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Holy Conquest  作者: Qosmin
5/6

5節

 城壁から吊るされている人の数は、時を追うごとに増えていた。千年以上にも渡って栄華を誇っていた帝国が、今目の前で滅び去ろうとしている。建造物を打壊す破壊音が、誰かの悲痛な叫びが、暴力的な歓声が、まるでこの街の断末魔のように響いていた。


 何が正しいことで、何が正しくないことなのだろう。今や街の至る所で人が殺され、女が犯され、富が掠め取られていく。それが信仰を同じにする者たちの所業であるという事実に、アルトーは戸惑っていた。人の世は信仰によって規律が生まれ、愛が育まれ、魂が磨かれるものだ。それなのに街に放たれた暴徒たちは、さながら理性のない獣同然だった。そして何よりも不思議だったのが、より道を識るはずの聖職者たちの誰もが、彼らを戒めないことだった。


 腹を満たしたギヨームの足取りは軽かった。その後を引きずられるように、アルトーが無言でついていく。誰かの押し殺した悲鳴が聞こえる度に、自分が信じていたものが一つ、壊されていく気がした。雰囲気の中に上手く染まってしまえば、楽になれるのかもしれない。しかしそんなことも叶わずに、アルトーは前を行く大きな背中を見つめる。その影は周りを物色するように眺めながら歩くと、小さな教会の前で足を止めた。


 表では下半身を裸に剥かれたシスターが男に組み伏せられ、耳障りな声を上げている。周りを取り囲んだ男たちは皆、下卑た笑いを顔に張り付かせていた。男たちの足の隙間から、女の絶望と嫌悪に歪んだ顔が覗く。もう殆ど希望が奪い尽くされた目が、崩れていく街を彷徨っている。目が合っても彼女は何の表情も浮かべず、助けを求めることさえなかった。彼女はもう、諦めてしまっている。そのことが、何もしてやれないアルトーの胸を痛めさせる。


 男が腰を大きく突き出す度に聞こえる金切り声に、アルトーは目を背けた。そしてギヨームは素知らぬように教会の扉を開ける。薄暗い室内は荘厳な気配も相まってか、周りの喧騒も食べ尽くしてしまったかのような静けさに満ちていた。ギヨームが一歩足を踏み入れると、足音が響く。その後を、まるで逃げるようにアルトーも追った。


 赤い絨毯が身廊を貫くように真直ぐと奥の祭壇へ伸びている。頭上のステンドグラス越しに光が差し込み、レンガを積み重ねた壁面を照らしていた。西欧では一般的な、中央の身廊を規則正しく並んだ柱によって分けられた側廊で取り囲むバシリカは見られず、そのせいか幼い頃から慣れ親しんだ雰囲気とは違って感じられた。代わりに幾つかの小さいアーチを潜った先には、四本の柱に支えられたドーム状の空間がある。そこで身廊と袖廊とが交わって作られる十字が、ここが神の家であることを明確に物語っていた。


 球形の天井に描かれたフレスコ画の中心にはイエスが佇み、その周りで祝福を奉げるように天使が舞っていた。更にその周りでは貧しく年老いた男が、傷ついた兵士が、裕福な権力者が、妊婦が、娼婦が、渇いたような視線を送る。イエスはそれに応えるように隔てなく光を分け与えている。そして穏やかな眼差しで見つめる先には小さな祭壇があり、その前で白髪の男が一人、胸を貫かれて倒れていた。

 身に纏った衣服から察するに、この教会の神父に違いない。


 恐らくは表でシスターを犯していた連中の仕業だろう。アルトーはもう驚かなかった。朝目が覚めてから、散々見た光景だ。しかしその当たり前の暴力が、この神聖な場所においても例外なく振るわれた事実がやりきれない。


 足を歩ませながら、瞳を伏せる。ここで行われることは全て、主が見ているはずだ。


 先を行くギヨームは立膝を突くと、乱暴に男の体を弄った。金目のものを探しているのだろう。その手が男の抉れた傷口に触れたのかもしれない。不意に聞こえた男の呻き声に、アルトーは顔を上げた。


