑星が自転する事により陽が移り変わると云う地動説は存在していたが、それを証明出来なかったのである。
時間の正確性だけで言えば天動説であっても証明は可能であるとは思うが筆者の調べ方等が悪かったのか、それを示す様な文献を見付ける事は出来なかった。
この地動説の証明による1日と云う単位での時間の正確性はフーコーの振り子によって証明される事になる訳だが、その仕組みは至極簡単でそのあまりに単純な仕組み故にその機器を一緒に観察した科学者達は『なんだってー?!』な状態だった事だろう。
そんなコロンブスの卵的な実験機器で地動説と1日と云う単位での時間の正確性は証明された訳だ。
(フーコーの振り子は実験機器でもあるが同時に時計としての意味合いもある為に筆者はこの様に取り上げている)
つまり地球以外の惑星系であってもこのフーコーの振り子を用いれば1日を構成する所要時間をその惑星の地表に立ったまま計測する事がとりあえず可能なのだ。
重力の関係も関わって来るので地球上と同様とは流石に思わないが、指針のひとつとしては充分参考になる程度にはなると筆者は想像する。
そこらは筆者自身が理系人間で無い為詳しくは無いが、物語を書く上でのナンチャッテ理論を展開する程度なら暴論だがこの程度の理解で充分なのである。
さて、これが筆者の体験した時間旅行の覚書である。
時間旅行と云うよりは歴史の勉強のようもでもあるが、視点やその表現方法をちょっと変えてみれば時間旅行と言えるだろう。
結局SFなんてそうやって見る方向性を変え、その表現方法は悪い言い方をすれば厨二病的に飾った言葉を積み重ねただけの物語に過ぎない。
……と、無理矢理締めた所で今回の戯言は終了。
また何か話題に出来そうなネタを見付けたらダラダラと戯言を垂れ流すかもしれない。
執筆している物語達に関してはのんびりとした不定期更新でやっているので、もし宜しければそちらの方も楽しんで貰いたい。
感想や評価等をしてくれると筆者としても続きを書く為の原動力となるので、是非お願いしたい。
と、ダイレクトマーケティングをしたまま逃げる様にこの戯言コラムを締める事としよう。
駄文な戯言に付き合って頂きお疲れ様でした。
感想欄に戯言を読んでの文句や感想等を頂けると筆者は画面の前で小躍りしてしまいます。