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愛してると呟く俳優は、僕を35階の部屋に縛りつけた ――飛べない蝶――  作者: 雨音 美月


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第6話 二人だけの海

街は、やわらかなざわめきで満ちていた。

買い物袋を揺らす人。

カフェの窓辺で笑い合う人。


みんな、それぞれの時間を生きている。

そして、

僕も、ようやくその中に立っている。

そう思えるようになった。



ふらりと、書店に入る。

新刊コーナー。

そこに、自分の本があった。


『冬の蝶』

佳作受賞作品。


自分の名前が、静かな活字になって並んでいる。

現実なのに、どこか遠い。


「あの……」


声に呼ばれて、振り向く。

若い女性が、少し緊張した面持ちで立っていた。


「もしかして、この本の作者さんですか?」


「あ……はい」


「すごい。読みました。とても、好きです」


「……ありがとうございます」


胸の奥が、じんわりと温かくなる。

初めて、言葉が誰かに届いた実感。


「次の作品も、楽しみにしてます」


「……頑張ります」


去っていく背中を見送りながら、

高鳴りは、なかなか収まらなかった。


僕の言葉は、ちゃんと誰かに触れている。

それが、こんなにも嬉しいなんて。





書店を出て、公園へ向かう。

ベンチに腰を下ろし、ノートを開く。

次回作のプロット。

まだ、輪郭は曖昧だ。

それでも、

書きたいことは、確かにここにある。

ペンを走らせる。

時間が、音もなく溶けていく。



幸せだ、と思う。

こんなふうに、何も恐れず、

ただ好きなことに没頭できる時間。

それが、どれほど——




「よう、瑠璃」




声が、背中に突き刺さった。

顔を上げる前に、身体が理解した。

血が、一気に引いていく。


振り向くと、

少し離れた場所に、男が立っていた。

五十代くらい。スーツ姿。

あの店の、客の一人。

心臓が、不自然な音を立てる。

男が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


逃げなきゃ——

頭では分かっているのに、

足が、動かない。



「久しぶりだな」



隣に腰を下ろされる。

距離が、近い。

息が、苦しい。


「……何の、用ですか」


声は、自分でも驚くほど震えていた。


「怖がるなよ」


男は、親しげに笑う。


「ただ、話がしたいだけだ。元気にしてるか?」


その、まるで知り合いに話しかけるような口調。

それが余計に、吐き気を呼ぶ。


「俺さ、お前のこと気に入ってたんだ。覚えてるか?」


覚えてる。

忘れたくても、忘れられない。


「あの店、辞めたんだって? もったいないな」


男の視線が、僕の身体をなぞる。

あの頃と、同じ目。

胸の奥に、冷たい影が広がっていく。


「誰かに、買われたって噂だ」


薄く笑う。


「いい客掴んだんだな」


違う。

氷月さんは、そんなんじゃない。


「……関係、ありません」


「まあまあ、そう固くなるなよ」


距離が、さらに詰められる。


「なあ、もう一度どうだ? 

 あの頃より、お前も垢抜けたしさ。

 金なら、前より払うぜ」


「……いりません」


立ち上がろうとした瞬間、

手首を掴まれた。


「離して!」


「そう急ぐなって。昔みたいに、さ」


男の顔が、近づく。


「あの頃は、もっと素直だったじゃねえか」


違う。

あの頃の僕は、

壊れて、声を失っていただけだ。


「離してください!」


力を込めて、振りほどこうとする。

けれど、男の手は離れない。


「おい、痛いだろ。落ち着けよ」


まるで、僕が悪いみたいに——





その瞬間。






「彼から、手を離してもらえますか」


低く、澄んだ声。


顔を上げると、

氷月さんが、そこにいた。


「……氷月さん……」


「大丈夫?」


優しい声。

けれど、男を見るその目は、凍るように冷たい。



氷月さんは、静かに僕の前に立つ。


「彼は、僕の大切な人です」


「大切ねえ」


嫌な笑い。


「こいつがどんな」


「知っています」


遮るように、きっぱりと言う。


「過去も、全部」


男の顔から、笑みが消える。


「それでも?」


「ええ」


迷いはなかった。


「彼に、二度と近づかないでください」


「何様だ、てめえ」


「警告です」



一歩、前へ。

氷月さんの声は、静かだが、揺るがない。



「次は、法的措置を取ります」



男は、氷月さんを睨みつける。

数秒の、重い沈黙。



やがて、


「……チッ、つまんねえ」


吐き捨てるように言って、男は去っていった。


氷月さんは、その背中を最後まで見届けている。

完全に姿が見えなくなるまで、微動だにしなかった。



そして——

姿が消えた途端、

膝から力が抜ける。


息が、うまく吸えない。

手が、震えている。


「瑠璃」


支えられて、崩れ落ちる。


「……ごめんなさい」


「謝らなくていい」


そっと、抱きしめられる。

強くない。

逃げ場を奪わない、腕。


「君は、悪くない」



——本当に?


