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愛してると呟く俳優は、僕を35階の部屋に縛りつけた ――飛べない蝶――  作者: 雨音 美月


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7/7

最終話 春を越えて

【過去との清算】


(氷月視点)


四月下旬。

都内のホテルで開かれた、映画祭のレセプション。


グラスを手に、業界関係者と当たり障りのない言葉を交わす。

笑顔を作るのは、もう何年も続けてきた癖だった。


「高遠さん、次回作も楽しみにしています」


「ありがとうございます」


軽く頭を下げ、視線を会場に巡らせた瞬間——

胸の奥で、何かが静かに弾けた。


遠くに見える、見覚えのある横顔。

黒いドレス。

抑えた笑み。


梨華だった。


前より、少しだけ細くなった気がする。

視線を逸らそうとした、その刹那。


彼女が、こちらを向いた。

目が、合う。


ほんの一瞬、時間が止まった。

凍りついた表情が、次の瞬間、かすかに揺れる。


僕は動けなかった。

梨華も、立ち尽くしている。


ざわめきが、遠のく。

音のない水の中に沈んだみたいだった。



——逃げるべきか。

——それとも。



深く息を吸い、足を踏み出す。



「……久しぶり」


「……氷月」



声が、わずかに震えていた。


「元気そうだね」


「……あなたも」


言葉が、空白に落ちる。


「今日は、誰かと?」 


「一人よ。あなたは?」


「僕も」




「……そう」


梨華は、視線を伏せた。


「あの……」


「梨華」


彼女の言葉を遮るように、静かに言う。


「ここじゃ、話せないかな」


「……うん」


「また、連絡するよ」


「……本当に?」


その瞳に宿る光は、ひとつじゃなかった。

期待も、諦めも、後悔も——

溶け合って、判別できない。


「ああ。約束する」


梨華は、小さく頷く。


「……待ってる」


それだけ言い残して、彼女は人混みに紛れていった。


僕は、グラスをテーブルに置く。

液体はまだ残っているのに、

もう、味はしなかった。





マンションに戻ると、リビングの灯りがついていた。 



「おかえりなさい」


瑠璃が、ソファから立ち上がる。

その声だけで、胸の奥がほどけた。


「ただいま」


ジャケットを脱ぎ、彼の隣に腰を下ろす。


「……疲れた顔してますね」


「分かる?」


「分かりますよ。いつも見てるから」


その一言が、静かに染みた。


「瑠璃」


「はい」


少しだけ、間を置く。


「話しておきたいことがある」


瑠璃の表情が、わずかに揺れる。


「……何ですか」


「驚かせたいわけじゃない。ただ……ちゃんと伝えたくて」


息を整える。


「今日、元恋人に会った」


瑠璃の瞳が、瞬いた。


「梨華という……一年前に、別れた女性だ」


「……」


「向こうから、話がしたいみたいで。数日後に、会うつもりだ」



沈黙が、部屋に落ちる。



瑠璃は俯き、膝の上で指を絡めていた。


「瑠璃」


「……行ってください」


顔を上げた瞳は、揺れている。

それでも、逃げていなかった。


「氷月さんが、そうした方がいいと思うなら」


「怒らないの?」


「……怒る権利、ないです」


「そんなことない」


彼の手を取る。


「君には、知る権利がある。不安になる権利も、怒る権利も」


「……でも」


「でも?」


「僕、氷月さんの過去……ちゃんと聞いたこと、なかったから」


胸が、わずかに痛んだ。


そうだ。

瑠璃は、聞かなかった。

僕も、話さなかった。


過去を抱えたまま、ここまで来てしまった。


「話すよ。全部」


言葉を、選びながら語る。

梨華とのこと。

裏切られた夜。

壊れかけて、Nocturneに辿り着いたこと。

そこで、瑠璃に出会ったこと。


「……君に会った時、僕は本当に壊れかけてた」


瑠璃は、何も言わずに聞いている。


「でも、君がいたから……ここまで来れた」


「……僕なんて」


「いや」


手を、強く握る。


「君は、僕を救った」


静かな確信だった。


「だから今度は、僕がちゃんと前を向く」


「前を……向く?」


「梨華と向き合って、過去に区切りをつける」


瑠璃の目が、揺れる。


「……怖く、ないんですか」


「何が?」


「また、傷つくかもしれない」


首を横に振る。


「もう、あの時の僕じゃない」


彼の頬に、そっと触れる。


「君がいるから」


