塔
私は塔を登っている、左手に年季の入った石造りの壁を感じながら。右手側にはなにもなく、ただただ憎らしいほどの青空が広がっているばかりである。足元の階段は壁と同じく古びた石造りで、はだしで歩く私にとってはひんやりとして心地よい。これがもし真っ赤に燃える鉄板であったなら、私はここまで登ってくることも出来なかっただろう。いや、それでも私はこの塔を登らなくてはならない。私よりも少し前、この塔を登っていったあの子に落とし物を届けるために。
もうどれほど登っただろう。ふと足を止め階段の下を覗き込むと、そこは真っ白な雲海で、その下に地面があるのかさえも確かではない。こうしてタケノコのように塔が伸びていることを考えれば、きっと地面はあるのだろう。だがここからは見えない。それはつまり、地面がない可能性もあるということだろうか。いや、自分が観測できないものは存在しないと考えるのは子供のすることだ。私はそう自分に言い聞かせ、またてっぺんを目指す。塔のてっぺんを。
しばらく登っていると、遠くのほうから黒い点が近づいてくるのが見えた。いったいなんだろう。そうは思ったが、わざわざ足を止めるほどではないか、と思い直しまた階段を登る。するとどうだろう、その黒い点は段々と私に近づいてくるではないか。どうやらその黒い点は、カラスらしい。しかしその顔は鳥のものではなく、女のそれをしている。くちばしもない。くちばしはどこかに忘れてきたのだろうか。それにしても、なかなか綺麗な顔立ちをしているなぁ。そんなことを考えながら立ち止まってジッとカラスを見ていると、カラスは私の足元にとまった。
「こんにちは」
そのなりからは考えられないほど高い声でカラスは私に挨拶をした。
「こんにちは」
「今日はずいぶん暑いわね」
「そうですか?」
「そりゃあなたは暑くないでしょう、そんな涼しそうな白いワンピースを着ているんだもの。私なんてこの黒いドレスしか着れないのよ」
カラスは不満げに自分の黒い羽根をばたつかせる。私から見ればその羽はとても美しいのだが、本人が嫌がっているものを変に褒めるのも不躾かと思い口をつぐんだ。
「それで、あなたはどこまで登るの?」
「てっぺんまで登るつもりです」
「てっぺん!」
カラスはかん高い声で大笑いする。私はそこで初めて、あぁこのカラスとは友達にはなれないな、と思った。カラスはひとしきり笑うと、羽で流れた涙をぬぐいながら言葉を続けた。
「てっぺんって、本気で言っているの?」
「そうですね、本気というか、登らなくちゃいけないんです」
「羽もないのによくそんなこと思い立つものだね」
カラスはバサッと黒い羽根を羽ばたかせ、馴れ馴れしく私の右肩に止まる。結構重いな、なんて私が暢気に考えていると、カラスは私の耳元で囁いた。
「諦めなさいな、どうせ出来っこないんだから」
「そういうわけにも」
「無駄なことに時間を費やすほど、あなたの人生は長くないでしょう? 限られた時間は有意義に使わなくちゃ。そうだ! あなたさえよければ、私と同じカラスにならない? 楽しいわよ。翼があるから好きな時に空を飛べるし、ご飯だって他の人からかっぱらえばいいんだから」
カラスはしつこく私に登るのを諦め、カラスになるように勧誘してくる。しかし、私にはいまいちピンとこなかった。私が私以外のなにかになれるものだろうか、そんなことは不可能なのではないだろうか。私にはそのシンプルな疑問がどうにも解消できない。登ることをやめるのもそうだ。登ることをやめるということは、私が私でなくなるということと同義だが、こうして逡巡してみても、登ることをやめた私、つまりあの子を追いかけることをやめた私の姿が一向に想像が出来ない。だからカラスには悪いが、この提案はお断りすることにした。
