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アザトース・ゲート  作者: 赤沙汰月倫
プロローグ
3/10

門開く時

 どこをどう走ったのかわからない。気づけば見知らぬ公園に逃げ込んでいた。少年に手を引かれるまま穴ぼこの遊具の中へと連れ込まれ、そこでようやく手首が離される。逃走中、頻繁にあの刺激臭が漂い、怪物が姿を現した。その度に少年が五芒星を描き、撃退を繰り返した。

 心臓が跳ね続け、服の下で噴き出る汗が不快な感触を生んだ。慣れない運動にせき込み涙が浮かんだ。少年は地面に指で五芒星を描いていた、二つある出入り口にそれぞれ書き込むと、脱力して大きく息を吐いた。

「しばらくは大丈夫だ。あいつらは曲線には入ってこれない」

「わけわかんない、何なのあれ? いきなり出てきて、顔が無くて、襲ってきて……意味不明だよ」

「すまん」少年がうなだれた。「関係ないのに巻き込んだ。注意不足だった」

「ちゃんと答えてよ、あの怪物は何なの?」

 縋るような精華の問いに少年は額を抑えていった。「俺たちが住んでいる世界とは異なる『尖った世界』に住んでる化け物だ。九十度以下の鋭角から襲ってくる」

「なにそれ、中二病の設定なの?」

「残念だが冗談なんかじゃない。本当に、そういう生物なんだよ」

 精華は顔を覆った。信じたくはない、しかしあの醜悪な怪物の存在は現実のもので、受け入れるしかない。握り合わせた手が小刻みに震える、漫画や映画のような創作物などでは決して作り出せない本物の恐怖が体を支配していく。

「あいつらは」少年が呟いた。「自分達の姿を目撃した者をとことん追いかける習性がある。それこそ殺すまでだ」

 精華はぞっとした。「私、見ちゃったよ……」

「奴らは鋭角さえあればどこだろうと侵入できる。おかげで一週間近くまともに眠れてない」

「ちょっと待って、じゃあ私も追いかけられるってことなの。ただ見ただけなのに?」

 沈黙が流れる。これから時間を問わずにあの怪物に狙われ続けなければならないのか。絶望が重圧となって胸にのしかかる。精華は地面を見つめていた。視界がぼやけ、瞳から滴が垂直に落ちていく。落ちた個所の砂の色が変わった。

「理不尽だよ……」

「そうだな」少年が真顔になって告げた。「だから理不尽には理不尽で立ち向かう」

 どういう意味なのか。精華が尋ねようとした時だった。視界が小刻みに震え、体のバランスが崩れる。地震だった。遊具の内壁に手を付けると、硬質が割れる音がした、地面に亀裂が入っていた。

 やがて揺れは収まる。安堵の息を吐くと、鼻にあの刺激臭が侵入していた。亀裂から青黒い煙がのぼっている。精華は悲鳴をあげた。枝のように伸びたヒビが鋭角を作り出していた。次第に煙が形を成し、悍ましい異形が顕現しようとしていた。

 恐怖が体を支配していた。手足が思い通りに動かない。まともに立ち上がることもできずに四つん這いの恰好で遊具から逃げ出した。

 顔を上げた精華の視界にジャングルジムが映った。鉄骨の継ぎ目から煙がのぼっている。固定化した煙が何匹もの怪物と化して地面へと降り立った。顔のない顔が精華を捉える、唸り声をあげて怪物達が迫ってきた。

 恐ろしさにすくんで頭を抱える。真っ黒になった世界で悲鳴にも似た雄叫びが響いた。おそるおそる目を開く、精華と怪物の間に立ちはだかるように人間が立っていた。

 女物の赤いジャケットを身に纏い、ストレートの黒髪が揺れている。その顔が僅かに振り向く、小顔に少し吊り上がった目つきと通った鼻筋があった。肌は少し浅黒く、かなり若い女性だった。口は真一文字に結ばれ、異形を前にして眉一つ動かさない。冷たさを感じる態度からはいささかも幼さは感じなかった。

 服の下からでもわかる細い腕には女性の身の丈を超える長い棒が握られ、その先端には湾曲した刃が備わっていた、さながら死神の鎌のようだ。その切っ先が怪物に突き刺さり、青い液体がこびりついていた。しばらくもがいていた怪物はやがて力尽きたのか身動き一つしなくなった。

 刃を引き抜いた女性が口を開いた。「ご無事で何よりです」

「うるさい」憎ましげに少年が応えた。「心にもないことを口にするな、どうせどっかで見物してたんだろ」

 少年の方を見ると、その後ろで、亀裂から生まれた怪物が横たわっていた。体積が半分消えた体が痙攣を繰り返しながら青い液体を放出していた。

 怪物達はこちらを取り囲むようにして包囲した。そのうち一匹が突出して襲い掛かってくる。夜の闇に銀色の光が走ると、鎌の先端が怪物の腹部を横から貫いた。そのまま降りぬいた動作で死体が群れの中に投げ返された。

