強奪
アイマスクを外すと機内アナウンスが聞こえる。当機は間もなく着陸態勢に入ります、シートベルトをおしめくださいませ。日本語のアナウンスに次いで英語でも注意喚起が行われる。倒していたリクライニングを戻し、指示に従った。
隣の通路側に座るアレックス・モーガンがイヤホンを外し、そばかすの鼻をこすった。「ようやくだね」
「ずっと映画を見ていたの?」
「だって面白いんだもん、この十三人の刺客」言って、アレックスはあくびをした。
「観光に来たんじゃないのよ。私達は重要な仕事があって日本を訪れるの」
「それはわかってるよ。でも、飛行機って退屈だしさ」
「ちゃんと寝ないと時差で泣きを見るわよ。その点、ケンの方が自覚はあるみたいね」
窓際に座るケン・ライスを見る。二メートルに迫ろうとする巨体を狭苦しそうに丸め、いびきをかいていた。ケンは肩をゆすられると体を起こして首を回した。「仕事で来てんだからせめてビジネスクラスに乗りてえよ」
「私達は秘密警察も同然なのよ」声を抑えて静かにするようジェスチャーする。「官僚でもないのに悠々と乗れるわけないでしょう」
「インスマウスに行くときすら車も手配してもらえなかったからな」ケンは白けたように耳をほじった。「飛行機代が出るだけマシか」
「でも今回は、インスマウスより危険かもしれないね」アレックスが取り出した資料に目を通した。そこには一人の人間の経歴が箇条書きで印刷されている。「なんてったってアザトースが関わってくる」
資料に目を走らせる。朝霧真人、現在十七歳、資料に添付された写真の片方は正面を向いて撮影されている、おそらく学生証のために撮られたものだろう、背景が青一色の顔アップ写真だ。もう一方は街中で撮影されている。カメラに目線は向かず、非正規の方法で撮ったものだと推測できた。日本人らしい黒髪は白く染まっており、右目を眼帯が覆っている。
ケンが呟いた。「こんなひょろっちいのがアザトースの門、か」
「イゴローナクやハスターに憑りつかれた人は見たけど、どれも人間の形をなくしてたよね。それらと比べたら驚くくらいまともだ」
「そうね」頷いて資料を読み進める。去年の七月にシャンにより拉致、儀式を受けるも生還。日本政府は死亡したとして社会的には存在を抹消。以降日本政府の監視下の元いくつかの超常的事件に関与、その原因となる生物を全て殺傷している。
アレックスが肩をすくめた。「経歴だけ見るとヒーローだね」
「どうだかな、ここに書かれてる事件は全部こいつが起こしたってこともありえるかもよ」
「何のために?」
「理由なんざいるかよ。化け物の思考は理解しちゃいけねえ」
「化け物だとしても、結果的に怪物を倒してきたのだから、やっぱりヒーローなんじゃないかなあ。何で日本は彼を売るような真似するんだろ」
「怖いんだよ。手元に危険物を置きたくない、そういう弱腰な国なのさ」
「ねえ」アレックスが顔を向けた。「ヘレンは彼をどう思う?」
「私は……」じっと資料を読み通していく。最後まで読んで口を開いた。「わからないわね。やっぱり直接この目で見ないことには」
安易に結論を出すべきではない。焦りは失敗を誘発する。
とうとう飛行機が着陸態勢に入る。軽く胃が引っ張られるような感触の後に小さな振動が走った。やがて停止した機内にアナウンスが入る。乗客達は降機のために荷物を取り出し始めていた。
立ち上がって収納棚にしまっていた肩掛けかばんを取り出す。銀製の留め具に五芒星が彫られた革製のかばんは、曾祖父の代からずっと愛用してきたものだった。ヘレン・アーミテイジはコートに袖を通し、出口へ並ぶ列に加わった。
アレックスが言った。「うまくいくといいね」
「そうしなきゃいけねえだろ、そのためにアレを持ち出したんだからよ」
言葉にせずとも同意した。私達の任務はいつだって失敗は許されない。
迎えは昼を回る前にやってきた。アパートの前で待っていた真人の前に小型の一般車が止まると、中から見知らぬ男が二人現れる。押し込まれるように後部座席へと案内されると、両脇に男達が座り込んだ。助手席には片桐が座っていた。振り向いてこちらに申し訳なさそうな視線を投げかける。
真人は苦笑した。「大変そうっすね」
片桐も笑みを返した。「囚人の護送よりはマシさ」
車は何事もなく羽田空港に到着した。うながされるままに車から降りて空港内へと歩く、ターミナル内の到着ロビーに設置されたソファーに腰かけ、来訪者を待つこととなる。その間もずっと両側を男達に挟まれていた。
キャリーケースを引きずった人々が行き交い、せわしない印象を覚える。国境を超えるというのはそれほど大変なことなのだろうか。生まれてこのかた日本から出たこともない真人には珍しく思えた。