瑠璃の瞳に、光が滲んだ。


「……」


彼は、何も言わなかった。

ただ、シャツの裾を、指先でそっと掴んだ。


僕は、静かに抱き寄せる。


「信じて、待っててくれる?」


瑠璃は、胸に顔を埋めたまま、小さく頷いた。


「……はい」


「ありがとう」


額に、そっと唇を触れさせる。


「すぐに帰ってくる」


「……約束ですよ」


「約束だ」




その夜、

言葉より確かな体温を確かめるように、

二人は寄り添ったまま眠りについた。





翌朝。

カーテン越しに、淡い春の光が差し込んでいた。


僕は、スマートフォンを手に取る。

一年以上、開いていない連絡先。

削除することもできなかった名前。


『梨華』


指先が、わずかに震えた。

一度、深呼吸をしてから、メッセージを打ち込む。


『この前は、驚かせてしまったね。

少し、話せないかな。

時間があれば、連絡してほしい』


送信ボタンを押す。

画面を伏せる。


既読がつくまで、三十分。

窓の外では、遠くで鳥の声がしていた。


そして、返信。


『……本当に、いいの?』


『ああ。ちゃんと話したいんだ』


『分かった。いつがいい?』


『今週の木曜、夕方は?』


『大丈夫。場所は?』


『青山のホテル、ラウンジでどうかな』


『……そこでいい』


『じゃあ、16時に』


『うん。ありがとう、氷月』


画面を見つめたまま、静かに息を吐く。



背後から、気配。

振り向くと、瑠璃が立っていた。


「……連絡、したんですね」


少し不安そうな、その表情。


「ああ。木曜日に会うことにした」


「……そう、ですか」


立ち上がって、彼の肩を抱く。

春の朝の、まだ少し冷たい空気。


「大丈夫。ちゃんと帰ってくるから」


「……信じてます」


その声は、かすかに揺れていた。




木曜日。

青山のホテル、ラウンジ。


大きな窓から、春の光が差し込んでいる。

街路樹の若葉が、風に揺れていた。


僕は、窓際の席で待っていた。


十六時ちょうど。

梨華が現れる。


淡い色のワンピース、控えめな化粧。

冬を越えたような、落ち着いた雰囲気だった。


「……久しぶり」


「座って」


向かいの席に腰を下ろす梨華。


「コーヒーでいい?」


「……うん」


注文を済ませると、沈黙が落ちた。

春の午後の、穏やかなざわめきだけが流れる。


「呼び出して、悪かったね」


「ううん。来たかったから」


梨華は、俯いたまま言った。


「……ありがとう、氷月」


「何が?」


「こうして、ちゃんと時間を作ってくれて」


僕は、答えなかった。




コーヒーが運ばれてくる。

カップを手に取り、梨華がゆっくり口を開く。


「……あの時のこと、覚えてる?」


「忘れるわけないよ」


「……そうよね」


カップの縁を見つめたまま、続ける。


「ごめんなさい」


「……」


「本当に、ごめんなさい」


声が、震える。


「あの時の私、最低だった」



沈黙。



「……今、何してるんだ」


話題を変えると、梨華が少し顔を上げた。


「……舞台」


「舞台?」


「小劇場。脇役ばっかりだけど」


意外な答え。


「映像の仕事は?」


「……ほとんど、なくなった」


梨華が、苦笑する。


「あのプロデューサーとは、半年で別れたの」


「……」


「最初のうちは、約束通り、いくつか仕事を貰えた」


声が、少し沈む。


「でも……気づいたの」


「何に」


「私が呼ばれてるんじゃないって」


梨華は、カップを両手で包む。

中のコーヒーの温もりを、確かめるように。


「『高遠氷月の元カノ』が、呼ばれてるだけだった」


「……」


「現場でも、みんなそういう目で見てた。

実力じゃなくて、コネで来たんだって」


指先が、かすかに震える。


「実際、その通りだったから……何も言い返せなかった」


僕は、黙って聞いていた。


「プロデューサーと別れてから、仕事が一気に減って」


「……」


「事務所にも、居づらくなった」


梨華が、唇を噛む。


「結局……自分で選んだ道なのにね」


「それで、舞台に?」


「うん。昔の知り合いが、劇団やってて」


「……」


「最初は断ろうと思ったの。プライドもあったし」


小さく、笑う。


「でも……もう、選べる立場じゃなかったから」


梨華は、窓の外を見る。

若葉が揺れて、やわらかい光が反射していた。


「今は……名前のない役ばっかり」


「……そうか」 


「セリフも少ないし、誰も私のこと知らない」


それでも、彼女は僕を見る。


「でもね……不思議と、悪くないの」