「ごめんなさい。私はこうして登っている私が気に入っているんです。だからこのまま、てっぺんまで登っていこうと思います」
それを聞くとカラスはいかにも不満げに鼻を鳴らし、飛び立った。そして私の頭の上で一回りしながら、こう言い捨てる。
「徒労に終わって途方に暮れるがいいさ。これだから羽無しは駄目なんだ。空の目を持っていないから、自分を、世界を客観的に見れない。まぁせいぜい頑張りなさいな。あんたの死体は私がついばんであげるから」
カラスは言いたいことを言い終わると、満足したのかまた遠くのほうへと飛んでいって、空の黒い点になり、そして見えなくなった。
私はそれを見送り、また、塔を登る。
てっぺんはまだまだ先だろうな、と思いながら登っていたら、誰かが階段に腰かけて釣りをしているのに気がついた。釣り糸は雲海まで垂らされている。釣り針は雲の向こうの海か湖にでも届いているのだろうか。たとえかかったとしてもここまで吊り上げるのは大仕事だろうなぁ、などと考えていると、どこかで嗅いだことのあるような、体に悪そうないい香りがした。そうか、これは煙草の香りだ。ニコチンとタール、それと少しの地球の香り。この香りが酷く疎まれていることは重々承知しているが、私は嫌いではなかった。むしろ好きだった。なんだかとても、落ち着いて。
「煙がそちらにいったかな」
釣り人がこちらを見もせずに、咥え煙草のまま独り言のようにそう呟いた。声だけでは男か女か判断できない、そんな声だった。
「いいえ、お気になさらず」
「こっちが気にするんだよ」
そう言うと釣り人は、まだずいぶん残っている煙草を右脇に置いた赤いバケツに放り込んだ。ジュッ、とはじける音がして少し煙がのぼり、やがて消えた。悪いことしちゃったな、と思いつつも、私の興味はすっかりその釣り人に向いていた。カラスの言葉が正しければ、今はそれなりに暑いらしいが、この釣り人はまるで雪降る十二月の毛長犬のような厚着をしている。その服は随分くたびれていて、ひょっとすると私よりずっと年寄りかもしれなかった。被っているつば広帽子もくたびれてしまって、先のほうは恥ずかしそうにうつむいている。そのせいかその影で顔がよく見えない。
「吸わない奴は、吸う奴がみんな無神経だと思っている。あながち外しちゃいないが、正解ってわけじゃない。その、正解ってわけじゃない、ってことをしっかりと覚えておいて欲しいもんだね」
釣り人の含蓄のある言葉も気になるが、それよりも私は釣り人の顔が気になってしょうがなかった。なんとか、顔をおがむ方法はないだろうか。
そこで気づいた。私はまだまともに挨拶のひとつもしていないじゃないか。恥ずかしくなって思わず口元を手で隠し、気を取り直して、釣り人へ挨拶した。
「釣れますか?」
私がそう言うと釣り人はブルッと震え、押し殺したように笑いながらそれに答えた。
「今日はボウズだねぇ」
私は自分の挨拶がこの場に適したものだったと安心すると同時に、少し悪いことを聞いてしまったかな、という不安も抱いた。しかしここは、最低限のコミュニケーションが取れたことを喜ぶべきだろう。ついでに顔も見せて貰いたいところだが、どのようにアプローチをかければいいのか、その見当はついていなかった。
「まぁ私くらいになるとね、ボウズでも楽しいものなんだ」
「そうなんですか。てっきり、釣りは釣れないとつまらないものだとばかり」
「初心者はそうだろうさ。でもね、私くらい長いこと、それこそ呼吸するよりも長く釣り糸を垂らしていると、段々、釣りそのものが人生になっていくものさ。考えてごらん。釣りという人生において、獲物が釣れるなんて一瞬のことじゃないか。そりゃ嬉しいさ、初孫くらい嬉しい。でもね、人生において嬉しいと感じるのはその時だけじゃない。小さな幸せもいっぱいあるものさ。みんな気づかずあくせくしてるだけでね、ちょっと落ち着いてみりゃすぐそばに。ほら、お嬢さんにも」