速足で歩く人込みを見つめながら真人は尋ねた。「もっと大人数で行くかと思ってましたけど、違うんですね」
片桐が腕時計に視線を落とした。「ハリウッド俳優の来日や、スポーツ選手の凱旋じゃないからね。大挙して押し寄せて、変に注目を集めるわけにはいかない」
どんな時でも秘密裏に対処する。これまで関わった事件で警察がとった動きと同じだ、僅かでも怪異の存在があるなら徹底して秘匿する。真人自身の存在も、戸籍上死亡している。それが正しい行いとは思わない、しかし必要ではあると内心理解している。
深く腰掛けたまま天井を見上げる。溜息を吐き出して視線を戻すと、片桐が立ち上がっていた。「来た。少し待っていてくれ」
片桐が向かう先から三人組の外国人が歩いてくる。以前に伝えられた通り全員が学生らしく若者だけの集まりだ。男子が二人に女子が一人、女子を中心にそれぞれケースを引っ張りながら進んでいた。
三人の前に出た片桐が口を開いた。「ウェルカム」
「日本語で大丈夫ですよ」真ん中の少女が手のひらを向けた。「一通り学んできました。ヘレン・アーミテイジです」
完璧に近い流暢な発音だった。外国人特有の妙なイントネーションは微塵もない。片桐は感嘆の息を吐いて差し出された手を握った。「ようこそ、ヘレン」
アメリカ人らしいブロンドのロングヘアと青い目、スタイルの良さは白いダッフルコートに下からでもわかる。外国美人とでも呼ぶべき容姿だった。
ヘレンは微笑んで隣の男子を紹介した。「こちらこそよろしく、ミスタ片桐。こっちの赤毛がアレックス・モーガン、大きい方はケン・ライス。どちらも私の幼馴染で、ミスカトニックの所属です」
片桐がそれぞれと握手を交わすと、革のジャケットを着込んだケンがあたりを見回した。「例のアザトースの門は?」
「ああ」片桐が躊躇いがちに真人に視線を向ける。三人の視線がいっぺんに集中した。
ケンが大股で歩いて近づいてくる。二メートルは近いだろうか、視線を上げると筋肉質な体のせいで余計に大きく見えた。
ケンが鼻を鳴らした。「見れば見るほど小せえな、本当にこんなのがあのアザトースと繋がってんのか?」
「ケン」アレックスが声を上げた。「いきなり近づいちゃ危ないってば」
「ビビんなよアレク。ヘレンも来いよ、直接見て確かめるんだろう?」
ヘレンが額を抑えながら歩いてくる。真人の前まで来るとしゃがみ込んで視線を合わせた。青い瞳がじっと凝視してくる。居心地の悪さを感じて真人は視線をそらした。
ケンが尋ねた。「どうだ?」
ヘレンが首を振って応える。「わからないわ。でも、あなたのその態度はあまり褒められたものじゃないと思うわよ」
「なんだよ、日本人みたく謙虚にしろってか」
「日本にはね、郷に入っては郷に従えという言葉があるの。この国にいる間くらい、もう少し気づかいを心掛けなさいよ」
強い口調でたしなめられ、ケンがつまらなさそうに口を歪ませた。アレックスはそばかすの鼻をこすりながら笑っている。どうもこのヘレンという少女がリーダー格のようだ。
戻ってきた片桐が眼鏡を引き上げた。「それじゃあ行こうか。他に荷物などはあるかな?」
「いえ」ヘレンが首を振った。「装備も全て用意してあります。さっそく向かいましょう」
どうやら出発する時間らしい。真人が立ち上がると隣の男達も腰を上げた。
その時だった。足元で空き缶が転がったような音が鳴った。視線を下げると円筒状の黒い物体が転がっていた。次の瞬間、視界が白に塗り潰された。強烈な耳鳴りに襲われ、思わず立ち眩みを起こす。両耳を抑えていると何かにぶつかってバランスが崩れ、そのまま地面に倒れこんだ。
未だに続く耳鳴りの中でぶれた視界が元に戻っていく。周囲の人々が一様に混乱する中、背広を着た男が猛然と走り去る姿があった。騒然とするターミナル内をダッシュする男はキャリーケースを両手で抱え上げている。
「大丈夫かい?」回復した聴覚に片桐の声が届く。頷いて立ち上がると、男の姿はもう見えなくなっていた。
三人組も見張りの男達にも外傷は見えなかった。しかし、ヘレンが青ざめた顔で周囲を見渡した。「盗まれた!」
「ヘレン、君のケースが奪われたのか?」
「ケースだけじゃない、早くあの男を見つけないと……大変なことになる!」
片桐が努めて冷静に言った。「落ち着いて。ケースには何が?」
「本です、ミスカトニック大学から許可を得て持ち出した稀覯本」
「稀覯本だって? 何でそんなものを……」
「あれが必要な装備だったんです。早く取り返さないと……あれはネクロノミコンなんです!」




