意地悪魔女と暢気王子
ここでの魔女は比喩表現の魔女であり、魔法などは一切出て来ません。
あるところに、嫌われ者の魔女がいました。
国の外れの森に住む、意地悪な魔女でした。
獣が多く、入る事さえ禁じられる森に住む魔女は、そこでしか採れない薬草を煎じ、高値で売り付けていました。その薬草を独り占めしたい強欲な魔女は、他の人間が森に入る事を許しませんでした。もしも、人間が森に入り込んだのなら、恐ろしい形相で怒り狂い、とんでもない目に合わされるそうです。薬草の取引に応じた人の話では、我儘で傲慢な魔女だったとの事です。
意地悪で、我儘で、傲慢で強欲な魔女は、もちろん人々に嫌われていましたが、魔女はそんな事をちっとも気にしていませんでした。
何故なら、魔女の方こそ、人間達が大嫌いだったからです。人々の恐れる声を聞く度に、馬鹿にして笑っていました。身の程をわきまえず、ルールを破る人間が、魔女は大嫌いでした。
そんな魔女の棲む森はいつしか『魔女の森』と呼ばれるようになりました。
あるとき、魔女の森で、魔女は行き倒れている人間を見付けました。またもや身の程知らずの若者が自分の庭に入り込んだ事に怒り狂った魔女は、己の行為を後悔させてやろう、と桶いっぱいに水を汲んで若者の顔に掛けました。
水を掛けられた若者はびっくりして目を覚まします。若者は目を丸くして、魔女に気付きました。すると、この若者は驚く事に、睨みつける魔女に対し微笑んだのでした。
「すみません、お邪魔しております」
そして、若者は再び気を失ってしまいました。完全に予想外だった若者の反応に魔女はびっくりして固まりましたが、やがて若者を引きずって自宅の方へ向かいました。魔女は、まだ一言もこの若者に文句を言えていなかったのです。このまま放っておくなど許せませんでした。
行き倒れていた若者は、その国の王子様でした。
三男四女の末っ子で、ご長男の王子様が王位を継がれてからの先王様の子どもで、お兄様達と王位を争う事もなく、ご両親とご兄弟の愛情を一身に受けて育ちました。
臣下や民からも、誰からも可愛がられて育った王子様はとても穏やかな気性で、少々のんびりした性格から親しみを込めて暢気王子と呼ばれていました。
そんな王子様は、散歩をしている途中に魔女の森に迷い込んでしまったとの事でした。
魔女には、こんな国の外れにある場所に迷い込める意味が分かりませんでした。けれど、王子様が余りに暢気なので、何か裏があるのでは、と追求する気も起きません。
過去にもよく迷子になったという王子様は、お迎えが来るまで魔女の家に置いて欲しいとお願いしました。自力で帰ろうとすれば余計にお付きの人達を困らせる事になると、王子様はちゃんと分かっていました。
魔女は悩んだ末に頷きました。この暢気で、図々しく、自分の庭に入り込んだ王子様を、こき使ってやろうと思ったのです。
魔女は王子様に部屋の掃除を押し付けました。王子様は箒の使い方が分からず、バケツをひっくり返して転びました。
魔女は王子様に料理を言いつけました。王子様は料理に取り掛かる以前に、野菜を切る時点で指を血だらけにして断念しました。
魔女は薪割りを王子様に命令しました。結末に予想のついた魔女は、慌てて前言を撤回して王子様を止めました。
魔女は王子様のあまりの使え無さに、すっかり疲れてしまいました。王子様は申し訳なさそうに謝ったものの、どこか楽しそうににこにこしています。
疲れを通り越して怒りが湧いて来た魔女は、王子様を指差して怒鳴りつけました。
「うちに居座るつもりなら、家事能力くらい身に付けてもらうわよ、この木偶の坊!」
王子様はにこにことして、頷きました。
それから、魔女の猛特訓が始まります。魔女は小姑のように細かく、厳しく王子様に家事を仕込みました。ちょっとの埃も許さなければ、料理の味にもうるさいのです。少しの失敗で、多くの罵倒を口にしました。王子様はその度に、ただにこにこと笑っていました。
王子様は、意外なほどあっさりとそれらをこなせるようになっていきました。まったく経験が無かっただけで、二度、三度もすると様々な家事をこなせるようになったのです。のんびりした気性の為に見過ごしがちですが、とても器用な人なのでしょう。