心の奥で、小さな声が囁く。

でも、氷月さんの目は、嘘をついていない。

涙が、止まらなかった。

過去が、静かに胸を締めつける。


「瑠璃、聞いて」


顎に触れられ、そっと視線を導かれる。


「君を、誰にも渡さない」


強い声。

少しだけ、震えている。


「でもそれは……君を閉じ込めたいんじゃない」


深く息を吸って、言葉を選ぶように。


「君が、君自身として生きられるように。

 僕は、ただそばにいたいだけなんだ」


柔らかな微笑み。

その言葉が、どうしようもなく、救いだった。


そっと、氷月さんの胸に額を預ける。

温かい手が、背中をゆっくりと撫でてくれる。


静かな公園。

遠くで、鳥の声。

ここには、

もう恐怖はなかった。





マンションに戻り、ソファに腰を下ろす。

氷月さんが、お茶を淹れてくれた。


「飲んで。落ち着くよ」


温かいお茶が、体に染みていく。


「どうして、あそこに……?」


「君のメッセージを見て、心配になった」


「撮影は……」


「早く切り上げたよ」


少し困ったように笑って、続ける。


「君のことが気になって、仕事どころじゃなかった」


胸が、きゅっとなった。


「あの男は……」


「……昔の、店の客です」


言葉にするのは苦しかった。

でも、隠したくなかった。


「辛かったね」


氷月さんが、手を握る。


「もう来させない。君は、僕が守る」


その声が、心強かった。




シャワーを浴びながら、涙が止まらなかった。

声も、視線も、触れられた感覚も、全部が蘇る。


戻ると、氷月さんがすぐに気づいた。


「……泣いてた?」


「少しだけ」


「辛かったね」


隣に座り、そっと抱き寄せられる。

ただ、温もりを分けるみたいに。


「眠れそう?」


首を振る。


「じゃあ、ココアにしよう」


甘くて、温かい一口が、胸の奥を緩めていく。


「……落ち着いてきた」


「良かった」


静かな夜。

二人で並んで、カップを持つ。


「今日のこと、警察に……」


「大丈夫です。

もう、関わりたくなくて」


「わかった。

でも、何かあったら、必ず言うんだよ」


「約束します」


氷月さんが、ほっとした顔をした。


「少し、楽しい話をしようか。

これからのこと」


その提案に、胸が温かくなる。



「……はい」


「じゃあ……」


氷月さんは少し考えてから言った。


「瑠璃、行ってみたい場所はある?」


「場所……?」


「旅行とかさ」


旅行。

そんなこと、考えたこともなかった。


「……分かりません」


「そっか」


窓の外を見ながら、氷月さんが言う。


「僕はね、瑠璃と海に行きたい」


「海……」


「朝、二人で散歩して。

夜は、星を見るんだ」


その景色を想像して、胸がじんわり温かくなる。


「素敵ですね」


「だろ?」


氷月さんが、少し照れたように笑った。


「いつか、行こう」


「はい」


「約束だ」


「約束します」


少し間を置いて、氷月さんが続ける。


「それから……瑠璃の小説、映画になったらいいな」


「え……?」


「『冬の蝶』、すごくいい作品だよ」


「映画なんて……」


「なるよ。瑠璃の才能なら」


そして、冗談みたいに言った。


「その時、僕が出演できたら嬉しいな」


「え?」


「瑠璃の世界に、入ってみたいんだ」


その言葉が、胸に深く残った。


「夢だけどね」


「……でも、叶うといいですね」


「うん」


「瑠璃は?」


「僕……?」


「将来、やってみたいこと」


少し考えて、正直に答えた。


「……一緒に、暮らし続けたいです」


「え」


「氷月さんと。ずっと」


氷月さんが、驚いた顔で僕を見る。


「それが、僕の一番の夢です」


氷月さんは、そっと手を取った。


「僕も同じだよ」


「本当に?」


「ああ。ずっと一緒にいよう」


その言葉が、胸に沁みる。


「時々、ぶつかることがあっても」


「それでも……一緒に、乗り越えたいです」


「うん。乗り越えよう」


少し明るい声で、氷月さんが言った。


「それと、料理も一緒にしたいな」


「料理?」


「休日に、二人でブランチ作って」