釣り人にそう言われ、ふと自分の右手を見る。すると私の右手に、キラキラと光るティアラがあった。そうだ、これはあの子のものだ。なんで忘れてしまっていたんだろう。長いこと塔を登っていたからかな、いつしかただ塔を登ることが目的になっていたのかもしれない。危ないところだった、こんな調子じゃどこかで落っことしてしまうかもしれない。私は気を引き締め、それを再度、壊れない程度に、握り直した。
「ありがとう御座います。あやうく落っことしてしまうところでした」
「そうかいそうかい、そりゃよかった。とにかくね、山札と場ばかり見るのもいいけど、まずは手元のカードをよく確認して、大事にすることだ。そうすりゃ大概のことは、まぁ、なんとかなるよ」
いつのまにか例えが釣りからカードゲームの話になっているのがおかしくて、私はクスクスと笑う。するとそれに釣られてか、釣り人もククッと笑った。私にはなんだかこのやり取りが凄く懐かしい気がする。暖炉の前でお婆さんとお話するような。いや、そもそも私に家族というものがいるのかさえ分からないけれど。それでもこうして釣り人とやり取りをしていく内に、私は大切なことに気づけた。それは、私はあの子にこの落とし物を届けなくちゃいけないということだ。ただ漫然と塔を登っていてはいけない。私はてっぺんで待つあの子に会うために、塔を登っているのだ。そんなことを考えていたら、釣り人の顔のことなど些細なことだと思うようになっていた。もう、行かねば。
「それじゃあ、私はもう行きますね」
「あぁ、いってらっしゃい。バケツを蹴っ飛ばすんじゃないよ」
「はいはい」
私は赤いバケツを蹴っ飛ばさないように気をつけながら、釣り人の後ろを通り抜ける。するとちょうど反対側、釣り人の左脇に青いバケツがあった。軽い気持ちでその中を覗き込む。
その中で、三匹の小さな犬が犬かきをしていた。
「釣れてるじゃないですか」
「犬はね」
釣り人はそう言うと、初めて私に顔を向けた。年嵩の、毛並みの乱れたシャムネコだった。
「私は猫を釣りたいんだ。犬と違って猫はなかなか釣れないから、面白いんだよ」
釣り人はそう言うと大あくびをして、ポケットからクシャクシャの煙草を取り出し、器用な動作で一本咥え、これまた見事な手さばきでマッチに火をつけた。
「ほらもう行きな。煙がそっちいくよ」
「こっちは風上だから、大丈夫ですよ」
釣り人は煙草に火をつけ、赤いバケツにマッチを捨て、深く息を吸ってから、細く煙を吐き出してこう言った。
「風向きなんていつでも変わるんだ。いつまでも風上にいると思うんじゃないよ」
私はその言葉を聞いて、老人の愛のあるお小言の香りを感じ、また笑った。
「では、風上にいるうちにてっぺんを目指すことにします」
「そうしな」
「猫、釣れるといいですね」
「なにしろつれないやつだから」
私と釣り人はまた見つめ合って、ニヒヒと笑った。
「それじゃ、こんどこそ行ってきます」
「転ばないようにね」
私は釣り人に改めて手を振り、また塔を登る。
少し登ったところで、なぜだか急にどうしようもなく寂しくなり、思わず振り返る。釣り人はもう見えない。まだ釣りを続けているのか、もうどこかへ行ってしまったのか、ひょっとしたら落っこちてしまったのか、分からない。たったあれだけのやり取りをした間柄だが、なんだか自分にとって、釣り人の存在がとても大きなものになっていた。だからその、分からない、がたまらなく怖くて、引き返そうか、などと考えてしまう。すると、あの煙草の香りがフワッと香った。それをかいで私は、あぁ、風向きが変わったんだな、と悟った。この風は、私にとって追い風だ。私は自分の中に、勇気の火がともったことを感じ、また塔を登り始めた。