「……」


「地道に、ちゃんと役を作って。

演出家に怒られて、仲間と稽古して」


その目に、かすかな光が宿る。


「こういうの……やったことなかったから」


梨華が、俯く。




「あの頃の私、何も分かってなかった」


「……何を」


「あなたが、どれだけ私を大切にしてくれてたか」


声が、詰まる。


「あなたが、どれだけ傷ついてたか」


涙が、頬を伝った。


「私、自分のことしか考えてなくて」


「梨華」


「仕事が欲しくて、注目されたくて、ただそれだけで」


彼女は、顔を覆う。


「あなたのこと、利用してた」


胸の奥が、軋む。


「……分かってたんだね」


「うん。ずっと、分かってた」


「それでも、やめられなくて……気づいたら、全部失ってた」


「……」


「あなたを、失った」



しばらく、梨華は泣いていた。

ラウンジの穏やかなざわめきが、時間を流していく。



僕は、何も言わずに待った。



やがて、顔を上げる。



「……ねえ、氷月」


「なんだい」


「あの時ね……私、本当は怖かったの」


「……何が」


「あなたの隣にいるのが」



苦しそうに、言葉を続ける。


「あなた、いつも完璧で。

何でもこなして、弱音も吐かない」


「……」


「私……釣り合わないって、ずっと思ってた」


初めて聞く言葉だった。


「だから……自分も何かしなきゃって、焦ってた」


自嘲するように、笑う。


「でも結局、一番大事なものを壊しちゃった」


「……」


「今なら分かるの。

ゆっくりやればよかったって」


彼女は、また窓の外を見る。


「地道に、一歩ずつ積み重ねればよかった」


「……気づいたんだね」


「うん」


小さく、頷く。


「焦らなくても、いいんだって……やっと分かった」



言い終えたあと、沈黙が落ちる。

ラウンジに差し込む春の光が、テーブルの縁を静かに照らしていた。




「……それで、なんで今、僕に会いたかったんだい」


梨華は、深く息を吸う。

胸の奥に溜めていたものを、外に出すみたいに。


「ちゃんと、伝えたかったから」


「何を」


「私が、したことの重さを」


彼女は、真っ直ぐ僕を見る。

逃げ場を探さない目だった。


「あなたに謝って、許してほしいわけじゃない」


「……」


「ただ……逃げたくなかったの」


声が、かすかに震える。


「あなたを傷つけた。利用した。

それは、消えない事実」


「……」


「でも、その事実から目を逸らしたまま、生きていくのは……嫌だった」


その表情を見て、

僕は初めて、彼女のこういう一面を知った気がした。


「……ねえ、氷月」


「なんだい」


「もう一度、やり直せないかな」


その言葉に、僕はゆっくり首を横に振る。


「無理だよ」


「……やっぱり」


「君とは、もう戻れない」


梨華の顔が、歪む。


「……誰か、いるのね」


僕は、静かに頷いた。


「ああ」


「……どんな人?」


予想外の質問だった。

梨華は、涙を拭いながら続ける。


「知りたいの。

どんな人が、あなたを変えたのか」


「……変えた?」


「だって、今のあなた、昔と違う」


「何が」


「優しい」


小さく、笑う。


「昔は、もっと……冷たかった」


僕は、何も答えなかった。

確かに、変わった。

瑠璃に会ってから、少しずつ。


「……儚い人なんだ」


気づけば、そう口にしていた。


「儚い?」


「壊れそうで、でも強い」


梨華は、じっと聞いている。


「僕が壊れかけてた時、その人も壊れかけてた」


「……」


「でも、一緒にいるうちに、少しずつ立ち直れたんだ」


僕は、カップを置く。

音は、思ったより静かだった。


「その人がいなかったら、今の僕はいない」


梨華は、しばらく黙っていた。

やがて、小さく頷く。


「……そっか」


「……」


「その人を、大切にしてあげて」


「そのつもりだよ」


「私みたいに、後悔しないように」


梨華は、ゆっくり立ち上がる。


「……もう行くわ」


「梨華」


「ん?」


「君も、幸せになってね」


梨華の目が、揺れる。


「……ありがとう」


それだけ言って、彼女は去っていった。




彼女の背中が見えなくなったあと、胸の奥にあった重い石が、ゆっくり沈んでいくのを感じた。


軽くなったはずなのに、遠い季節の匂いだけは、まだどこかに残っていた。




窓の外を見つめる。

冬を越えた陽射しが、街をやさしく照らしている。


胸の奥に、静かで確かな区切りが、そっと落ちた。






【静かな水の中】


(瑠璃視点)


