鋭角の襲撃
一月の空気は肌を刺すように冷え込む。手袋を脱いだ指先は五分も経たぬうちに冷たくなった。コンクリートでできた壁に挟まれた裏路地ならなおさらに身が凍えそうだ。
スマホのカメラファインダー越しに対象を捉える。灰色の壁に白のチョークで描かれたソレにシャッターを切り、改めて実物を見つめた。不器用な子供が描いたような歪な五芒星には中心に楕円と縦線が組み合わさった、目のような模様があった。撮影した写真をSNSにアップすると、さっそく反応が返ってくる。
『本当にあったんだな、変な星印って』
『俺の住んでる近くにもあったわ、気味悪くて消したけど』
『これ自分で書いたんじゃね?』
書き込みを逐一確認すると信用半分否定半分といった割合だった。いい加減指先がかじかんできた手を携帯を握ったままポケットに入れる。裏路地を蹂躙する風に身が震えた。
ネットでの噂を目にしたのはつい先日だった。いつも通りネットサーフィンをしていると、ある話題に興味をひかれた。『謎の五芒星都内に頻発』小さな記事に添付された写真にはあの五芒星が映っていた。五芒星は電柱や壁、ガードレールなどに描かれており、判明しているのは全て白いチョークで書かれた手書きだということだけだった。まるで何年か前に発生した力士シール事件のようだと、誰かが呟いていた。
犯行現場を目撃したという情報はなく、犯人は謎のままだった。いたずらにしては手が込んだ事件が残した、現代の摩訶不思議を見逃すわけにはいかなかった。
美澄精華、冬休み中の十六歳、趣味はオカルト。
今日の間にすでに十を超える数の五芒星を確認できた。これはいったい何の印なのか、オカルト好きとして興味は尽きなかった。もちろんただのいたずらという可能性もある。だが不思議の存在を求める私にとっては重要な研究材料だと精華は思った。
精華はしゃがみ込み、壁に描かれた五芒星の下、地面と壁が垂直に交わる直角に視線を下す。そこには縦に伸びる亀裂が入っていた。明らかに自然に発生したものではなく、まるで鋭い刃物で切ったかのような痕跡だった。同じ切り傷は必ず五芒星の近くに残される。不気味さから、頭のおかしいカルト集団の儀式ではないのか、そんな噂もあがっている。
精華は指で傷跡をなぞった。冷たいコンクリートに深く刻まれた溝は辺りを見回すとまだ数か所にある。好奇心を刺激され望むままにそれらも写真に収めていく。しばらくすると、カメラの画面が通話画面に切り替わった。表示された名前に精華は頬を膨らませる、いいところだったのに。
「もしもし」電話に出た精華は唇を尖らせた。「なあに、お姉ちゃん?」
「ごめん、スーパーで買い忘れたものがあったの。帰りに買ってきてよ精華」
「なに買えばいいの?」
「お風呂の洗剤。詰め替えパック二つお願いね」
それだけ伝えて通話は切れる。精華はため息まじりに呟いた。「彼氏持ちは忙しいことで」
腰を上げて裏路地の出口に向かう。その時、風にまじって届いた異臭に精華は顔をしかめた。アンモニアを何倍にも強めたような刺激のある悪臭だった。おもわず鼻を抑えながら精華は裏路地を出た。大型車がずっと停車していて、その排気ガスの臭いだったのだろう。
表に出ると、高層ビルの隙間からあかね色の夕日が覗いて地上を染めている。乗ってきた自転車に跨ってスーパーへ向かった。年を越してもう休みも残り少ない、最後に残った冬休みの課題のため、資料をもっと集めなくてはならない。
午後六時をまわり、夜の帳が下りてくる。風呂の洗剤と自分用のお菓子を買い終えた精華はスーパーの自動ドアをくぐった。いっそう冷たくなった外気に白い吐息が消えていく。裏手の駐輪場に入れた自転車に鍵を挿したとき、目に留まった人に精華は足を止めた。
植えられた木にもたれるように誰かが座り込んでいた。黒いジャンパーのフードを目深く被っているせいで顔は見えないが、服越しの体格から男だと推察できた。手のひらは弛緩して開かれ、肩は呼吸に合わせて上下している。少し近づくと耳に寝息が届いた。
「あの」精華は声をかけた。「こんなところで寝たら風邪ひきますよ」
返事はなかった。肩を叩いて軽く揺すると小さくうめき、男が顔を上げる。フードから覗く容貌に精華は思わず息をのんだ。年は精華とほぼ変わらない少年だった、顔立ちは凡庸でぼんやりと開いた目は日本人に多い鳶色だ。しかしその髪は白い。白といっても染料などでは決して再現できそうにない、それこそ老人たちのような自然な白さだった。そして右目の上には四角形の、革製と思える黒く薄いものが重なっていた。額を横切る黒い紐がなければ、それが眼帯だとは気づけなかった。