 まだ、息がある。その事実に、幾分救われたような気がした。だがギヨームは苛立たしげに眉を寄せると、舌打ちを漏らす。そして意識を引き戻すように強く、男の体を叩いた。飛び散る血がまだ、温かかった。


「何をするんだ!」


 アルトーの悲鳴も無視して、ギヨームは弱々しく開いた男の目を見下ろしていた。そこに何の憐れみもないことが、アルトーには恐ろしかった。やがて、低い声がこの、厳かな空間に響く。


「金はどこだ」


 威圧的な言葉に最早怯える体力も残っていないのか、男は虚ろな目をしていた。零れる言葉は絶え絶えで、今にも揺らめく炎が消えてしまいそうだった。


「……そ……んな……ものは……どこに……も……ない」

「そんなはずないだろ。千年も栄えてきた都がこんなにしけてるわけがない。どこかに隠しているもんがあるだろ。でなければこんなとこまで来た甲斐がない」


 祭壇は殆どの装飾品が持ち去られてしまったあとらしく、目ぼしいものは見当たらない。恐らくは神父の持ち物も奪われてしまっているのだろう。十字架のロザリオすらも持ってはいなかった。神父は冷たい床に横たわったまま、ギヨームを見上げる目を瞬かせていた。血の水溜りが、徐々に広がっていく。


「大人しく言いな。どうせあの世まで持っていける代物じゃないんだ」


 もう死が不可避であることを悟っているのだろう。ギヨームの恫喝にも、男はさしたる反応を見せなかった。ただ苦しそうに呼吸を繰り返し、時折咳き込む。天井からはイエスが見つめているのに、神に仕える彼に対して、神が救いの手を差し伸べる様子もない。


「迷……える……子羊……たちよ、どうか……目を……覚ましなさい……。主はこのような……ことを……おのぞ……」

「神が望んだから俺たちはここにいる。お前の都合で勝手に神の意思を捻じ曲げるな」


 憐みの表情を浮かべる男の顔を、ギヨームは不浄なものでも見るような目で睨みつけた。まるで西側から同行してきた聖職者たちが、東側の者たちを見るのと同じように。帝国が東西に分裂したのをきっかけに、神の教えも東と西に分かれていった。バチカンに対して「正教」を名乗り、教義を歪め、流布していることが彼らには許せないのだろう。それは唯一にして絶対の神の存在を、冒涜する行為に他ならない。


 最早何を話しても無駄と思ったのか、ギヨームは立ち上がると祭壇を漁りだした。僅かに残った宝座の金装飾を剥しては懐に仕舞い、ガラクタを投げ捨てる。白髪の神父は説得の余地もない男の背中を見つめると、諦めたようにアルトーを見た。唇は生気を失い、陽に焼けた肌は白くなっている。それを染める血の赤だけがただ、鮮やかだった。


 傷口を塞げば、まだ助かるのではないか。必死になって祈れば、奇跡は訪れるのではないか。そんなことを考えながらも、アルトーは途方に暮れて立ち尽くすばかりだった。神父と目が合うと顔を背け、小さく震えている。そんな彼を見て、神父は穏やかに笑ったような気がした。


 何もしてやれないか弱い自分のことを、彼は許してくれるのかもしれない。アルトーの胸を安堵が満たすのを妨げるように、目の前の床で何かが弾んだ。剥した装飾の金を、ギヨームが投げて寄越したものだった。それがアルトーの取り分だとでも言うのだろう。親指の先くらいの大きさをした金の塊はしかし、生まれ故郷の貧しい農村では見たこともない代物だった。


 思わず手が伸びる。欲しくないと言えば嘘になる。金があれば、冬に飢えることもなかった。金があれば、母親が死ぬこともなかった。金さえあれば、貧困の苦しみから抜け出すことができる。しかし誰かの視線を感じて、アルトーは思わず目を逸らした。天井からは相変わらず、イエスが濁りのない眼で見つめている。


 不意に袖廊の奥から物音が聞こえ、ギヨームが素早く振り向く。声を上げることもできないまでに弱った神父の顔が、一瞬強張った。ギヨームは瞬時に警戒態勢を作り、剣に手をかける。聖堂に滞っていた空気が、緊張で一気に冷えるのを感じた。