氷月さんが出かけてから、三時間が過ぎていた。


僕はリビングのソファに座ったまま、

何度も、何度も時計を見ていた。


大丈夫。

そう言われた。

信じてる。

そう答えた。


なのに、胸の奥が落ち着かない。



もしかしたら、戻らないかもしれない。

梨華さんと、やり直すのかもしれない。



考えないようにしても、

不安は、静かに染み広がってくる。


手が、震えた。


僕なんかより、ずっといい人なんだろうな。


息が、うまく吸えない。


立ち上がろうとして、膝が折れた。

そのまま寝室に入って、ベッドに丸くなる。


呼吸が浅い。

鼓動だけが、やけに大きい。



落ち着け。

大丈夫。


何度も、心の中で繰り返す。

でも、涙は止まらなかった。




どれくらい、そうしていたのか分からない。




玄関のドアが開く音がした。


「……っ」


体を起こそうとしたけれど、動けない。


「瑠璃?」


聞き慣れた声。


寝室のドアが開いて、氷月さんが入ってくる。


「……おかえりなさい」


掠れた声が、やっと出た。


「ただいま。具合、悪い?」


「……違います」


起き上がろうとした僕を、氷月さんがそっと制した。


「無理しないで」


「……すみません」


「謝ることじゃないよ」


ベッドの縁に腰を下ろす。


「……待ってる間、不安だった?」


僕は、小さく頷いた。


「……少し」


「ごめんね」


「謝らないでください」


俯く。


「僕が、勝手に不安になっただけで……」


「違うよ」


髪を、やさしく撫でられる。


「ちゃんと話せた。もう、終わったから」


「……終わった?」


「ああ。過去は、過去だ」


「……本当に、終わったんですか」


「ああ」


「……梨華さんは」


「もう会わない」



分かってる。信じてる。

それでも、もう一度だけ確かめずにいられなかった。



僕は顔を上げた。

氷月さんの目は、揺れていなかった。


「……本当に、いいんですか」


「何が?」


「僕なんかで」



眉をひそめて、ため息。


「君がいい。君じゃなきゃ、ダメなんだ」


視界が、滲む。


「……でも」


「でも?」


「僕、何もできないし」


「そんなことない」


「氷月さんみたいに、強くもない」


頬に、指が触れる。


「強くなくていい」


「……」


「弱いままでいい。僕が、守るから」


その瞬間、

張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。


「……っ」


「瑠璃」


「……怖かったんです」


「何が?」


「氷月さんが、他の人のところに行っちゃうんじゃないかって」


腕に、包まれる。


「戻らないよ」


「……」


「もう、君以外考えられない」


胸に顔を埋める。


「……ずるいです」


「何が?」


「そんなこと言われたら……離れられなくなる」


「離さない。ずっと、一緒にいる」




しばらく、何も言わずに抱き合っていた。




やがて、氷月さんが小さく声を落とす。


「瑠璃」


「……はい」


「少し、出かけない?」


「え?」


「今から」


僕は、顔を上げた。


「……どこに?」


「いいから。ついてきて」


そう言って、

氷月さんは、春みたいにやさしく笑った。





僕たちは、薄手のジャケットを羽織って外に出た。

春の夜は、まだ少しだけ冷たい。


「寒くない?」


「大丈夫です」


氷月さんが、そっと手を取る。


「……っ」


「冷えてるね」


指を絡められて、

体温が、静かに伝わってくる。


「……ありがとうございます」