「それから、映画とか、本とか」


「普通の日常」


普通の、日常。

それが、何より欲しかった。


「……それが、一番幸せかもしれません」


「そうだよね」


「あと……」


少し照れたように言う。


「猫、飼いたいな」


「猫……」


「家族が増える感じ」


「いいですね」


「いつか、叶えよう」


「はい」


気づけば、深夜だった。

でも、不思議と心は落ち着いていた。


「眠くなった?」


「……少しだけ」


「じゃあ、寝ようか」


「……もう少し、話していたいです」


「いいよ」


そして、氷月さんが静かに言った。


「ありがとう、瑠璃」


「え……?」


「一緒にいてくれて」


「僕を、変えてくれて」


涙が、溢れた。


「僕の方こそ……」


「生きていけます。氷月さんがいるから」


「二人で、支え合おう」


「はい」


ベッドに入り、氷月さんの腕の中に包まれる。

強くない、ただの温もり。


「今日は、怖かったね」


「……はい」


「でも、もう大丈夫」


「僕がいる」


目を閉じると、

怖い記憶は浮かばなかった。


海。

並んで歩く背中。

料理をするキッチン。

猫のいる部屋。


全部、優しい光に包まれていた。


「夢、叶えましょうね」


「ああ。一緒に」


その声を聞きながら、眠りに落ちる。


朝。

穏やかな寝顔を見て、思う。


大丈夫。

二人なら、前に進める。


朝日が、静かに差し込んでいた。






【桐谷さんと氷月さんの共闘】


それから、数日が過ぎた。


最初の夜は、悪夢を見た。

二日目は、外に出るのが少し怖かった。

でも三日目には、氷月さんと近所を散歩できた。


「大丈夫?」


「……はい。一人じゃないって、思えたので」


桐谷さんが訪ねてきたのは、その翌週だった。

春の日差しが、窓から優しく差し込む午後。


「瑠璃君、顔色が良くなりましたね」


「ありがとうございます」


心から、そう言えた。


「今日は、新作の資料について話しましょうか」


「はい」


テーブルに、本が並べられていく。

氷月さんも、なぜか真剣な顔で横に座っている。



「瑠璃君、これも参考になりそうです」


桐谷さんが、さらに一冊置く。


「ありがとうございます……でも、もう十分すぎるような……」


僕の前には、本と資料が二十冊以上。


「足りない」


氷月さんが即答する。


「瑠璃の小説には、完璧な準備が必要だ」


今日は新作の資料集め。

編集者の桐谷さんと、なぜか本気すぎる恋人が並んでいる。


「今回のテーマは、喪失と再生、それから新しい関係性の築き方ですね」


桐谷さんが確認すると、僕は頷く。


「喪失、再生、新しい関係……」


氷月さんが真剣にメモを取っている。


「氷月さん、そこまでしなくても……」


「する」


即答だった。


「瑠璃のことは、全力で支える」


桐谷さんが小さく笑う。


「本当に大切にされてますね」


「当然です」


そのやり取りが、少し微笑ましい。


「心の回復についての資料は、これで十分だと思います」


「本当に?」


氷月さんが疑う。


「多すぎても、瑠璃君が消化できません」


「……そうなんですか」


少ししょんぼりする氷月さん。


「じゃあ次は、取材ですが」


桐谷さんが言う。


「臨床心理士の先生にお話を伺えます」


「本当ですか!」


思わず声が出た。


「来週の火曜、午後二時からです」


「僕も同行します」


「え?」


二人同時に声が出る。


「撮影があるでしょう?」


「調整する」


氷月さんは真剣だった。


「でも……」


桐谷さんが言葉を選ぶ。


「一人の方が、話しやすいかもしれません」


氷月さんは黙り込む。


「……一人で大丈夫か、心配なんです」


その気持ちは嬉しかったけど。


「大丈夫です」


僕は手を取った。


「一人でも、ちゃんと話せます」


「……分かった」


「終わったら、連絡して」


「はい」


その様子を、桐谷さんが優しく見ていた。


「次は、回復支援に関する事例集ですが」


「待ってください」


氷月さんが手を上げる。