どれくらい登っただろう、もう何段階段を踏みしめただろう。まだまだ、てっぺんは見えない。それでも不思議と、私は後ろ向きな考えは抱かなかった。お腹も空いていないし、喉も乾かない。なにかに夢中になって打ち込むことを、寝食を忘れる、というけれど、まさか喉も乾かないなんて。なんだかおかしいな、そう思い自然と笑顔になる。左手に感じる塔の固さも、はだしで踏みしめる階段の冷たさも、私を応援してくれているようでとても心地よい。ふと、右手に広がる空を見る。青い、どこまでも青い。雲ひとつない、雲は足元に広がっている。それはなんだか寂しいけれど、自分は今とても高いところにいるんだ、だからきっとてっぺんには近づいている、という自信にはなる。
あの時、カラスの言うことに従っていたら、今頃どのあたりを飛んでいたのだろうか。そんなことをふと考える。もちろん、誘いを断ったことを後悔しているわけではない。ただ、自分がもし別のなにものかだったなら、と考えることはどうにも止めらない。別にその考えに引きずられるわけではないけれど、そういう風なことを考えていると、なんだか私の人生には色々な選択肢があったのだな、と感慨深くなるのだ。選択肢がない人生より、ある人生のほうがずっといい。道を選ぶたびに別の道が閉ざされるのだとしても、自分の意志で道を選んだのだという自覚が、私を強くする。
私は、右手に持ったティアラを見る。あの子はこれを落としたことに気づいているだろうか。ひょっとしたらこれはあの子にとって、取るに足らないものなのかもしれない。でも、これがもし大切なもので、あの子がこれを落としたことについて深く後悔をし、てっぺんで一人寂しく泣いているとしたら。それを想像すると、なんだか胸が張り裂けそうになる。どうしてだろう、私はあの子の顔も知らないのに、ただ階段を登っていく後姿しか知らないのに。ひょっとしたら、私はなにか大切なことを忘れているのかもしれない。やはり私は登るしかないようだ。この塔のてっぺんまで。
少し先の階段で、洒落たハツカネズミが風呂敷を広げ、お茶をしている。お茶請けはサンドイッチだろうか。飲んでいるのはどうやら紅茶のようで、お茶のよい香りがこちらまで香ってくる。しかし困ったことに、ハツカネズミは階段いっぱいに風呂敷を広げているものだから、このままでは先に進めない。どうしたものかと考えあぐねていると、ハツカネズミがこちらに気が付いた。
「ごきげんよう」
ハツカネズミはすましてそう言った。
「ごきげんよう。お茶をされているんですか?」
「えぇそうよ。太陽はもうのぼっていないけれど、こうも明るいとお茶をしたくなるんですの。あなたも一杯いかが? 本当はドブネズミさんとお茶の約束をしていたのだけれど、彼女ちっともこなくって。ひょっとして、落っこちちゃったんじゃないかしら」
ハツカネズミはそういうと、ホホホと笑う。様子から察するに、ハツカネズミとドブネズミはお茶をする関係だけれども、それは別に仲がいいからというわけではないらしい。それか、お互い気兼ねしないすごく親しい仲かも。別に喉は乾いていないけれども、お誘いを断る理由もないのでお相伴にあずかることにした。
「じゃあ一杯いただけますか?」
「えぇ、どうぞ。遠慮なさらず。お砂糖はいくつ?」
「では、一つ」
「ごめんなさい、粉砂糖しかないの。スプーン二匙でいいかしら?」
「大丈夫ですよ」
ハツカネズミは実に手際よくポットからお茶を注ぎ、砂糖をいれる。いい香りだ。なんだろう、紅茶の種類には詳しくないけれど、好きな香り。それにカップも可愛い。お花の周りをミツバチが飛び回っている絵柄だ。どこの国のアンティークだろう。なんとなくだけど、高価そうだ。