言葉より先に、胸が温かくなった。



静かな住宅街を、並んで歩く。

街灯の下、雨上がりのアスファルトが、

春の光をやわらかく滲ませていた。


「……どこに行くんですか?」


「決めてない」


「え?」


「ただ、君と歩きたかった」


驚いて、見上げる。


「……そんな理由で」


「ダメ?」


「……ダメじゃ、ないです」


思わず、笑ってしまう。


街灯に照らされた横顔が、

いつもより近くにあった。


「瑠璃」


「はい」


「僕と出会って、後悔してない?」


足が、止まる。


「……どうして、そんなこと」


「ずっと、気になってた」


氷月さんが、立ち止まる。


「……閉じ込めてなかったかな」


「……」


僕は、首を横に振った。


「違います」


「……」


「氷月さんがいなかったら、僕は……」


言葉が、喉で詰まる。


「……生きてなかったかもしれない」


表情が、静かに変わる。


「だから、後悔なんてしてません」


握られた手を、ぎゅっと握り返す。


「出会えて、良かった」


「……そうか」

「はい」


また、歩き出す。




やがて、小さな公園が見えた。


「少し、休もうか」


ベンチに腰を下ろし、夜空を仰ぐ。

星が、淡く瞬いている。


「綺麗ですね」


「そうだね」




少しの間、言葉が途切れる。




「……氷月さん」


「ん?」


「……梨華さんと、ちゃんと話せたんですね」


視線が、重なる。


「……そう思う?」


「はい。もう、大丈夫ですよね」


「ああ」


肩を、そっと引き寄せられる。


「もう、前だけを見る」


「……僕も」


「ん?」


「僕も、前を向きます」


顔を上げる。


「氷月さんと、一緒に」


胸に伝わる鼓動が、少し速くなる。


「……ありがとう」


「こちらこそ」


寄り添ったまま、しばらく風を感じていた。

春の夜が、頬を撫でる。


「そろそろ、帰ろうか」


「はい」


立ち上がり、手を繋いで歩き出す。


「明日、行きたいところある?」


「え?」


「久しぶりに、二人で」


胸が、弾む。


「……じゃあ、水族館」


「水族館?」


「前に言ってましたよね。連れて行ってくれるって」



少し考えて、微笑む。


「覚えてたんだ」


「当たり前です」


「じゃあ、決まりだね」


「はい」





星空の下、マンションへ向かう。

繋いだ手は、もう冷たくなかった。






翌日。

僕たちは、都内の水族館を訪れた。

平日の昼間で、人はまばらだ。


「うわ……」


水槽の前で、思わず声が漏れる。

色とりどりの魚が、静かな水の中を優雅に泳いでいた。


「綺麗ですね」


「ああ」


氷月さんの視線を感じる。

魚じゃなくて、僕を見ている気がして、少し恥ずかしくなる。

視線を逸らしたまま、別の水槽を指さした。


「氷月さん、見てください。これ」


「ん?」


「クラゲです」


ゆらゆらと漂う、透明な身体。

淡い光を受けて、幻想的に揺れている。


「……君みたいだな」


「え?」


「儚くて、綺麗で」


胸の奥が、きゅっと熱くなる。


「……からかわないでください」


「本気だよ」


氷月さんが、そっと僕の腰に手を回した。


「……っ。人、いますよ」


「大丈夫。誰も見てない」


薄暗い館内。

水槽の光だけが、僕たちを包んでいる。


「瑠璃」


「……はい」


「ずっと、一緒にいよう」


「……はい」



僕は、氷月さんの胸に静かに身を預けた。



「ずっと、一緒です」



クラゲの水槽の前で、時間がゆっくり流れていく。



しばらく、二人で水槽の前に立っていた。

  