 そろそろとした足取りで音のあった方へ歩いていく男の背中を、アルトーは見つめる。よくよく見てみれば不自然に掛けられた薄汚れたタペストリーをギヨームが捲ると、その奥に小さな扉が現れた。恐らく鍵がかかっているのだろう。ギヨームの太い腕が軽く押した程度では、開かなかったようだ。


 努めて無関心を装うような、神父の表情が不自然だった。それで確信したのだろう。髭をたくわえた口元がにやりと笑うのが見えた。


 次の瞬間、ギヨームの丸太のような足がドアを蹴ると、まるで破城槌でも当てられたかのように呆気なく打ち破られた。途端に、押し殺された悲鳴が聞こえる。中に人が隠れていたのだ。何人いるかまでは、アルトーのいる場所からはわからなかった。だけどそれが女や子供たちだということは、発せられた声の高さで察しがついた。


 ギヨームの剣を握った手が振り下ろされる度に一つ、また一つと声が消えていく。


 アルトーは思わず天井のフレスコ画を仰ぎ見た。今の自分も、イエスの周りに描かれた人々と同じ目をしているのだろうと思う。なのに、彼らに与えられた光は、アルトーには届かない。


「クソッ!」


 ギヨームの怒声が聞こえると、その脇を何かが飛び出してくるのが見えた。女だ。それもまだ、幼さも残るくらい若い。


 恐らくはギヨームの気が逸れた隙を突いて駆け出したのだろう。麻の服に身を包んだ彼女の腹部はしかし、赤く汚れていた。荒く呼吸を乱し、腹を押えた腕を、血の雫が伝っている。背後の恐怖から逃れるのに必死なのだろう。弱々しい足取りで進む先にアルトーがいることなど、まるで見えてはいないようだった。一生懸命に走り、だが何かに躓いて転ぶ。それが変わり果てた神父だと気づいた彼女は、小さな声を漏らしへたり込んだ。そこでようやくアルトーに気づいたらしく、絶望に打ちひしがれた表情を浮かべた。


 そんな目で見つめないで欲しいと思う。だけどそれは、無理なことなのだろう。


 自分に害意はないのだと、言い訳のような言葉が出そうになる。しかし、アルトーの口を塞ぐように、最後の声をかき消したギヨームが顔だけを覗かせ、低い声で命じた。


「アルトー、そいつを殺せ」


 少女の怯えた目がアルトーを見つめる。アルトー自身も怯えていた。少女を正視することができなかった。


「なぜ、殺さなければならない!」


 民家で親子を殺したときと同じ言葉が口を衝く。目の前の少女はまだ生きていて、動かない体を抱えたまま震えている。


 どうせ奪えるものは全て奪っていくのだ。財産も、食料も、尊厳さえも。その上でなぜ、命まで奪う必要がある。放っておけばその内貧しさで、あるいは空腹で、彼女は死ぬかもしれない。そうでなかったとしても、その細い腕をした少女に何ができるというのだろう。ただ力なく震える少女が自分たちに害をなす「敵」だとは、到底思えなかった。


 それなのになぜ、神の家をこれ以上血で汚さなくてはならないのか。


「こんなことに何の意味があるんだ。ここでは主がご覧になっているというのに!」


 姿の見えないギヨームに、アルトーは叫んだ。大方奥の部屋で物色でもしているのだろう。舞台に一人だけ取り残されて、我らが父に対して石を投げることを強要される。そんな理不尽に憤りながらも、心のどこかではまだ、聖書を愛読する彼ならことの愚かさに気づき、改めてくれるのではないかと信じていた。


 だが、アルトーを嘲笑うようにギヨームの太い声が木霊する。


「だから、だよ。神が見ているからこそ、お前がやるんだ」


 ――これはお前に与えられた試練なのだから。


 信仰が試されているのだと、ギヨームは言った。まるでアルトーが神父に言われた言葉を知っていて、真似ているかのように。そして、これが導かれるままに辿り着いた一つの分水嶺であるという予感が、自分でもはっきりとしていた。身廊と袖廊の交わる十字の中心に、アルトーはいる。神の審判を受けるには、うってつけの場所だった。