「許可は取ってありますか?」


「これから――」


「取ってからにしてください」


即断だった。


「心配性ですね」


「瑠璃のことになると」


少し照れて笑う。


「可愛いですね」


思わず言うと、顔が赤くなった。




休憩時間。

三人でコーヒーを飲む。


「資料、すごい量ですね」


「まだ足りません」


「高遠さん」


桐谷さんがやさしく言う。


「作家には“余白”も必要なんです」


「余白……」


「全部を埋めると、想像力が動かなくなる」


氷月さんは考え込んだ。


「……やりすぎてました?」


「愛情が溢れすぎてるだけです」


その言葉に、さらに赤くなる。


「邪魔だった?」


「いいえ」


僕は首を振る。


「すごく嬉しいです」


氷月さんは、ほっと息を吐いた。




夕方。

桐谷さんが帰る前に言った。


「瑠璃君は、もう大丈夫ですよ」


その言葉に、氷月さんが僕を見る。


「……そうだね」


ドアが閉まったあと。


「やりすぎた?」


「少しだけ」


「ごめん」


「でも、嬉しかったです」


抱きしめると、氷月さんも腕を回した。


「瑠璃の夢を、叶えたいから」




夜。

資料をめくりながら思う。


支えてくれる人がいる。

信じてくれる人がいる。


ちゃんと、届く小説を書こう。


傷ついた過去を持つ自分と、同じように立ち止まってしまった誰かのために。


顔を上げると、

氷月さんが少し離れた場所で本を読んでいた。


見守ってくれる距離。

今の僕たちに、ちょうどいい。


不完全でもいい。

一緒なら、進める。







【秘密のドライブデート】


春の夕方。

窓の外では、風に揺れた若葉がやわらかな影を落としていた。

部屋に差し込む光は、まだ少し頼りなくて、でもあたたかい。


スマホが、静かに震える。


『今、仕事終わった。これから迎えに行くね』


氷月さんからのメッセージ。


『お疲れ様です。どこか行くんですか?』


『秘密。楽しみにしてて』


秘密。

その二文字が、胸の奥でそっと揺れた。


少しだけ、鼓動が早くなる。


三十分後。

インターホンが鳴る。


ドアを開けると、

そこに氷月さんが立っていた。


黒いシャツに、デニム。

キャップを深く被った、いつもより少しだけラフな姿。


「準備、できてる?」


「え……今からですか?」


「ああ。ドライブに行こう」


「ドライブ……?」


「二人きりで」


その一言が、胸に静かに染み込む。


「……はい。すぐ行きます」


駐車場。

黒いスポーツカーが、夕暮れの薄紫の中で静かに息をしていた。


「どうぞ」


助手席のドアを開けてくれる。


「ありがとうございます」


座ると、革のシートが身体を包み込む。

安心する匂い。


「シートベルト」


「はい」


カチリ、と小さな音。

エンジンがかかり、低い振動が足元から伝わってくる。


「じゃあ、出発」


車は、ゆっくりと街を抜けていく。

やがて、視界が開けて、海沿いの道へ。


夕暮れの空が、淡いオレンジに溶けていた。


「……きれい」


思わず、声がこぼれる。


「だろう?」


ハンドルを握ったまま、氷月さんが微笑む。


「この時間が、一番好きなんだ」


窓を少し下ろすと、潮の香りと、少し冷えた春風が入り込む。


胸の奥が、静かになる。


「どこへ行くんですか?」


「それも、秘密」


いたずらっぽく、目を細める。


「でも……瑠璃が、きっと好きな場所だと思うよ」


その言葉に、

理由もなく、頷いてしまった。


行き先よりも、

この時間が、すでに大切だった。



信号が、赤に変わる。

車は、静かに止まった。


「瑠璃」


「……はい?」


名前を呼ばれて、視線が絡む。

氷月さんが、少しだけ身を傾けた。


唇が、重なる。


「……っ」


触れるだけのはずなのに、

熱が、ゆっくりと広がっていく。


「ん……」


名残を惜しむみたいに、そっと離れた。


「氷月さん……」


「……ごめん。可愛くて、つい」


照れたように笑うその表情に、胸が締めつけられる。


信号が、青に変わる。

車が動き出しても、鼓動は置いていかれたままだった。


