6節
教会を出ると、人だかりはもう消えていた。鼓膜を突き破らんばかりに耳に衝いた女の声も聞こえない。代わりに下半身を剥き出しにしたまま腹を裂かれた、死体が転がっていた。無残に破かれたシスターの衣服を、男の欲望が無数の染みとなって汚している。
どこかからまた誰かの悲鳴が聞こえる。昂った歓声も、下卑た笑い声も。
早朝の大宮殿陥落から始まった市民の虐殺や略奪は恐らく、日を跨いでも当分の間続くのだろう。ここコンスタンティノープルには十万を数える人がいて、彼らに須く、神の裁きを与えなければならない。アルトーはそのことにもう、疑いはなかった。一見、鎖を外された獣のように荒れ狂う男たちはただ、嬉々として神の意思に従っている。ならば彼らこそがやはり、純粋な信仰の戦士なのだといえるのかもしれない。
軍勢が聖地に向かうことは恐らくないだろうと、往来を歩きながらギヨームは言った。ヨシュアがカナンの地を征したときと同じように、この地も諸侯たちの手で分割され、統治される。近年西側での人口増加によりあぶれた貴族の子女たちは自分たちの領地を手に入れればおよその目的を果たしたも同然で、それ以上進む理由もない。そうして主力の抜けた軍勢にムスリムと戦う力があるとは思えないし、何よりも長い旅路と戦の果てに、人々は疲弊していた。
「あんたはそれでいいのか?」
訊ねると、ギヨームはまるで当然とばかりに頷いた。西側と東側が交わるこの前線にいる限り、彼のような戦士の需要が途切れることはない。生命のリスクを冒して前に進んだとしても、それに見合う恩賞が得られるかは不透明だ。彼もまた、進む理由をなくした者の一人なのかもしれない。
だけど、その現実的な判断に、アルトーは違和感があった。神は聖地の奪還を望んでいたはずだ。それなのに彼らは、自分の合理的な都合により、足を止めようとしている。
「あんたは本当に、神を信じているのか?」
不意に飛び出したその問いに、ギヨームは破顔した。
「当然だ。信じているからこそ、神はこうして我々に富を与えてくれた。それが何よりの証拠だ」
ギヨームの太い指に幾つも嵌められた指輪に、アルトーは目を細める。宝石を埋め込んだそれは、田舎では見たこともないくらいにただ、眩しかった。母親の命と天秤にかけた数枚の硬貨。そんなものよりも何倍も値の張るものがアルトーのポケットの中にもある。だけど、あのとき感じたような重みは、まるでなかった。ギヨームの浮かべた笑顔のように、自分も浮かれているのだと気づく。手にしたものは何もかもが貴くて、彼の言うように神の祝福を感じていた。
二人の脇を、青銅製の馬の像を乗せた荷車が通り過ぎていく。競馬場で勇壮に佇んでいたものだ。ヴェネツィアの商人と思わしき者が先頭に立ち、車を押す男たちを鼓舞する。きっと高く売れる当てでもあるのだろう。商人の男の顔には終始にやけたような笑みがあった。彼もきっと、懐に転がり込んでくる大金を前にして、神に感謝するのだろう。そうしてこの国にあった富や文化はすべて神の信徒の手に引き継がれ、再分配されていく。
「聖書を読む度に、俺は救われた気になるんだよ」
何かを思い出したように、おもむろにギヨームが呟いた。
「神は、人を自身のかたちに創造された。それならば俺たちはただ、神の御心に従えばいい」
姿を持たない我らが父にとって、そのかたちとはつまり、人間の知恵であり、心のありかたを指すものなのだろう。母を失って揺れ動いた心。人を傷つけて興奮した心。金を手にして弾んだ心。その一つひとつが実は、主と繋がっている。
ああ、そうなのか、とアルトーは思う。
完全である神に似せて作られた人間がなぜ、罪を背負ったのか。神はなぜ、知恵の実を用いて人間を試したのか。人間はなぜ、堕ちていくのか。母はなぜ死に、自分の手には金が握りしめられていたのか。
ずっと主の声を聞きたいと思っていた。だけどそれは初めから、自分の中にもあったのだ。
ギヨームはアルトーの顔を覗き込むように見つめると、何かを放った。慌てて掴み取って掌で広げて見ると、一枚の硬貨だった。教会で奪う際についた血が、べっとりとその大半を濡らしている。しかし、アルトーはもう躊躇わずにポケットの中に仕舞った。それを見ていたギヨームが、嬉しそうに笑う。
二人はいつの間にか高台にいた。振り返ればコンスタンティノープルの街が広がっている。無残に破壊された建物。焼けて立ち上る黒煙。無様に側道に転がったままの死体と、城壁から吊り下げられていく肉の塊。その向こうには陽に照らされて悠然と揺蕩うマルマラ海が見える。
その光景を、アルトーは美しいと思った。その隅々に至るまできっと、主の意思に満ちている。
この地に赴くことを、故郷の神父は試練なのだと言った。だけど、今はもう、それも違う気がした。ポケットの中が一杯になるまで、我らが父は大いなる愛を与えてくれた。こんなにも深く、自分たちは主に愛されている。そのことに気づき、感謝するための旅だったのだと思う。
そしてアルトーは今までよりも少しだけ神のことが好きになっている自分に気づき、笑った。
だけど、まだ足りない――。
胸の鼓動が抑えられずに、ギヨームよりも早くアルトーは坂を駆け出した。まだ誰にも奪われていない富があるかもしれない。自分もギヨームと同じだ。手は血と欲望で濡れている。しかし、そのことにもう戸惑いはなかった。
今はもう、自分にも主の声が聞こえる。
走りながら、十字架を切った。見上げる空はどこまでも透けていて、眩しいくらいに青かった。これが自分の望んだものだったのだと、強く思う。その身はただ、歓喜に震えていた。
――主よ、あなたのお導きに感謝します。
転がりそうになりながらも、気づけば喉が擦り切れんばかりに叫んでいた。
――主よ、永遠なれ。この素晴らしき世界に、我の行く末に幸あれ。
アーメン