「あら分かる? うちの主人は輸入商ですから、こういったティーセットにはこだわりがありますのよ」
そんなにマジマジと見ていただろうか。私は恥ずかしくなって、小声で、いただきます、と言い紅茶を飲んだ。
「あ、おいしい」
「お口にあったからしら」
「はい、とってもおいしいです」
「でしょう? 少し渋みがあるけれど、それがいいアクセントなのよね。ただ華やかなだけの紅茶はたくさんあるけれど、やっぱり紅茶というものは渋みがないとね。紅茶を飲んだという気にならないから」
確かにそうかもしれない。飲みやすい、は必ずしも、おいしい、というわけではないだろうし。このハツカネズミは中々ものの分かるひとかもしれない。
「それであなたはどちらまで?」
「はい、てっぺんまで行こうかと思っています」
「まぁ、大変ね! お若いのに」
「ちょっと落とし物を届けなくちゃいけなくて」
私はそばに置いたティアラに触れながらそう言った。
「あら? それどこかで見たことあるわね」
「そうなんですか?」
「えっと、どこだったかしら。あぁそうだ! あの時よ、ほらあの時」
あの時と言われてもどの時か、私に分かるはずがないでしょう。その言葉をどうにか引っ込めて、私はハツカネズミの次の言葉を待った。
「前に暗くなった時よ。あの時たしかに見たの、空の上をスーッと飛んでいく女の子を。翼もないのにね。もう私ビックリしちゃって、主人を叩き起こしたんだけれど、その時にはもう見えなくなってたわ」
「女の子? 黒いワンピースを着てましたか?」
「そうそう。確かその子がそれをつけてたわ。あなた知ってるの?」
「いえ、詳しくは」
やっぱりあの子だ。だったらこのティアラはあの子のもので間違いない。漠然とした思いが確信に変わる。届けねば、一刻も早く。私はまだ熱い紅茶を一気に飲み干して、立ち上がる。勢いよく飲みすぎて口がヒリヒリするが、些細なことだ。
「お茶、ご馳走様でした」
「あら、もういいの? ポットにはまだ残ってるわよ? サンドイッチもあるし」
「いえ、もう行かなくちゃいけないんです」
「あら残念」
「少し跨がせて貰ってもいいですか?」
「あらごめんなさい。それじゃちょっとどけるわね」
ハツカネズミはそういうと、手早くバスケットとサンドイッチをどけて、私が通れる道を作ってくれた。
「ありがとう御座います」
「気をつけてね。また帰ってくることがあったら、お茶の続きをしましょう」
「はい、是非」
私は心にもないことを言って胸を少し痛めながら、階段を登っていく。すると後ろのほうから、ハツカネズミの声がした。
「もう! 遅かったじゃないの」
私もあの子にそう言われないように、急いで行かなくては。てっぺんはもう少しのはず。そう自分に言い聞かせ、私は塔を登る。
てっぺんはもうそこだ。随分登ってきたが、これでこの旅も終わり。てっぺんで待っているあの子にこれを届けたら、もうおしまいだ。その後はどうしようか。やっぱり下ろうか。いや、そんなことは実際にあの子に会ってから考えればいい。
ふと足を止め、空に目を向ける。青空、太陽なんてもう見えないのに、不自然にも青い空。深く疑問を持たずにここまで来たけれど、よく考えればおかしい。明かりがないのに明るいなんてこと、本当にあるのかな。まぁ実際、そうなっているのだけれど。この世界は、なにかがおかしいのかもしれない。いや、そもそもこんなに高い塔を登っていること自体がおかしい。だけれども、それが世界の理だというのなら、逆らおうとも思わない。世界に逆らってなんになるだろうか。自分の世界を作るとでもいうのだろうか。それはあまりに幼いだろう。だって、このおかしな世界には、人の顔をしたカラスもいれば、釣りをしているシャムネコだっているし、お茶をするハツカネズミだっているのだ。この世界を否定するということは、そんな彼ら彼女らを否定するということだ。そんな権利が、一体誰にあるというのか。世界はそれそのもの、あるがままが尊く美しい。私はその世界に生きている以上、その役目を全うしよう。