少し走って、また赤信号。


「瑠璃」


呼ばれる前から、もう分かっていた。


今度のキスは、

さっきより、確かに長い。


「……んっ、氷月さん……」


息が、近い。


「可愛い」


低い声が、耳元に落ちる。


「顔、真っ赤」


「……氷月さんの、せいです」


「信号で止まるたび、したくなるんだ」


そんなふうに言われたら、

熱が引くわけがない。


「それ……危ないですよ」


「大丈夫。青になる前には、ちゃんと離れる」


楽しそうに笑う横顔が、ずるい。


三つ目の信号。

赤。


今度は、待たなかった。


「……瑠璃?」


自分から、そっと近づく。


驚いたように見開かれた目。

でも、すぐに優しく細められる。


唇が、深く重なる。


「……ん」


頬に触れる手が、迷いなくて。

親指が、やさしく撫でる。


「……瑠璃」


名前を呼ばれるだけで、胸がいっぱいになる。


「好きだ」


真っ直ぐな声。


その言葉が、

胸の奥に、ゆっくり沈んだ。


「……僕も、好きです」


信号が、青に変わる。


離れたくなくて、

それでも氷月さんは、ぎりぎりのところで距離を取った。


「続きは……またあとで、ね?」


囁かれて、心臓が跳ねる。


車は、海沿いの道を走り続ける。

夕陽が、海に溶けていく。


オレンジ、ピンク、紫。

空も、恋みたいに滲んでいく。


「もうすぐだよ」


「……どこですか?」


「行けばわかるさ」


いたずらっぽい声。


車は、細い道へ入る。

木々に囲まれた、静かな場所。


そして、

視界が、ゆっくり開いた。



「着いたよ」





そこは、展望台だった。

車を降りた瞬間、視界いっぱいに海が広がる。


「……わあ」


思わず、息を呑む。

夕陽が水面に反射して、きらきらと揺れていた。


「きれい……」


「だろ?」


氷月さんが、隣に立つ。


「ここ、あまり人が来ないんだ」


「秘密の場所、ですか?」


「ああ。僕たちだけの」


その言葉が、胸にそっと灯る。


展望台の端に、ベンチがあった。

二人で腰を下ろす。


海風が、やさしく頬をなでる。


「瑠璃」


「はい?」


差し出された手を、取られる。


「今日ね、ずっとこうしたかった」


「こう……?」


「二人きりで、どこかに来ること」


指と指が、自然に絡む。


「誰にも邪魔されない時間」


「……嬉しいです」


「僕も」


微笑む横顔が、夕焼けに溶けていた。


「瑠璃と、こうしてるだけで幸せだ」


その言葉が、胸の奥に静かに沁みる。

夕陽が、ゆっくりと沈んでいく。

空の色が、少しずつ深まっていく。


「ねえ、瑠璃」


「はい?」


「さっき、車の中で」


少しだけ、照れた声。


「自分から、キスしてくれたよね」


「……はい」


頬が、熱くなる。


「嬉しかった」


「……え?」


「瑠璃から、してくれるなんて」


向けられる視線が、やさしくて、熱を含んでいた。


「もっと……してほしいな」


胸が、跳ねる。


「今、ですか?」


「……ダメ?」


「ダメじゃ、ないです」


距離が、静かに縮まる。


「じゃあ……」


唇が、触れる。


さっきよりも、ゆっくり。

時間を、気にしなくていい。


「……ん」


手が、腰に回されて、引き寄せられる。


「瑠璃……」


名前を呼ばれる声が、甘い。


「好きだよ」


「……僕も」


また、唇が重なる。

何度も、確かめ合うみたいに。


離れた時、少し息が乱れていた。


「……氷月さん」


「なに?」


「ちょっと……強いです」


困ったように笑う。


「ごめん。でも、抑えきれなくて」


「外、なのに……」


「誰もいない」


確かに、周囲には人影がなかった。

世界に、二人だけが残されたみたい。


「でも……」


「もう少しだけ、いい?」


潤んだ目で見つめられて、逆らえない。


「……少しだけ、なら」


今度のキスは、さっきよりも、やさしい。


確かめるみたいに、ゆっくり。


「……ん」


唇が、首元へ移る。


「……っ」


「ここ、弱い?」


囁きが、耳に触れる。


「……わかりません」