それでも魔女は難癖をつけるように文句を良い、王子様はやっぱりにこにこと笑顔で頷いていました。
王子様が魔女の家に来て三日目、いつもにこにこしている王子様が無性に気に入らなくて、魔女は怒りました。どれほど魔女が理不尽に怒鳴っても、口うるさく罵倒してもにこにこしている王子様に、馬鹿にされているような気がしたのです。
「私のような卑しい者の言葉なんか、受け流せば良いと思っているのでしょう!?」
「いいえ。私は楽しいから笑顔が浮かぶのです」
「嘘おっしゃい!」
魔女は王子様の笑顔が嫌いでした。にこにこした顔で魔女を見る人間なんて、信用なりません。嫌われ者の魔女に笑いかける人間などロクな者じゃない、と魔女はよく知っていました。
「どうせあんただって、意地悪で我儘で傲慢で強欲な私に、うんざりしてるんでしょう!?」
魔女は自身を形容する言葉を並べ立てて王子様を責めました。王子様は初めて少し困ったように首を傾げて言いました。
「いいえ、そもそも僕にはあなたがそんな風には見えません」
王子様は困ったように微笑んで魔女に言いました。
「僕にはただ、あなたが寂しがっているように見えます」
魔女は王子様の見当違いな同情めいた言葉に、再び罵倒を投げかけようとしました。口を開いて、言葉を発そうとして―――――けれど声になりませんでした。
すると、見る見るうちに魔女の瞳は湖のように潤っていき、やがて決壊して魔女は大きな声を上げて泣きました。
魔女は始めから意地悪だった訳ではありません。
一人の女の子が、森で生活をしていました。気付けば、女の子は『魔女』と呼ばれていました。誰も、魔女と目を合わせてくれません。言葉を交わしてくれません。笑いかけてもくれません。
魔女の心は、どんどん頑なになっていきました。
高値で売り付けていると噂される薬草は、採れる場所が限られているだけあり、入手が困難でもともととても高価な物なのです。魔女の提示する値段は、正規価格に比べれば格安なのです。それでも高い薬草なので、ケチで意地悪なお金持ちが『強欲』と魔女を不当に貶めていたのです。
魔女が、人間が森に入る事を嫌うのは、森には危険が沢山あると誰よりもよく知っているからです。件の薬草が生えている所など、魔女以外の人間には辿り着く事さえ出来ないでしょう。
魔女は、誰も傷付けない為に、自身が嫌われるような方法しか取れませんでした。
やがて、そんな魔女の苦悩をちっとも分かってくれない人間達に、魔女の心も捻くれていきました。
魔女は手を伸ばして拒絶される事が、何より哀しかったのです。だから、手を伸ばさない『魔女』で在りたかったのです。
魔女は泣きました。本当はずっと、誰かに気付いて欲しかったのです。
寂しがり屋な女の子の事を。
それから、魔女と王子様はいつも一緒にいました。
掃除も、料理も、薪割りも、二人で一緒にしました。魔女は、事務的にこなしていたそれらの作業を初めて楽しいと感じました。久しぶりに笑顔を取り戻した魔女を、王子様は嬉しそうににこにこと眺めていました。
あるとき、魔女は王子様に問いかけます。
「意地悪な魔女の噂は聞いていたでしょう?私の事、怖くなかったの?」
王子様は暢気な笑顔で答えました。
「初めて会ったときに、僕はとても喉が渇いていたのです」
魔女は何の話だろう、と首を傾げました。
「そんな僕に君は水を汲んで来てくれました。優しい女の子だと思いました。君は無意識だったかもしれない。目を覚ました僕に、君は一瞬だけ安堵したように微笑んだのです」
だから僕は君の事がちっとも怖くありません、王子様は魔女の手の甲に優しくキスを落としました。
幸福な日々は一瞬の内に過ぎ去り、七日が立つ頃に、お城から王子様のお迎えが来ました。
魔女は、努めて笑顔で王子様を送り出そうとしました。けれど、本当は今にも胸が張り裂けそうでした。
王子様が、真剣な顔をして言いました。
「僕と一緒にお城に来ていただけませんか?君にお礼をしたいのです」
「いいえ。そんなものは必要ないわ、王子様」
「では、一度遊びに来られませんか?」
「『魔女』がお城に行けば、みんなびっくりしちゃうわ」
「どうしても?」
「どうしても」
王子様は切ない顔で、魔女の手を取りました。