いわゆる病気を発症した人だろうか。特異な容姿に精華が戸惑っていると少年が左目をこすった。よく目を凝らすと濃いクマが浮いている。
精華は尋ねた。「大丈夫?」
少年はややあって目を見開いた。精華を押しのけてアスファルトの地面にしゃがみ込む。精華が文句を告げるのも無視してポケットから白いチョークを取り出し、指を走らせた。
あっ、と口から声が漏れる。そこに描かれたのは、件の五芒星だった。少年は星を描き終えると立ち上がり、ビルの間の路地へと足早に進んでいく。急いで星をスマホのカメラに収め、精華は少年の背を追いかけた。
「ねえ、最近頻発してるあの五芒星ってあなたが描いてたの? どうしてあんなことしたの? アレの意味って何?」
少年の背中に向かって思いつく限りに質問をぶつけていく。自分でもわかるくらいの早口だった。だが答えが返ってくることはなく、少年は無言のまま進んでいく。
「ねえ!」しびれを切らして精華は少年の袖を握った。「答えてよ」
少年が振り返り、一言だけ告げた。「ついてくるな」
静かな怒気を孕んだ声だった。腕を振り払われ、精華は立ちすくんだ。落ち着いて考えてみれば行き過ぎた好奇心だ。視線を落として精華は囁いた。「ごめんなさい」
「……いや」少年が呟く。「起こしてくれたのは助かった、あのまま眠ってたら危なかったかも」
「危ないって、何かしちゃったの?」
一瞬少年が口を開きかけるが、その表情が強張る。嗅ぎ覚えのある異臭が周囲に漂っていた。室外機の排出するものにしては臭いが強すぎる。精華は顔をしかめて振り返った。
「振り向くな!」体を百八十度反転させる間に少年が叫んでいた。精華の耳にはもう届かなかった。眼前の光景に口が大きく開いていく。
僅かに月光が届く裏路地に打ち捨てられた段ボール、その中から煙が立ち上っている。一瞬火が上がったのではと錯覚したが、すぐにその想像は打ち破られた。火は青黒い煙など作らない。煙が固まるように、物理法則に逆らって上から下へと逆流し、次第に細く曲がりくねった針のような青みがかった軟体の物質へと変わる。それを挟むように形作られたのは逆に硬質なもの、さながら上顎と下顎の如く何度も青い舌を挟んだ。これが口なのだと理解した瞬間、精華の背筋を冷たいものが駆け巡った。
段ボールの中から細長く体毛のない腕のようなものが二本飛び出し、コンクリートの地面につけられた。その先端には鋭い鉤爪が備わっており、地面を握ると爪痕が生まれた。横倒しになった段ボールからそれはぬっと体を取り出した。頭部と思われる個所には目も鼻も耳もなく、打ち鳴らされる顎の衝突に合わせて挟まれた青い舌から脳漿のような液体が飛び散った。それは地球上のどんな生物にも当てはまらない怪物だった。それでもあえて、何か近しい動物を列挙するとすれば犬が相当するだろうか。
怪物が顔の部分を精華に向ける。精華の足が力を失ってその場に尻餅をついた、ビニール袋の中身が散乱する。どの動物にも発音不可能な奇怪な雄叫びがこだました。怪物が大地を蹴って飛びかかってくる。恐怖にすくんだ体は身じろぎ一つできない。
突如襟を引かれて首筋に圧迫感を感じた。ズボンが地面を擦って体が後ろに下がる。座っていた場所に怪物が顔面を打ち付けた。その舌が靴に触れかけて精華は悲鳴を漏らした。再び飛びかかろうとした怪物に青いポリバケツが衝突した。いつの間にか少年が隣に立っていた。少年は落ちたバケツをもう一度投げつける、怪物の頭にバケツが被さった。
少年がバケツ越しに怪物を蹴り飛ばすと奇怪な悲鳴が上がった。振り返った少年が手を伸ばして精華の腕を取る。無理矢理立ち上がらせられた精華は引かれるまま走った。足がもつれて何度も転びそうになった。それでも後ろは振り向けなかった。あの怪物が追い付いてくるのでは、という恐怖に支配されていた。
突然少年が立ち止まる。再びあの悪臭が漂った。前方の室外機の下から青黒い煙が立ち上っていた。悍ましい唸り声と共に、またあの怪物が姿を現しかけている。少年が舌打ちしながらも室外機に近づき、顕現した顎を上から踏みしめた。そのまま室外機にチョークを走らせ、描き終えた五芒星に手のひらを叩きつけるとそこから光が漏れる。悲鳴と共に煙が霧散していった。
「来い、逃げるぞ!」
手首を掴まれ、精華は我を取り戻した。状況は飲み込めない、だが現在危地に置かれているということは理解できた。闇に追われるように精華たちは表通りへと駆け出した。