「もうじき王が来ます」女性が精華を見つめた。「このままでは確実に巻き込みますが、いかがいたしますか」

 眉間にしわを寄せ、少年が舌打ちした。「守れ、絶対に傷つけるな」

 女性が頷くと同時にまたも視界がぐらついた。さきほどよりもずっと強い揺れだ、地鳴りの音が不気味にあがる。公園の敷地を両断するように亀裂が走っていく。怪物達は頭部を持ち上げ、遠吠えのように叫び声を発した。冒涜的なコーラスが耳をつんざき、強烈な悪寒を与える。亀裂から立ち上る煙の量はこれまでの比ではなかった。

 噴煙と悪臭が世界を満たしていく。固定化していく頭部の形状は三又に分かれ、中心にある青い舌は巨大な蛸の足にも思えた。地面から伸びた腕は大木のように太く、爪が女性の鎌よりも大きい。今まで出現した怪物とは桁違いの大きさだった、顕現した上半身だけでも小さなビルを越している。

 三又の口が開き咆哮が鳴り響く、悪臭を乗せた強風が顔を蹂躙していった。精華の歯がかち合って鳴っていた。私は助からない。

 少年が精華の前に出た。風でフードがめくれて完全に頭があらわとなっていた。老人のような白髪に黒い紐が斜めに通っていた。少年は巨体を見上げると、この場には似つかわしくない、落ち着いた息を吐いた。

 顔に右手を添えて眼帯を外す。瞬間、怪物達のコーラスがぴたりと止んだ。

 管楽器の音が聞こえる、かぼそく単調な、演奏を覚えたての子供が吹くような音色だ。太鼓の音が聞こえる、狂ったように連打される下劣な音だ。巨体が身をよじる、その口から断続的に息を吐く姿は、何かに怯えているかのようだった。振り上げられた腕が少年に振り下ろされる、その腕に突如黒い闇が付着した。細長い線状の闇は少年の右目から伸びていた。

 大木が歪にひしゃげる、巨獣が苦悶の叫びをあげた。腕は闇に圧縮され、グロテスクな破砕音を鳴らす。腕から伸びた闇は怪物の全身を覆っていく。全身を黒で色塗られた怪物はやがて縮小されていった。周りを取り囲んでいた獣達も、いつの間にか伸びていた闇に絡まれ全身を黒で塗り潰されている。柔らかい食べ物を無理やり咀嚼するような音が何度も響いた。少年が右目に眼帯を叩き付けると、線は千切れて宙に四散した。怪物を包んでいた闇が消えると、そこにはもう何も存在していていなかった。

 少年が振り向く。押し付けた眼帯の下からあの闇がにじんでいた。自分に歩み寄る存在に精華は後ずさりした。混乱と恐怖で心が壊れそうだ、目の前にいるのは人間の形をした化け物だった。いきなり両肩を掴まれる、赤い女が無表情で精華を捕らえた。震えで力が入らない、それでもなんとか逃れようと身をよじる、ズボンを砂で汚すだけだった。

 距離を詰めた少年が目の前にしゃがみ込んだ。左手が精華の目の前にかざされる、精華は短く悲鳴を上げた。

「巻き込んですまなかった、もう大丈夫だ」少年の左目には後悔の色が浮かんでいた。「今夜のことは悪い夢だ、ゆっくり忘れろ」

 脳に直接響くような声だった。左手が視界を横切る。強烈な眠気が襲い掛かかり、精華は意識を手放した。


 目覚めると指先に冷たさを感じた。毛布の中から少しでも出ると外気が牙を向く。体を丸めて惰性を貪っていると、姉の澄香(すみか)が部屋に入っていった。「いつまで寝てるの、もう昼になっちゃうわよ」

 重い体を引きずって精華は布団から出た。一軒建てのリビングにニュースキャスターの声が通った。「昨夜都内を中心に発生した地震により、各所で道路や地面にヒビが発生しています。国土交通省は一刻も早い復興を……」

 精華は寝ぼけ眼をこすった。「地震なんてあったっけ?」

 澄香があきれ気味につぶやいた。「あんたさっさと帰ってきて寝たから覚えてないんでしょ」

 テレビにはある公園を両断するように作られた地割れが映っていた。家からは離れているが、天災の前には距離など問題ではない。精華はうすら寒い気持ちでスープをすすった。

「そういえばさ」澄香がいった。「もう冬休みも終わるけど、精華は宿題終わらせた?」

 精華は首を振った。「まだ自由課題残ってる」

「じゃあそれ早く終わらせてさ、久しぶりに二人で買い物行こうよ。彼氏と一緒じゃ下着買えなくてさ」

「いいよ。じゃあ課題のテーマ探し手伝ってね、お姉ちゃん」

 澄香は遠慮なくう頷いてくれた。題材は何にしよう。精華はスマホでめぼしい事件はないかと検索した。しかし大抵は地震のことばかりだ。何か心惹かれるものはないだろうか、精華は唇を尖らせた。だがきっとすぐに見つかるだろう、姉と一緒にやるのだから。

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