「僕は、共にお城に戻り、君と婚礼を上げたい。僕は君を、心から愛しているのです」
魔女は王子様の言葉に、歓喜しました。魔女もまた、王子様を愛していたからです。
けれど魔女は、自身の手を掴む王子様の手を振り払いました。
「だめよ。私は嫌われ者の魔女、貴方は愛される王子様。私は貴方のお妃様には相応しくないわ」
王子様は、唇を噛み締めて魔女に背を向け、お城に戻って行きました。魔女は、普通の女の子のように美しい微笑みを浮かべ、見えなくなるまで王子様に手を振りました。
そして、王子様一行の姿が見えなくなった頃、魔女はその場に膝をついて、子どものように泣きじゃくりました。
魔女は王子様を、愛していたのです。
しばらく、魔女は泣き明かして暮らしていましたが、十日も立つ頃には王子様と出会う以前までの暮らしを取り戻す事が出来ました。
野草の勉強と薬草の採集を繰り返す日々です。魔女は毎日を穏やかに暮らしていました。
魔女は、寂しがり屋な女の子を王子様が見付けてくれただけで、もうそれだけで良かったのです。後はもう、王子様の優しさと、あの暢気な笑顔を思い出すだけで、幸福に暮せました。
そんな風に思い出を胸に暮らしてまた二十日ほど経った頃、魔女の家の扉がノックされました。また危険をかえりみない人間が、森に入り込んだのでしょうか。それにしては、よく魔女の家にまで辿り着いた、と感心します。魔女の家は、森の奥にあるのです。
魔女は怖い顔を作りだして、くんであった水桶を手に取りました。危険なこの森に人間を近づけさせない事、例えそれで嫌われたとしても、それが魔女の役目だと決めていました。
魔女は扉を開くと同時に、正面に立っている人物に水を掛けました。そして、口汚い罵倒で追い払おうとして、言葉を失いました。
そこにいたのは、あのとき別れた王子様だったのです。
「初めて会ったときと同じですね」
水を掛けられた王子様は怒る訳でもなく、お供も連れず、暢気ににこにこと笑っています。一瞬幻かと思いましたが、この笑顔は間違いなく魔女の知っている王子様です。
呆然とする魔女に、王子様は言いました。
「君はお城に行く事を断ったけれど、僕はどうしても君といたいのです。だから考えました。僕を『魔女の弟子』にしてください」
固まっていた魔女は、その言葉でようやく我に返りました。
「弟子って、あなたは王子様でしょう?」
「ご安心を。兄にも父にもきちんと了解を得てここに来ました。だからこんなに時間がかかってしまったのです」
王様たちは、暢気で意外と頑固な王子様に折れ、その我儘を許しました。目に入れても痛くないほど可愛がっている王子様には、国中の人が弱いのです。
「掃除も、料理も、薪割りもお任せ下さい。魔女の弟子としてここに置いてくれませんか?あわよくば、君が僕の妃になる事を拒んでも、僕を君の旦那さんにしてくれるととても嬉しいのですけど」
王子様はにこにことして、楽しそうに言いました。魔女は呆然と口を開きます。
「魔女の弟子なんて、貴方まで嫌われ者になるつもり?」
「誤解はいずれ解けるものですよ。それに僕はただ、君といたいだけですから」
魔女の返事を聞く前から、王子様は幸せそうに笑っています。王子様は魔女の顔を見られるだけで、簡単に幸せになってしまうのです。
魔女は諦めたように溜息をつき、顔をくしゃりと歪ませて笑いました。
「それに、旦那だなんて図々しいわ。だけどそんな貴方だから、私は貴方を愛したのでしょうね」
王子様は、にこにこと暢気な顔をして、魔女を抱きしめました。魔女はもう二度と、寂しがり屋な女の子を見失う事はないでしょう。
嫌われ者の魔女は、あるとき一人の弟子を取りました。
仲間を増やしてどうするつもりなのか、と初めこそ人々は恐れましたが、ちょうど同じ頃に魔女の噂は誤解であるという話が広まりました。
半身半疑の人々でしたが、やがてたまに街を訪れるその姿を見て、それが真実であると多くの人々が悟りました。
以前は冷たい態度に終始していた魔女が、とても柔らかく微笑むようになっていたのです。それこそが本来の姿であると誰もが分かるような、幸せな笑顔でした。
その傍らには、いつだって魔女を王子様のように優しく守る男性の姿があったといいます。
めでたし、めでたし
読んでいただきありがとうございます。