私はまた登り始め、ついにてっぺんにたどり着いた。
てっぺんにはなにもなかった。ただただ、だだっ広い石敷きの広場になっている。柵なんてないから、酔っ払いなんてちょっとした拍子に落ちてしまうんじゃないかしら。そんなたわいないことを考えていると、広場の中央でしゃがみ込んでいる、黒いワンピースを着た女の子を見つけた。間違いない、あの子だ。私は声をかけようとそばに近寄る。するとどうやら、その子は泣いているらしかった。白い手で顔を覆い、しゃっくりをあげながら泣いている。なんだか私は、見てはいけないものを見てしまったような妙な罪悪感を覚え、声をかけるのをためらう。女の子は、涙をぬぐってはまた顔を覆い、泣き続ける。どうやら私には気がついていないようだ。私は意を決し、彼女に声をかける。
「どうして泣いているの?」
「落としちゃったの、とっても大切なもの」
「どこに?」
「分かんない。でもあれがなくちゃ、夜が帰ってこないの。ずっとお昼のままなの。太陽がいなくなってから、月がどこかにいっちゃってから、私はずっと夜の係なのに、そのお仕事が出来ないの」
「そうなんだ」
「別に怒られるから悲しいんじゃないの。夜を待っている人に、夜を届けられないのが悲しいの、情けないの。私ってどうしていつもこうなんだろう」
「泣かないで。ほら、持ってきたよ」
私はそう言って、後生大事に持ってきたティアラを差し出す。あの子は顔をあげ、真っ赤に腫らした目でそれを見つめ、満面の笑みを浮かべる。まるで開いた真っ白な花のようだ。
「夜のティアラだ!」
彼女は私からティアラを受け取り、抱きしめながら小躍りする。
「ありがとう! あなたは命の恩人だわ」
「命だなんて、大げさね」
「でも、どうしてこれが私のって分かったの?」
正直に言うべきだろうか。あなたが塔を登るのをずっと見ていたから気づいたと。でも、そう言ってしまうと私がこの子のストーカーのようにならないだろうか。私は自分のちっぽけなプライドと真実を天秤にかけた。
「もともと、この塔を登ろうと思っていてね。さぁ登ろう、っていう時にこれが落ちてたから、とりあえず拾っておいたの。いやぁ、持ち主が見つかってよかった」
嘘はついていない、半分くらいはそうだ。登った動機は言っていないけれど。そんな話を、どうやらこの子は信じてくれたらしい。
「そうなんだ。本当にありがとうね、これでちゃんとお役目を果たせるよ」
「お役目って?」
「夜を連れてくるの。太陽も月も、星もいなくなったこの世界に」
「それらがなくなった世界って、ずっと夜になりそうなものだけど」
「世界はまだ待っているんだよ、太陽や月、星が帰ってくるのを。ほら、岬の灯台だって帰ってくる船の為に火をたくでしょう? あれと同じなんだよ。帰ってくる保証なんて、約束なんて、どこにもないのにね」
彼女はそういって、寂しそうにうつむく。ひょっとすると彼女は、見た目のままの華奢な少女ではなく、もっと大きな、ひょっとしたら神様のような存在なのかもしれない。でもなければ、こんなおかしな世界で世界に対しての使命を担うような立場にいるだろうか。もちろん、この子の言っていることが真実ならば、だけれども。しかし私は、目の前のこの子の言うことを素直に信じてしまっている。初対面のはずのこの子のことを、まるで長年の親友のように、家族のように思ってしまっている。冷静に考えればおかしい。しかしこのおかしな世界、どうして私だけまともでいられるだろうか。
「私になにか手伝えることはある?」
