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オリンピック100メートル決勝。
1コースより順番に、各国の代表がスタジアムの観衆に紹介される。第3コースのアブデゥの名もアナウンスされた。しかし、アブデゥの耳にはその声が届かない。彼はこれまでの生涯すべてを、この一瞬のために捧げてきた。全世界の人々の前でメダルを獲得することで、彼の今後の生活が保障される。彼だけではなく、延べ40名の親族の境遇が変わる。清潔な水を得るために片道7キロの悪路を往復し、トウモロコシの粉だけで腹を満たすという生活が終わるはずだ。
隣の第4コースのアメリカ代表が紹介される。金メダルの最有力候補は、観衆に向かい大きく手を振っていた。アブデゥはそんなアメリカ代表を横目で睨み付ける。こんな奴に負けるわけにはいかない。ハイスクール時代より大手スポーツメーカーの手厚い保護下で、計算されたトレーニングメニューをこなしてきたような選手にだけは、負けたくはなかった。
今年で31歳となるアブデゥに、4年後という次はない。
アブデゥは、ユニフォームの下に隠れている十字架に手を当て祈る。物心ついてから、信仰を失ったことはなかった。この歳にしてこの大舞台に立つことができるのも、神の導きであると信じていた。そしてついに、彼の望みは叶えられる。慎ましやかな望みが。
スターターが位置に付く。選手たちは皆、スターティングブロックに足を乗せた。
アブデゥは息を止め、体中の神経を集中させ発砲を待つ。この瞬間だけは、聴衆も黙り、スタジアムは静寂する。
音を皮膚で感じたアブデゥはブロックを蹴る。音の波が耳に届くまでに、足を踏み出すことができた。これまでにない、最高のスタートとなった。それにも関わらず、隣のアメリカ代表はアブデゥの一歩先を走っていた。
アメリカ代表選手の勝ちパターンだった。爆発的な瞬発力でスタート直後から飛び抜け、そのまま逃げ切りゴールする。
しかし、アブデゥは追い込みにこそ自信を持っていた。
5歩目から上体を起こし、胸を張る。足のギアが1速から2速・3速へと上げられる。
今日はいける。スパイクがトラックに触れ、蹴り飛ばされるリズム。足の回転。腕を振る角度。どれをとっても完璧だった。
まだ、アメリカ代表は前を走っている。
アブデゥの脳裏に、幼少時代からの光景が見える。学校は10キロ離れていた。家では家畜の世話や弟妹の面倒も見なければならない。ゆっくりと学校へ行っている余裕はなかった。だからアブデゥは学校と家の往復を、いつも全力で駆けていた。それでも学校は好きだった。なにしろ、お腹いっぱい給食が食べれるのだ。
前を走るアメリカ代表は、どのような生活を過ごしてきたのだろうか。近代的なトレーニング施設で、バランスの良い食事を摂り、練習後は入念なマッサージを受けたのだろう。
アブデゥの足には、一層力が込められた。最速までギアを上げ、トップスピードを保つ。この時点から、アブデゥの本領が発揮される。トップスピードから更に加速する。飛ぶように体が前に進む。景色も他の選手も流れる線でしかなくなった。ただ一人、アメリカ代表の背中だけが見えている。
アブデゥは、かつて無い領域のスピードにまで達した。スタジアム全体が興奮していることだけが、周囲の気配として感じられた。いつのまにか、アメリカ代表の背中は消えていた。直ぐ隣から、トラックを蹴る音が聞こえる。ついにアブデゥはアメリカ代表に並んだのだ。
ゴールラインが見える。アブデゥは条件反射として胸を反り、倒れ込むようにその白線を通過した。
無呼吸状態を終え、久しぶりの酸素が肺を満たす。
負けてはいない。アブデゥは確信していた。アメリカ代表よりも、ほんの僅かな差ではあるが、アブデゥは先にゴールを通過したはずだった。
電光掲示板の最も高い場所には、カナダ代表選手の名があがっていた。全くノーマークの選手だった。アブデゥは5位。無論メダルには届かなかった。6位という結果に終わったアメリカ代表は、トラックにうずくまり動けないでいた。
コーチが彼の肩を支えて立たせようとしたが、乱暴にその手は払いのけられた。そしてアメリカ代表は、アブデゥには理解できない言葉を叫んでいる。それが、何かに対する罵りの言葉であることだけが、口調からうかがえた。
アメリカ代表は彼のスポンサーとなっているスポーツシューズメーカーのスパイクを脱ぎ捨てる。そしてユニフォームも脱ぎ、首にぶら下がっていた十字架を無造作に放り投げた。アブデゥが持っている十字架と、よく似た物だった。
アブデゥは、アメリカ代表選手の足の裏に、無数のマメができていることを発見する。アブデゥの倍ほどもあった。
そしてアブデゥは、カナダ代表選手がアブデゥと同じ大陸の出身者であることも、後に知るのである。