「氷月さん」


「ん?」


「クラゲって、流されてるだけみたいに見えるけど」


「うん」


「ちゃんと、自分で動いてるんだそうです」


氷月さんが、少し間を置いた。


「……そうか」


「はい」


それ以上、何も言わなかった。

でも、繋いだ手が、少しだけ強くなった。




周りに人の気配がないのを確かめてから、氷月さんが少し屈んで、僕の髪にそっと唇を触れさせた。



「……っ」


「ごめん、我慢できなかった」



何か言いたかったのに、声が出なかった。



クラゲが、ゆらゆらと揺れている。

水槽の光の中で、時間だけがゆっくり流れていた。





そのあと、イルカショーを見て、お土産屋さんに入った。



「これ、可愛い」


ペンギンのぬいぐるみを見つけて、思わず手に取る。


「買おうか?」


「いいんですか」


「欲しいなら」



少し迷ってから、頷いた。


「……じゃあ」



氷月さんが、支払いをしてくれる。


帰り道、僕はぬいぐるみを胸に抱えていた。


「気に入った?」


「可愛いなって」


「僕より?」


「……比べるものじゃないです」


小さく笑うと、氷月さんも笑った。


こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。

そんなことを、考えていた。




夕方、マンションに戻る。


「楽しかった?」


「はい。すごく」


「それなら、よかった」


氷月さんが、僕の頭をやさしく撫でる。


「また行こう」


「……はい」


ぬいぐるみをソファに置くと、氷月さんが少し考え込んだ表情をしていた。



「どうかしたんですか……?」


「昨日、梨華に君のことを少し話した」


「え?」


「儚い人だって、言った」


「……」


「怒った?」


首を横に振る。


「いいえ」


「……そうか」





しばらく、沈黙が落ちた。

窓の外、春の宵闇がやわらかく街を包んでいる。




「氷月さん」


「ん?」


「……まだ、何か言いたいことがありますよね」


氷月さんが、こちらを見た。


「……分かるんだ」


「なんとなく」



また、少し間が空く。



「……梨華と会って」


静かな声だった。


「ちゃんと終わったと思ってる。後悔もない」


「はい」


「でも」


「……でも?」


「全部、綺麗に消えたわけじゃない」


その言葉を、僕は黙って受け取った。


「君に、嘘をつきたくなかった」


「……」


「消えない部分も、ある。それでも——」




言葉が、途切れた。

氷月さんが、ゆっくりと手を伸ばしてくる。

頬に触れる指先が、かすかに震えていた。



「それでも、君のそばにいたい」



視界が、滲む。


「……僕も」




「瑠璃」


名前を呼ばれた瞬間、引き寄せられた。


唇が、重なる。


昼間の髪への口づけとは、違った。

もっと深くて、もっと静かで——

言葉にならなかったものが、全部そこに込められているみたいだった。



やがて、ゆっくりと離れる。


額を合わせたまま、氷月さんが小さく言う。


「……ありがとう」


胸の奥が、あたたかく溶けていく。


「こちらこそ」


繋いだ手を、ぎゅっと握る。


「……ずっと、そばにいます」


胸の奥に、まだ痛みに似た何かがある。

それでも、温かかった。




完全じゃなくていい。

過去が消えなくていい。

それでも、ここに二人がいる。

それだけで、いい。






最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

ひとまず、ここで区切りをつけました。

「ひとまず」と書いたのは、まだ書きたい気持ちが残っているからです。

二人のことが、まだ心の中でゆっくりと動いています。


梨華の場面は、悪役として描きたくありませんでした。

彼女もまた、焦りと恐れの中で間違えた人間です。

「ゆっくりやればよかった」という言葉は、私自身が何度も思ってきたことでもあります。

瑠璃と氷月の関係は、最初から「救済」だけじゃありませんでした。

救いたいという気持ちと、失いたくないという欲が、最初から絡み合っていた。

それでも二人は、少しずつ変わっていった。

氷月は「閉じ込めたいんじゃない」と言えるようになって、瑠璃は「信じたい」ではなく「信じている」と思えるようになった。

その小さな変化こそが、私が信じる二人の成長です。


水族館のクラゲの話は、ずっと書きたかった場面です。

流されているようで、ちゃんと自分で動いている。

それが、瑠璃という人間の全てだと思っています。 


完全じゃなくていい。

過去が消えなくていい。

それでも、二人はここにいる。

——これが、この物語の辿り着きたかった場所です。

氷月と瑠璃の時間が、これからも続いていくことを、私もどこかで信じています。

またいつか、続きをお届けできたら嬉しいです。


もし読んで何か感じていただけたなら、感想やコメントを残していただけると嬉しいです。

高評価やブックマークもしていただけたら、とても励みになります。

どうかよろしくお願いします。


読んでくださったあなたの日常に、この物語が少しでも寄り添えていたなら、それ以上のことはありません。

読んでいただき本当にありがとうございました。


2026年春 雨音美月


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