1節
一部に暴力的な描写があります。苦手な方はご遠慮ください。
また、個人的な聖書の解釈を含みます。
一部の方には不快となられる内容があるかもしれません。
ご了承ください。
祈りを奉げる声が聞こえて、アルトーは無我夢中で剣を振り下ろした。刹那、錆びた金属が骨とぶつかる衝撃が腕を駆け抜け、その痺れで剣を落としそうになる。対峙する髭面の男は苦悶に顔を歪めるものの、鎖骨の辺りを斬った程度では致命傷には程遠い。鬼の形相に睨まれて、引き抜いてもう一度打ち付けるべきか、それともこのまま押し斬るべきなのか、その判断すらわからなかった。
血が流れ、伝ってくる。他者の命に直接触れているような気がして、体が震えた。
今しがた神に加護を求めていたその口が、獣のような咆哮を上げる。アルトーがそれに怯むのを見るや、男はすぐさま右手の剣を突き出してきた。
一瞬で体が強張る。防がなければ体が貫かれる未来がくることなど、すぐに理解できた。それでもまずは頭が真っ白となり、四肢が運命に抗うのを放棄したように、少しも動かない。
昨日今日で初めて剣を振るったようなアルトーに、恐怖を克服する術などあるはずがなかった。戦いの心得もなく戦場に出たものは、天敵を前にして動けなくなったウサギのようにただ、狩られるのを待つしかない。「どうして……」などと後悔に惑う余裕もなく、「もうダメだ」という諦観に囚われる。
そして思わず、目を閉じた。
そのときだ。
「馬鹿野郎!」
真っ暗な世界に、誰かの声が響いた。投石器の岩が城壁を砕く音、剣と剣が火花を散らす音、甲冑が擦れる音。誰かの悲鳴と、狂ったような怒声。そんなものに包まれながらも、その声は何よりも力強く届いてくる。そして金属同士が弾ける耳障りな音がしたかと思うと、湯をかけられたような熱さに顔が焼かれた。
最期はそんなものなのだろうと思った。痛みもない。苦しみもない。自分は神のために戦った。だからそうして安らかなままに、主に召されていくのだろう。雲を割って覗く青い空。色とりどりに染まる花畑。昔、母親に手を引かれながら通った教会で見た宗教画のイメージが駆け巡る。それなのにいつまで経っても光もささなければ、主の下へ導く使いが現れる気配もなかった。ただ耳を突く喚声だけがしつこく消えない。
恐る恐る目を開けると、まだ城壁の上にいた。眼前には視界に全てを収めきれないほど大きなコンスタンティノープルの街と、背後には青く美しい海が広がっている。先ほどまでアルトーを追い詰めていた髭面の男の姿はなく、足元にはただ、鉄の板を纏った肉の塊が転がっていた。首からは上はどこかへ飛んでいってしまったらしく、見つからない。生臭い匂いが鼻について顔を拭うと、粘り気のある朱色に手が汚れた。
それに気づいた途端、また震えに襲われる。さっきまで触れていたはずの命はもう、どこにもなかった。
思わず叫び声を上げそうになる。だが胸は強く叩かれ、声ではなく、代わりに咳がこぼれた。見ると荒い息をするギヨームが憤怒の形相で睨みつけてくる。眉間に入った傷跡がほんのりと赤く、上気していた。ゴリアテを連想させる巨大な体躯が今にも覆いかぶさってくるような迫力があり、チェーンメイル越しでも、一際発達した筋肉の隆起がわかる。そして、それが一瞬踊ったかと思うと、アルトーは顔面に走る衝撃で目が眩んだ。
「いいか、戦いの最中では何があっても目は閉じるな! 死にたくなければ死んでも目だけは開いたままでいろ! お前はこんなところで死に来たわけではないだろ」
それだけ捲し立てると、ギヨームは前線の方へ駆けていった。まだ血の乾いていない剣を振り回すと、彼の太い腕が敵兵の首を叩き斬るのが見えた。そうして徐々に推し進んでいく勢いに、船から梯子伝いに城壁を登ってきた兵士たちがアルトーを押し退け加わっていく。それまで堅く守っていた敵も、乗り込まれ高さの利を失ったことで綻びが出始めたらしい。大きく飲み込まれていく勢いを押し返す力も士気もなく、一度歪み始めた防衛線はすぐに崩れだす。戦いの素人から見ても、その趨勢は明らかだった。城壁の陥落はもう、時間の問題だと思えた。
えも言われぬ興奮が辺りに漂っていた。そう遠くもない勝利を確信した騎士たちは、まるで自分の居場所を見つけたかのように色めき立ち、胸や腕に掲げた十字架を血に染めた。殺してはならない。盗んではならない。神がシナイ山にてモーセに託した十戒には、そう記してあった。なのに、偉大な父のために剣を取った戦士たちはただ、血を求めるようにそれを振るう。
「主よ、罪深き我らをお許しください」
自らの興奮を鎮めるように、アルトーは十字を切った。肉を斬った感触が、まだ生々しく手に残っている。自分もやはり罪を犯したのだ。その自覚が、胃からこみ上げるものを催させる。
主の意思に従い、聖地を異教徒から奪還するために立ち上がった。主はお試しになっているのだと、神父は言った。これは主より与えられた試練なのだと信じた。主より頂いた大いなる愛に、今こそ報いなければならない。
しかし、戦場に立つアルトーは、どこまでも無力だった。味方を勝利に導く活躍ができるわけでもなければ、そのことを詫びるようにもう一度祈りを奉げ、そして剣を下ろした。
美しい街並みだと思う。煉瓦と漆喰で形作られた家が無数に立ち並び、地平線までも際限なく広がっている。その端々にあるドーム状の屋根を頂いた建物は教会なのだろう。掲げられた十字架が、この街の人々が自分と同じ神を崇めていることを思わせる。西欧と東洋を繋ぐ要所として栄えるこの街は、東側の文化が入り混じっていて、森と草原しか知らないアルトーには見るもの全てが珍しく、そして美しかった。
そんな広大な街をすっぽりと三重の城壁が囲んでいる。約七百年も前に築かれたその歴史において陥落した事実はなく、今なお堅牢さを誇っていた。それを避けるために船に乗り、海側の城壁を攻めることにした。どうやらその作戦が功を奏したらしい。
ようやく切り開いた突破口に、味方の船が集まってきて梯子をかける。そうして上がってくる人たちを、アルトーはぼんやりと眺めていた。先に上ってくるのは大概剣を携えた兵士たちだったが、船の上には武器などまるで持っていない平民たちの姿もあった。殉教者の集団というその性質上、軍勢には平民や聖職者や乞食に至るまで、非武装の者も数多くいた。
その殆どの者が自分と同じような境遇なのだろうと思う。フランスの片田舎で生まれ育ったアルトーは、海を見たことがなかった。遠征の出発地であるヴェネツィアで初めて空の青と交じる水平線を見て言葉を失った。出航してから幾日も船が陸地に辿り着かないことが信じられなかった。過去に組織された十字軍の中には、アジアに入る前に聖地に辿り着いたのだと勘違いをして引き返した者たちもいるのだという。主は日々の労働を尊び、それ故に人々は住む土地を離れられない。だから思いもしていなかった。世界がこんなにも広いなんて。
随分遠くまできたのだと、海を見ていると実感する。そこからはフランスはおろか、ヴェネツィアさえも見えなかった。
それでもまだここは、旅の終着地ではない。南東の方角へ目を凝らせば、やはり同じように海が広がっているだけだった。それでも、アルトーには空から一筋の光が差しているような気がした。その先に、聖地エルサレムがあるはずだった。