花は蜜で誘った
「よりみち」で理子と飲んでから一ヶ月がたった。その間理子から連絡は一度もなかった。俺が忙しいと思って遠慮してるのか、彼氏とうまくいっててそれどころじゃないのか。
寂しい。でも今は目の前の勉強に専念するしかない。留年して一年時間を無駄にするなんて、ありえねぇからな。
ある日。いつものように睡眠時間削って勉強してて、机に座ったまま寝ちまった。朝起きて時間を確認しようと携帯を手に取ったら、理子から着信があった。
やべぇ。昨日の夜だ。しかもだいぶ遅い。何かトラブルに巻き込まれて、助けを求めていたならどうしよう。俺は慌てて理子に電話した。
『おい。何かあったか?』
『……嘘つき。何かあったら助けを呼べって言ったのに』
『悪い。大丈夫か?』
『まあ、運よく、なんとかなったから大丈夫』
心底ほっとした。忙しくても助けてやるなんてかっこつけといて、なさけない。
『何があったんだ』
『彼氏と別れた。二股されてた。しかも私の方が浮気だったみたい……』
それからしばらく理子の愚痴を聞いてた。電話越しの声だけでも、理子が落ち込んでるのはよくわかった。それなのに俺はライバルが減って安心していた。
好きな女の不幸を喜ぶなんて最低だな。俺も一緒になって自虐的に落ち込んだ。
『ねえ、タケ。年末も忙しい?』
『まあ年末だからって、勉強に手をぬけないからな』
『そっか。金沢に旅行行く余裕ないよね』
『金沢に旅行?誰が?』
『私とタケ』
ちょっと待て。二人で旅行とかやばいだろう。誘ってんのかこの女。ありえないとわかっていても、わずかに期待してしまった。
『なんで?』
『彼氏と行く予定でもう代金先払いで予約してあるのよ。行かなきゃもったいないじゃない』
天然か?わざとか?人の心弄びやがって。
『勝手に友達でも誘って行けよ。俺は忙しいんだよ』
『うん。そうだよね。ワガママ言ってごめん。なんか最近タケと飲んだりできないし、寂しいなと思って』
俺と同じように、理子も俺と会えなくて寂しいと思ってた。それはすげー嬉しかった。勘違いさせるような事言うなよ。
俺の寂しいは好きな女に会えない寂しさで、理子のは友達に会えない寂しさだ。
『忙しい所、心配かけてごめんね。勉強頑張って』
『おう。お前も色々頑張れ』
電話が切れてもしばらくぼーっとしてた。
なんか本当に俺バカだな。理子を手に入れたくて、歯科医目指して。それで忙しくて理子が困ってる時に気づかなかったり、寂しい思いさせたり。
でもだからって、ずっとそばにいるだけじゃ、あんな厄介な女手に入らねー。
今は我慢して勉強するしかないんだよな。俺は気合いを入れ直して、勉強に取りかかった。
それから数か月。忙しさに追われてあっという間に時間が過ぎていった。春を迎え六年になると臨床実習で、文字通り死ぬほど忙しくなった。
体力には自信がある方だったが、寝る時間のない日々が続き、精神的にも肉体的にも相当参っていた。
今までで一番ヘビーだわ。このままじゃ倒れるかも。
七月六日金曜日、その日も終電帰りで、たまたま俺の前の席が空いたので思わず座ってしまった。
やばい。寝る。そしたら確実に寝過ごす。終電だから帰れない。だけど疲れきった体が、立つ事を拒否した。そして案の定俺は寝てしまった。
「起きてタケ」
夢か?理子の声が聞こえる。いい夢だな……。
「起きろ!バカタケ、クマタケ」
思いっきり頭を振られて目が覚めた。そこは電車の中で、目の前に理子が立っていた。
「そろそろ駅つくわよ」
「……お前なんで、こんな所に……」
「偶然よ。同僚の仕事肩代わりしたら遅くなっちゃって、さあ降りるわよ」
「ああ、起こしてくれて、ありがとな」
半年以上会ってなかったせいか、久しぶりに会えたのに動揺しすぎて、どうしていいかわからなかった。
それに疲れや眠気がまだ残っていて、体が重い。
「大丈夫?フラフラしてるけど。それに顔色も悪いし」
「大丈夫……って言いたいが、キツいよ。正直」