 ステンドグラス越しに差し込む光が、アルトーの頬を照らした。外には青い空が広がっている。あの灰色に埋もれた田舎の風景の中で、切望していたものだ。母の死の代わりに、手に入れたものだ。


 このときをずっと待っていた。母の命と引き換えにしてまで主がアルトーに与えたかった試練。それがどんなものか知りたかった。そこにどんな意味があるのか知りたかった。その先に何があるのか知りたかった。なぜ母は死ななくてはいけなかったのか、知りたかった。何がそうさせたのか、も。


 唾を飲み込むと、喉が鳴った。こめかみから一筋の汗が流れ落ちる。彷徨う視界の端に、祈るように手を合わせる少女の姿があった。鼓動が煩くて、わけもわからずただ、息が苦しかった。


 ギヨームを満足させる答えならわかっている。母親の亡骸に縋りつく少年を相手に、彼自身が見せてくれたのだから。しかし、昨日斬った肉の生々しい感触が、手を硬くさせる。死を覚悟した少女の顔が、永遠の眠りに落ちる母の顔と重なって見えた。


 主は一体、どんな答えをお望みなのだろう。


「躊躇うことなどない」


 祭壇で説教をする神父のように、ギヨームの声が聖堂内の静まり返った空気を震わせる。神に殉じた多くの者が通ってきた道なのだ、と。モーセも、ダビデも、そしてヨシュアも、聖書で讃えられる多くのものたちは少なからず、その手を赤く染めている。


「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」


 ヤコブの手紙の一節をギヨームは暗唱する。人が誘惑に陥るのは欲にかられるためであり、欲にはらんで罪が生まれる。それとは逆に、神は人に罪へと誘う存在ではないのだと、書簡は告げていた。


「ヨシュアは神との約束に導かれるままにヨルダン川を渡り、殺戮と破壊の対価として神はカナンの地を与えた」


 ソドムとゴモラを滅ぼしたのと同じように、神は欲望に堕ち教えを失ったカナンの地の人々を裁こうとした。遥か昔に交わした約束の条件として、神はヨシュアに意に沿わぬ者たちの抹殺を命じたのである。モーセに「人を殺すな」との戒律を与えた、その口で。


 神は人を罪へ誘う存在ではない。ならば、ヨシュアのした行為は一体どう捉えれば良いのだろう。カナンの地を征した彼は乳と蜜の流れる豊かな土地を得、そして神に愛されている。もしかしたらアルトーと同様に、それが彼に与えられた試練だったのかもしれない。信仰に殉じて手を血に染める覚悟があるのか。そのことに、彼は躊躇いもなかったのだろうか。


 答えならきっと、考えるまでもなく決まっている。ヨシュアは疑うことなく神の御心に従った。街の者を一人残らず殺すと、土地と富を仲間たちで分け合った。何ということはない。ここで起きているものは、聖書の再現だったのだ。そして、アルトーをこの地に導いた神父も言っていた。異教徒たちから聖地と信仰を奪還することこそが、神の意思なのだと。ならば、自分の歩むべき道などきっと、一つしかない。


 アルトーは自分を覆っていた霧が少しずつ晴れていくのを感じていた。少女の怯えきった瞳が向けられる。アルトーはもう、目を逸らさなかった。


 必死に祈りを奉げる彼女を、自分たちと同じ存在なのだと思っていた。だけどその魂は、かつてのカナン人のように救いも届かないほどに穢れてしまっているのだろう。東方のこの地で生きてきた彼女は残念ながら、不当に歪められた教えを信仰する異教徒でしかない。


 神が見つめている。そんな気配を感じていた。相変わらず鼓動は早く、呼吸は荒いままだった。天井に描かれたイエスが、あるいは天使たちが、アルトーの覚悟を祝福するように背中を押す。初めて腹を括ったとき、ヨシュアもこんな気分だったのかなと思う。震える顎を必死に食い縛ると、彼は笑おうとした。しかし、緊張のためか視界が滲む。少女の表情の中に、もう母親の影は見えなかった。


 そして心の中で祈りを奉げると、アルトーは剣を握った。


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