兎目の彼女
悲しくはない。そう当たり前と言えば当たり前だったから。絶対に叶うことのない恋に何度絶望したのだろう。
いっその事愛人でいいです。言えるわけもなくて、それよりも愛人で人生を棒に振って欲しくないなんてかっこつけてもね。当の本人は幸せそうに奥さんから作ってもらったであろうお弁当を見ていて。
もう少し早ければ。産まれるのもそうだけど。もっと早くに出逢いたかった。
『社長。言われてた資料持ってきましたけど。』
「おぉ!!ありがとね。いやぁ。今野ちゃんは優秀だなぁ。」
『社長。次の予定が』
「わかってるよー。優秀な?秘書をもって?すごく嬉しいですー。お弁当ぐらいゆっくり食べる時間作ってよー」
『無駄口叩かないで早く第3会議室に行きますよ』
社長は愛妻家だ。だから奥さんを悲しませる事は絶対にしない。逆にそういう人だからこそ好きになった。
そして、年相応に見えない綺麗な顔。40代後半らしいが20代後半にしか見えないんですけど。奥さんも奥さんで綺麗だし。それに比べて私は。なんて考えてやめた。自分が虚しくなるだけだから。だから。お願いだから。
「……ごめんね。今野ちゃん。」
悲しそうな顔で謝らないで。想いも告げてないのに解るのは流石だけど。でもね。悟って欲しくなかったなぁ。
『社長。謝らないで下さい。まず何に対して謝ってるんですか?』
「うん。だからこれは独り言。ごめんね。俺は愛理…妻を愛してるんだ。」
『そこで照れないで下さい』
ムカつく。もう結婚して20年ぐらいたってるのに。ずっと新婚さんみたいで。
「ごめん。ごめん。今野ちゃんが例え何を犠牲にしても今野ちゃんを選ぶ事は無いんだよ。これだけ解っていて。じゃあ行ってくるから。社長室の掃除をよろしくね?」
『了解です。………社長。いや、尚武さん。私…すごく好きなんです。』
私の声が聞こえたのかは解らない。だけれど眉の下がった顔をしていたから。少しぐらい私を意識してくれたらいいのに。
『あーあ。失恋かぁ。………初恋……だったのにな。』
ぽたりぽたり、と流れる涙。無駄に高い社長室から見る景色はとても綺麗で。隣に社長がいるだけで輝くのに。私の隣には誰もいないんだから笑える。
『あ…ははは、…振られちゃったぁ………』
ズルズルと壁にもたれ掛かる。そろそろ掃除しないと。でももう少しだけ。もう少しだけ
『感傷に浸らせて下さい。…尚武さん…!!』
___________________________________________
「はぁ。」
もう少しだけ優しくすればよかっただろうか。それとも言うまで待っていた方がよかったのだろうか。
秘書の今野ちゃんはとてもよくしてくれている。頼りないであろう社長の俺にもわかりやすく且つ効率的に仕事してくれてるんだ。だけれど。俺が家族の話をする度に無意識だろう。ほんの少しだけ眉にシワができる。
ほんの些細なことだけれど上に立つものとして少しの変化も逃してはいけない。俺にはそれだけの自覚が必要なんだ。だからこそ。悪評なんてもっての外だ。愛人なんてふざけてる。どっかのタヌキだ。
それに、俺は愛理を愛しているんだ。だからこそ、今野ちゃんを選ぶ事は絶対に無いんだよ。
それをわかっているからこそ、今野ちゃんは言わなかったんだろう。このまま俺を生涯好きでいるんだろう。俺から最も近くにいて遠い秘書という立場を理解して。それが俺は辛かった。叶うはず無いのにずっと願うのはしんどいんだ。
俺はそれを体験した事はないけれど。愛理に近づく男に嫉妬する事がある。嫉妬してることを愛理に言う権利を俺は持っているからこそ嫉妬するんだ。だけれど、今野ちゃんにはない。俺がどれだけ愛理の事を言ってもそれをいう資格がないんだよ。
俺は今野ちゃんに幸せになって欲しいんだ。だから切り離す。例えそれで今の君が傷ついたとしてもいつか気づくだろうから。その未来が早く来る事を願ってるんだ。俺には願うことしかできないから。
「……ははっ、今野ちゃんの嘘つきー。」
今野ちゃんは俺の仕事のスケジュールを管理してくれてるけど俺もちゃんとスケジュールは理解している。
「………会議なんてないじゃん。」
第3会議室に着いてからメモ帳を見て気付く。あれ?今日って………。
第3会議室の扉を開ける。
「……来たんだ。アンタの事だから忘れてると思ってた。覚えてたんだ。アタシと出会った日の事。」
そうだ。愛理と第3会議室であって、一目見てこの人だって思って、
「それよりアンタの秘書の子すごくいい子ね。」
「……なん、で?」
「だってさ、アタシも忘れてたもん。しかも会議室なんて久しぶりだしね。初心に返ったわ。あの子に感謝してる、ありがとうって伝えといて。……愛してるわ。ダーリン。そしてこれからもよ。」
「…あぁ。俺もだ。俺も愛してるよ。ハニー。」
あぁ、こうやってる今も今野ちゃんは独りで泣いてるんだろう。酷いことをしてしまったな。でもね。いつか笑える日が来るから。今の俺みたいに楽しいと思える日がくるから。
___________________________________________
『…今頃イチャイチャしてるんだろうなー。いいなー。』
涙も止まった。やっぱり今日はそんな気がしてたから。いつもなら何も考えずに化粧するのに水に落ちにくい化粧品選ぶなんて。馬鹿みたいだわ。私。
『……ちょっとぐらいバチが当たればいいのよ』
なんて、そんなこと言いながらも何も出来ないんだから。さぁ、悲観的になるのは辞めようか。よくいうじゃん。
『初恋は叶わないって…ね』
そっと社長のデスクの上に手紙を置いて、トイレで化粧を直す。今日くらいは地元に帰ろうかなぁ。
『好きでした。さよなら。社長』
受付の女の子たちは後に彼女の事をこう言っている。
泣いていた事はわかるけれどでも表情は清々しく、凛々しいお姉さんのことをこう呼んでいる。『兎目のお姉さん』と。