「あなたはもう十分、手伝ってくれたわ。だってこれを持ってきてくれたんですもの」
彼女は私が持ってきたティアラを掲げながら、子供の顔で大人びた笑みを浮かべる。その姿に私は思わず、胸を押さえた。まるで恋のような、恐怖のような、そんな感情が胸にはしる。これが畏敬の念というものだろうか。敬虔な信者がこの場にいたら、この微笑を見ただけで失神するのではなかろうか。それほどまでに彼女の笑顔は、静謐で、神々しかった。
私が見つめているのに気づいたか、彼女は恥ずかしそうに頬をかいた。その顔は年相応で、なんだか安心する。
「あなたには、お礼をしなくっちゃ」
「別にいいよ、お礼が欲しくてしたんじゃないし」
「こっちの気が済まないの。あ、そうだ。ちょっとしゃがんでくれる?」
私は言われるがまま、彼女の前に跪く。いったいなにをくれるんだろうか。そう思っていると、彼女は私の耳に顔を近づけ、なにごとか囁く。何語だろう、聞いたことのない言葉だ。そしてその言葉を終えると、彼女は私の額に軽くキスをした。冷たいキスだ。私は思わず石のようになってしまった。
「これでよし、っと」
「な、なにが?」
「これであなたにもおとずれるわ」
「だからなにが?」
「安らかな眠りが、温かな夢が」
私は馬鹿みたいに口を開けたまま言葉を探す。しかし、適切な言葉が思いつかない。どういうこと、だろうか。ありがとう、だろうか。そのどちらも違う気がする。ただ彼女の言う、眠りと夢、その言葉はとても魅力的だった。そういえば、私が最後に寝たのはいつだっただろうか。
彼女は空に向かって、何事か呟く。空がそれになにか答えたようには見えない。でも彼女は、満足そうに微笑む。そして丁寧な所作でティアラを被った。その姿は、いつか見た絵にそっくりだった。
「あなたは、昔絵に描かれたことがあった?」
「そんなこともあったかもね」
「ひょっとして私よりもずっと年上?」
「多分ね」
我ながらなんて馬鹿な質問をしているのだろう。でも何故だか、今の彼女の前にいると、自分がとんでもなく子供になったような気がしてくる。もう覚えていないけれど、母親の前では私はこんな姿を晒していたのかもしれない。
「もう行くわ」
「もう行っちゃうの?」
「もう行かなくちゃいけないの」
「もうちょっといいんじゃない?」
「もうこれ以上、待たせるわけにはいかないの」
彼女が、少しずつ少しずつ宙に浮いていく。それにつれ、世界に少しずつ夜の帳がおりてくる。ずいぶん長いことやってこなかった夜がやってきたのだ。
私は登っていく彼女に、それでも声をかける。
「こんなこといつまで続けるの?」
「みんなが帰ってくるまで」
「帰ってきたらやめるの?」
「その時、考えるわ」
彼女は私を見下ろしながら、慈母のような表情でこう言った。
「おやすみなさい、愛しの我が子よ」
途端、私は瞼が重くなるのを感じた。あぁ、そうだ、まどろみってこんな感じだったっけ。もうずいぶん眠りを忘れていたから、分からなかった。それにしても、我が子よ、ってどういう意味だろう。見た目だけだと、あの子は私よりもずっと年下に見えたけど、実際はもっと年上なのだろうか。それを確かめようかと思ったけれど、彼女はもう随分と高いところへ登ってしまった。それに、なんだかとても眠い。これは予感だが、今眠るとすごくいい夢を見られそうな気がする。
私は広場の中央に横になる。固くて冷たい床も、なんだか心地よい。このまま、このまま眠ってしまおう。私はまどろみの誘いのまま、深い眠りに落ちた。
世界に夜がやってきた。ずいぶん長い昼間が終わる。不眠症気味のコウモリやフクロウを除いて、みな寝床に入っていく。世界に夜がやってきたのだ。次の昼はいつか分からない。
それでも、昼でも夜でも、その塔はそこに立っている。てっぺんにあの子を寝かせながら。
完




