儀式
『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』 フリードリヒ・ニーチェ
無明の闇の中に居た。かつて経験したことのない寒さだった。氷原の中に裸で放り出されたのではと錯覚するほどだ。それでも衣服の感触はあった。凍えるように寒いのは、体温の低下にあるのかもしれない。
突如闇の中に光が灯る、蝋燭にオレンジの火が宿っていた。光の存在しなかった闇夜に輪郭が浮かぶ。十を超える人影が、周囲を囲むように立っている。一番近い正面の位置にスーツ姿の男が立っていた。面長で、頬が痩せこけた顔には笑みが浮かんでいる。
男が蝋燭を持っていない手を振った。青白い光が見えたかと思うと、左肩を何かに打ち据えられる。次の瞬間、体中の痛覚を直接掻き毟られたような、耐え難い痛みが走った。闇の中に、自分の絶叫がこだまする。
両腕を動かそうにも、後ろ手に柱に縛られていた。痛みと共に記憶がよみがえる。もう何日も、数え切れないほど、この激痛を与えられていた。目の前の男が笑う、周囲の者達も皆狂ったように笑いあげる。絶叫と狂笑がただ響いていく。
「素晴らしい」目前の男が手を叩いた。「君は実に優秀な個体だ。人間の精神でここまでの責め苦に耐えられる者はそう多くない」
男がもう一度腕を振ると、体中を襲っていた痛みが消える。呼吸が辛く、自然と肩を大きく上下していた。見上げると男の手には青白く光る棒状の物体が握られていた。どれだけの苦痛をアレから受けただろうか、思い返すだけでも痛みが走る。両腕を縛られていなければ殴り返してやるのに。睨み付けると余計に男のほうれい線が深くなった。
「その目が良い。決して屈しようとしない強い意志を持ったその目が最も素晴らしい」興奮した様子で男が足を振う。直後、鳩尾に衝撃と痛みが走る。吐き気が透明な飛沫と共に口から飛び散った。休む間もなく顔面を横に蹴られ、そのまま靴底で柱に叩きつけられた。口の中に鉄の味が広がった。
指を鳴らす音が聞こえる。見ているだけだった他の人間達が一斉に近づき、自由だった足を、腰を、肩を手で抑え込まれた。顔を強制的に正面に向けられる。正面の男は青白い物を捨て、代わりに手にしたものをこちらに向けた。「そしてだからこそ、贄としての価値も高い。強い意志が折れるからこそ、神も喜ぶというもの」
蝋燭の光が銀色の刃に映る。波型に曲がった短剣が、徐々に接近していた。その切っ先が狙う場所を察するも、顔は固定されて微動だにできなかった。徐々に、右目に向かって刃が迫る。
一度眼前で刃が止まる。男が口早に何かを呟いている、意味不明の言葉だった。周囲の者もそれを繰り返す、目に見えない何かの高まりを感じ、鳥肌が立つ。腕が振り上げられ、光の中を銀の線が走る。
それが右目が最後に見た光景だった。