正直な答えに、くすっと笑う気配。


指が、ゆっくり髪の後ろに回される。

逃げ場をふさぐみたいで、でも、優しい。


「力、抜いて」


言われた通りにすると、肩に触れていた手がそっと包むように下りてきた。


抱き寄せられる。


強くない。

でも、離さない距離。


「……ありがとう」


小さな声。


「……いえ」


首元は、触れられただけなのにじんわりと熱を持っている。


「顔、赤い」


「……氷月さんの、せいです」


「触れてるだけなのに?」


少しだけ、楽しそう。




夕陽が沈み、

空は、深い青に変わっていく。


「そろそろ、帰ろうか」


「はい」


立ち上がろうとした瞬間、

また、抱きしめられた。


「……氷月さん?」


「もう少しだけ」


甘えるみたいな声。


「今日、撮影中……ずっと瑠璃のこと考えてた」


「早く会いたくて」


「触れたくて」


耳元で、囁かれる。


「だから……もう少し」


その言葉が、胸を満たす。


「……はい」


しばらく、その温もりの中で動けなかった。



やがて車に戻り、エンジンをかける。

でも——




「あれ……?」


氷月さんが、少し困ったように眉を寄せる。


「どうしたんですか?」


「道、間違えたかもしれない」


「え……」


「ちょっと、迷った」


そう言って、照れたように笑う。


「ナビ、見ますか?」


「いや、大丈夫。たぶん、こっち」


本当に大丈夫かな、と思いながらも、

その横顔を見ているだけで、不安は薄れていった。



結局、三十分ほど遠回りした。


「ごめんね、瑠璃」


「いえ……」


不思議と、嫌な気持ちはなかった。

氷月さんと、二人きりの時間が、少し延びただけ。


「お腹、空いた?」


「……少しだけ」


「じゃあ、どこか寄って帰ろう」


海沿いに、小さなレストランを見つけた。

控えめな灯りが、夜に浮かんでいる。


「ここ、良さそうだね」


「はい」


店内には、他に二組だけ。

窓際の席に案内される。


「何にする?」


「えっと……パスタにします」


「じゃあ、僕も同じの」


注文を終えて、窓の外を見る。

夜の海。

月明かりが、波の上で揺れていた。


「……きれい」


「うん」


氷月さんの手が、そっとテーブルの上で触れる。

指が絡み、そのまま離れない。


「今日は、楽しかった」


「……僕もです」


「また、こうしてドライブしよう」


「はい」


約束みたいに、頷いた。


料理が運ばれてくる。


「美味しそう」


「食べよう」


ゆっくり、同じ時間を味わう。

時々、氷月さんが僕の皿から一口取る。


「……どう?」


「うん。瑠璃の、すごく美味しい」


「氷月さんのも……」


そんな、どうでもいい会話が、愛おしい。


帰り道。

車の揺れが心地よくて、瞼が重くなる。


「瑠璃、眠い?」


「……少し」


「寝ていいよ」


「でも……」


「大丈夫。着いたら起こす」


その声が、やさしくて。

目を閉じると、すぐに意識が沈んだ。


「瑠璃、着いたよ」


名前を呼ばれて、ゆっくり目を開ける。


「……あ」


「よく眠ってた」


「ごめんなさい……」


「謝らなくていい」


微笑みながら、続ける。


「可愛い寝顔、見れたから」


胸の奥が、くすぐったくなる。




部屋に戻る。


ドアが閉まった瞬間、外の世界が遠のいた。

氷月さんがジャケットを脱ぎ、ふっと息をつく。


「楽しかった?」


「……はい。とても」


「それなら、よかった」


距離が、静かに縮まる。


「瑠璃」


「……はい?」


視線が合ったまま、離れない。

その目に、隠しきれない熱が宿っていた。


「今夜……」


言葉の続きを待つ前に、胸が高鳴る。


「……いいですよ」


その一言に、氷月さんがやわらかく微笑んだ。





ベッドルームは、間接照明だけが灯っていた。

柔らかな光が壁をなぞって、影がゆっくり揺れる。


ベッドに腰掛けたまま、向かい合う。

触れ合う距離だけが、近すぎる。



「瑠璃……」


抱き寄せられた腕が、思ったより強い。

守るみたいで、欲しがるみたいで。



唇が重なる。

深く、ゆっくり、確かめ合うように。