「タケが弱音言うなんて、相当ね。今日はタクシーで帰ったら?」
「タクシーで寝たら起きる自信ねえよ。理子起こしてくれねえか?さっきみたいに」
本当に弱ってたかもしれない。理子にこんな風に甘えた事は今までなかった。
理子も俺らしくない行動に、同情したのかもしれない。文句も言わずについてきてくれた。
「タケ着いたわよ」
理子の声で目覚めた時、すぐに反応できなかった。電車の時より熟睡してたかもしれない。
「タケ、タケ。もう仕方ないわね」
いつまでたっても降りようとしない俺に、痺れをきらして理子が外から引きずり出した。
その後もふらつく俺の肩を支えながら、アパートまで送ってくれた。
「クマは重いわね。か弱い女に、重労働させないでよ」
「悪い。助かる」
「……仕方ないわね……って、何これ!」
アパートの玄関を開けて理子は驚きの声をあげた。
「ひどい荒れっぷり。カビはえてんじゃない?」
「家の事やってる余裕もなかったからな……」
俺はノロノロと部屋に入り、冷蔵庫を開けてカフェインドリンクと栄養ドリンクを取り出した。
「寝ないの?」
「課題あるから寝てられねー」
「そんなんだから、体壊すんじゃない」
「仕方ないだろう。研修大変なんだよ。体壊して断念するヤツだって珍しくねーよ」
「食事は?」
「朝行きがけに、コンビニでなんか買って食った」
「昼も夜も食べてないの?冷蔵庫の中も栄養ドリンクしか入ってないなんて、不健康すぎる」
理子の嘆きを聞きながら、俺は勉強机に向かって課題を取り出した。電車とタクシーで寝たから少しはましになったか。
理子が玄関の方に向かったので、声をかけた。
「送ってくれてありがとな。仕事で疲れてた所悪い」
「まだ帰らないわよ。コンビニで食べ物買ってくるだけ」
「いいって。もう帰って早く寝ろ」
「この惨状放置して帰ったら、気になって眠れないわよ気持ち悪い。帰ってきたら掃除するからね」
そう言い残して理子は出ていった。気を遣わせてしまって悪かったな。でも心配してくれてるのに、突っぱねるのも悪い気がした。
だからそのまま理子の好意に甘える事にした。
理子が買ってきた夜食を食いながら課題をやり、終わった時にはそのまま寝てしまった。
目を覚ました時、机の前ではなく、布団の中にいた。理子が寝かせてくれたのだろうか?ありがてえな。
目をつむったまま、俺は寝返りをうって布団をかきよせた。
……ん?なんだ?布団とは違う柔らかい感触。それになんかいい匂いがするぞ。
重いまぶたを押し上げて目を開けると、隣で理子が寝ていた。
「うわぁ!」
思わず声をあげて飛び起きた。俺の声で起きたのか、理子は目をこすりながら言った。
「何?うるさいな。まだ寝てたのに」
「なんでこんな所で寝てんだよ!」
「掃除終わったら、タケ寝てて、布団に移してあげたのよ。で、私も眠いし、帰るのめんどくさくなってきたし、布団一つしかないし、タケぐっすり寝てるし、まいっかと思って」
「だからって男の隣で寝るかよ、普通」
「他の男だったらしないわよ。タケの事は信用してるから」
信用されてると喜ぶべきか、男扱いされてないと悲しむべきか。
「それよりお腹すいた。昨日コンビニで買ったおにぎりと味噌汁あるから食べよう。お湯わかすね」
まだ動揺を抑えられない俺を置き去りにして、理子は朝からご機嫌でキッチンにむかった。アイツのマイペースに振り回されるのは、いつもの事だが心臓に悪い。
理子の寝顔とか寝ぼけた表情とか、思い返すだけで色々やばい。
「いいからとっとと帰れ。バカ女」
「昨日は深夜で洗濯機動かせなかったから、これからやるのよ。まだ帰らないからね」
とびきりの笑顔でそんな事を言う理子に、理性の糸が切れそうだった。俺は慌てて立ち上がった。
「どうしたの?」
「メシは後でいいから風呂入る。覗くなよ」
「熊の入浴なんて見たって面白くないから見ないわよ。ごゆっくり〜」
冷たい水でも頭からかぶんないと、おさまりそうもなかった。