「……ん」


呼吸が、溶け合う。


「好きだよ」


低い声が、胸の奥に落ちる。


額に、頬に、首元に。

触れる場所が変わるたび、体が熱を帯びていく。


「……恥ずかしい?」


「……少し」


「でも、綺麗だ」


囁きが、甘い。


抱きしめられるたび、

大切にされているのが分かって、胸がいっぱいになる。


「……氷月さん」


「なに?」


「……離れないで」


答える代わりに、

もう一度、深く抱きしめられた。


「……瑠璃」


名前を呼ばれただけで、胸がきゅっと縮む。

次の瞬間、唇が重なった。


さっきよりも、深く。

逃がさないみたいに、強く。


「はぁ……っ、ん……」


呼吸が追いつかなくて、

息を吸う場所さえ、奪われる。




やがて、静かに呼吸が整う。


「……大丈夫?」


「はい……」


体は少し重いのに、心は満たされている。

背中を撫でる手が、最後まで優しい。


「瑠璃、愛してる」


「……僕も、愛してます」



そのまま、氷月さんの腕の中で目を閉じた。

甘い余韻が、夜に溶けていく。




翌朝。


目を覚ますと、隣で氷月さんが眠っている。

穏やかな寝顔。


昨夜の名残が、肌に残っている気がして、

そっと微笑む。


窓の外では、朝日が昇り始めていた。


新しい一日。

また、隣にいられる一日。


それだけで、十分だった。


そっと、頬にキスを落とす。


氷月さんが、わずかに微笑んだ気がした。





あの日から、数日が過ぎた。

特別な出来事は、何もなかった。


朝は一緒にコーヒーを飲んで、夜は他愛のない話をして、静かに抱き合って眠る。

穏やかで優しくて、少し前の自分ならきっと怖くなっていたような日常。

でも今は、この時間をちゃんと受け取れている。


春は、いつの間にか深まっていて、街の空気も少しだけ落ち着いてきた。

氷月さんは忙しそうだったけれど、それでも必ず連絡をくれた。



『今日は遅くなる。瑠璃、無理しないでね』


短い言葉。

でも、そこに嘘はないと思えた。


——信じたい、じゃない。

信じている。


そう自分に言い聞かせた。

だから、胸に浮かんだ小さな違和感も、きっと気のせいだと思うことにした。




ある夕方。

メッセージが届く。



『今夜、都内で仕事がある。少し遅くなる』


映画祭のレセプション、と添えられていた。

僕は「頑張ってください」と返した。


華やかな場所は、きっと氷月さんの世界だ。

僕は、家で待つ役目を選んだだけ。


ただ——

いつもなら「今日は何してた?」と聞いてくれるのに、今日はそれがなかった。


些細なこと。

本当に、些細なこと。

それでも、胸の奥に小さな影が落ちた気がした。


その夜、華やかな照明に包まれたホテルで、氷月さんが過去と向き合うことになる。


僕は、まだ知らない。







第6話を読んでくださり、ありがとうございます。

冒頭の公園の場面を書くのは、苦しかったです。

書店で自分の本に出会えた、あの温かい瞬間の直後に、過去が追いかけてくる。

幸せな場面を選んで、影が差し込んでくる。

あの男は悪役ではなく、瑠璃にとって「あの頃の自分」を映す鏡です。

瑠璃の震えは、恐怖だけじゃなく、あの頃の自分への悲しみでもあったと思っています。


中盤の桐谷と氷月の場面は、書きながら自分でも笑ってしまいました。

全力すぎる恋人と、やさしく窘める編集者。

愛情が溢れすぎるのも、それはそれで愛おしい。


ドライブの場面は、信号のたびにキスをする、甘々な話です。

書いていて、一番幸せでした。

「自分からキスしてくれた」と照れる氷月を書けたことが、特に嬉しかった。

二人の距離が、確かに変わっている。


それでも最後の一文は、不穏なまま終わらせました。穏やかな日常の水面に、まだ澱は沈んでいます。

それが、次回への扉です。


【次回予告】

華やかなレセプション会場で、氷月は過去と向き合うことになる。

マンションで待つ瑠璃は、いつもと少し違う夜の空気を感じていた。

(……気のせい、だよね)

その胸の影が、少しずつ大きくなっていく。


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